春夢の狭間で

9話 邂逅



「ふああ〜〜、眠……」
 夕闇が満ちた屯所の一室で総矢は大きな欠伸をした。
「聞いているか?」
 机を挟んで座っている妹が眉一つ動かさずに口を開いた。表情が動かないので怒っているのかはわからないが、目つきと霊気が冷たい。
「ちゃーんと聞いてるって。今日は機嫌悪いな、甲矢。眠いん?」
「一緒にするな」
 取りつく島のない妹に肩を竦める。
 千年以上前、弥生の元で薬師の修業をしていた頃は、よく笑っていた。今となっては信じられないが、毛虫を怖がって泣きながら逃げたかと思えば、朝陽が桜を染めるのを見て感動して泣くような感受性の強い奴だった。
 甲矢の顔から感情が消えたのは、あの妖変からだ。甲矢だけではない。現在、里に残っている者のほとんどが妖変で誰かを喪い、甲矢のように千年経った今でも引きずっている。霊獣にとって千年など人間の二、三年くらいの感覚だ。総矢のように全く(表面上は)なんともなく振舞っている者は少数派だ。
 甲矢によると、自分と似た顔の兄がへらへらしているのを見ると腹が立つらしいが、こういう性分なので仕方がない。
「続けるぞ」
「と、ちょい待ってくれ。どこまで聞いたっけ……」
 自分の前に広げられた資料を手に取ると、甲矢が心の底から見下した目をした。
「今夜の巡察予定に入るところだ。望殿と一真殿は二班から参加される」
「あ〜〜、そうだった、そうだった。んで?」
 甲矢は深々と溜息を吐いた。
「まったく、里の武術士が情けない。一真殿と望殿を見習ってはどうだ?」
「へ?」
 意外な言葉に思わず妹をマジマジと見た。
「どうかしたのか?」
「いや、なんでもねえ……」
 ひらひらと手を振り、いつもの笑みを浮かべた。
「そいつは無理だわ。お前だってわかってんだろ?あの御二方は別格だって。今のままで宵闇に移っても十分務まるよ。凄すぎて俺のお手本にはならねえわ」
 一般的に天狗よりも霊獣のほうが戦闘力を始めとする能力は強いが、宵闇は別だ。彼らは隠人といっても、霊獣の生まれ変わりなだけでなく、霊獣だった前世で高い戦闘力を誇っていた猛者達だ。元々、霊獣の中でも戦闘力に特化した者が天狗として霊獣に匹敵する強靭な器を手に入れ、霊山の修業を積んで腕を磨くばかりか、現の戦い方まで取り入れ、妖獣との戦いを経て成長し続けていくのだ。霊獣を超える者が出てくるのも当然だろう。
「……なら、せめて足元に近づくようにしろ。あと寝るな。ちゃんと聞け」
 冷たく言い放ち、甲矢は淡々と説明を再開した。

(しょーがねえだろ……、俺だって疲れてんだからさ……)

 昨夜は望と一真が資料探しの後に会議に入ってしまい、深夜まで一人での邪退治だった。悪いことに、昨日は望が西組の他の隊の担当区域を回る日で、日が暮れてから数時間は西組の担当地域を飛び回った。浅城町に比べれば邪霊が少なくて弱いのが救いだが、それでも一人で回るには広すぎる。現で日付が変わる時間に浅城町に戻ってくれば、優秀な補佐が包囲網をいくつも完成させていて片っ端から叩いて回っているうちに、ようやく望が参加してくれた。一真はというと、また異常覚醒があったらしく組長命令で昨日は自宅待機だったから、二人で浅城町を走り回って夜が明けた。
 自分でも思う以上に疲れていたらしく、今朝は用意してもらった食事もそこそこに布団に突っ伏して爆睡してしまった。
 恐ろしいことに、望はその後、僅かな仮眠をとって学校に行き、一真や甲矢と昨日の会議の続きをやっていたらしい。さすがに昼間は一真が包囲網回りをやっていたようだが、望の体力と霊力は恐ろしい次元だ。武術士の自分が恐ろしくなってくるほどに。

(やっぱおかしいって……。望殿はホントに隠人なのか……?いや、それを言うなら、斎木の旦那も……)

 一真が入隊する前までは、あの超過密巡察を望が一人でこなしていたという。
 自分でも飽きっぽいとかサボり癖がある自覚はあるが、霊力や体力は武術士としての基準より上なほどだ。その自分がキツいと感じるような巡察を軽々と連日こなせる望が、普通の隠人であるはずがない。
 そして、その望とほぼ互角の戦闘力を持つという一真。紋が開くなり風を使い、望と共に鏡面と戦ったらしい。それだけでも信じがたいのに、入隊して僅かひと月ほどで、あの雄緋と対峙して生還したという。望も一緒だったというが、どれだけ規格外だとしても、たかが二人の鎮守役が切り抜けられるほど先代里長は甘い相手ではない。たとえ、鞍馬の宵闇の術が助けたとしても――。
 ふと、あることを思い出して眼が冴えた。

 ――旦那は……、紋が開いてまだ三ヵ月も経ってねえ……

 全ては僅か二ヶ月ほどの間に起きたこと――。
 よく望を化け物だというが、状況だけを考えれば、一真こそ望以上の化け物ではないか。
 いくら望が一緒にいたとはいえ、紋が開いたばかりの不安定な状態で鏡面と戦い勝利し、あの鏡から生還した。鏡からの生還に至っては、望は療養が必要なほどの重傷だったというのに、一真は後遺症もなく平然としていて――。

 ――旦那……、おかしすぎねえか……?

 京の霊筋だから雄緋の妖気の影響を受けなかった――、それは直接妖獣と対峙した場合、当てはまらない。
 隠人が妖獣本人から直接大量の妖気を浴びれば、即座に致命傷だ。鏡の中で雄緋と戦ったというならば、妖気を相当な量浴びているはず。ひとたまりもないはずなのだ。
 一真が本当に隠人ならば……、生きているはずがない……。
 そして、それは望にも当てはまる。いや、雄緋の件だけならば、望のほうが異常だ。
 里の霊筋の者が先代里長の大量の妖気を浴び、斬りつけられて――、何故、生きている……?
 千年前の惨劇が過り、ゾッと肝が冷えた。
 即死でもおかしくなかった。いや、即死していなければおかしい状況だった。
 本当に隠人だというならば、二人とも生きているはずがない。

 ――あの人達は……、何なんだ……?

 一真が巡察中に戦っているところを目にしたが、太狼の太刀筋ではない。斎木家は天狼に近い霊筋だというから、あちらの太刀筋なのかもしれないし、現で身に着けたものなのかもしれない。ただ、霊符と組み合わせた動きが宵闇に近かった気がする。
 対して、昨夜の巡察で見た望の太刀筋は見事なほどに太狼そのもので――。

(隠人なんかじゃねえ……)

 最初は評判以上の戦闘力に驚いただけだった。だが、一緒に行動すればするほど違和感だけが大きくなっていく。

 あの二人は何者なのか?
 やはり天狗なのか?
 それとも――、かつて里の術師が危惧したという妖獣を封じた器なのか?

 近くで彼らを見ていても、違和感の先に辿り着くことはできない。
 彼らは鎮守役として頭抜けているかもしれないが、天狗のように達観しているわけでもなければ、自身の力に呑まれているというわけでもない。頭抜けた戦闘力と異様に肝が据わっていることを除けば、普通に笑ったり冗談を言ったりする十代の人間だ。天狗の転生体特有の前世の記憶も持っていない。
 むしろ不気味なのは霊山だ。彼らのことは信濃からの報告で把握しているはず。なのに、この妖変も含めて鞍馬は何の動きもない。まるで、全てを観察しているように――。


「以上だ。質問は?」
 冷たい声にそれまでの考えを引っ込めた。
「ん〜〜、大体は昨日と同じだろ?望殿達が学園で霊域の痕跡をあたってる間、俺一人で包囲網回り、んで、封じ目が見つかったら望殿達と交替して霊域に印つけて保管庫守ってる奴らに知らせたら終わりって感じだろ?」
「その通りだ。くれぐれも足を引っ張らんようにな」

 ――まただ……

 妹の明らかな変化に眉を顰める。
 小言を言うのはいつものことだが、以前は総矢のだらしなさをひたすら攻撃してきた。こんな、誰かを比較の対象に出したり、相手への影響を気遣うようなことはよほどのことがない限りなかった。それこそ、里長と重鎮達の話し合いに参加する時くらいしか――。

(甲矢も何か勘付いてるってことか……?)

 隠人も人間も霊獣も等しく他人に興味がないような妹が気にかけているのだ。もしかしたら、何かを掴んでいるのかもしれない。
 例えば、一真の治療中に何かの兆しを見かけたとか――。
「なあ、甲矢……、斎木の旦那ってさ。なーんか隠人らしくねえって思わねえ?」
 空気が冷たく張りつめた。
 無表情な甲矢の目がいつもの五割増しほど冷たくこちらを見据え、霊気が攻撃的に高まっていく。

 ――ヤベ……、俺、なんか怒らせるようなこと言っちまったみてえだ……

 心当たりはないが、甲矢から放たれているのは殺気だ。威嚇などではなく、本気の。
「一真殿が……、どうかしたか……?」
 殺気が膨れ上がった。「余計な詮索をすれば……、殺す」――、冷たい眼がそう告げた気がした。
「や、そのさ、斎木の旦那の蝕って、今、どんな感じなん……?ほ、ほら、昨日だって異常覚醒起きたんだろ……?あんだけ破邪が強かったら、そろそろヤバいんじゃねえかな〜〜ってさ……」
 頭をフル回転させて何とか当たり障りのない話題にすり替える。だらだらと背中を流れていく汗が冷たくて生きた心地がしない。
「ああ、そのことか」
 殺気が消えた。空気が緩んでいく。

 ――助かった……

 こめかみに浮かんだ汗をジャージの袖で拭いながら息を吐いた。打ち合わせの最中に実の妹に理由もわからず暗殺されるなんて……、嫌すぎる。
「あまりよくない。一真殿の破邪は強すぎるゆえ、邪霊ごときに叩きつけたところで全てを発散しきれず器を焼いてしまう。今はまだ対処できるが、この先――、仮にも妖獣と対峙するようなことになれば更なる力の解放が必要となる……。いかん……。戦いにでもなれば蝕の進行が大きすぎる。なんとしてでも遠ざけねば……」
 後半は総矢に、というよりも自分自身に言っているようだった。やや不安げな口調は本当に心配しているのだろう。妹が他人の身を案じる姿なんて久しぶりに見た。

 ――まさか、旦那を気に入ってんのか……?

 思えば、この間、松本医院で一真の脚を診たあたりから甲矢の態度が少し変わった気がする。
 鎮守役と対策室の会議に制服を着込んで参加してみたり、昨日なんて一真に異常覚醒があったからといって遅くまで治療していた上に家まで送っていたらしく、巡察中に眠そうに神社に戻るのを見かけた。あれは確か、夜の十一時を過ぎた頃。いつもなら甲矢はとっくに寝ている時間だ。

(ありえねえ……。里の奴ならともかく、霊筋重視の甲矢に限って隠人に惚れるって……。や、でも、旦那は隠人っつーより宵闇めいてるから、有りなのか……?いや、そーじゃなくて、甲矢に好きな奴ができるってことは……)

 もう少し人らしくなるということじゃ……?
 この、呪いの人形のような無表情が笑顔を浮かべたり、冷たい口調が柔らかくなったりということを期待できるのではないだろうか。昔のように感情豊かなところまで戻るのは無理でも、少しは優しくなってくれるかも……。
「あ〜〜、えっとさ、そんなんで霊域探しなんかやっても大丈夫なん?昨日は望殿が組長命令出してまで休ませたっていうし、間違って玉響に入っちまったら異常覚醒起きるかもしれねえし……」
 妹の恋愛事情が気になったものの、外れていたら消されそうなので無難なところでやめておいた。
「そうだな……。ご負担になることは控えねば……。玉響は器に良くないだろう……」
 甲矢は顎に手を当てて何やら考え込んだ。好意というよりは、里長の補佐役のような口調だ。
「学園で診た時は落ち着いておられたから、参加を止めなかったが……」
「んじゃ、とりあえず問題なしってことな。りょーかい」
「全く問題がないというわけではない。あくまで、昼間は落ち着いておられたというだけだ。だから、万一、不調が表れた時は、」
 黒い瞳が獲物に狙いを定めた毒蛇のようにこちらを見た。
「死ぬ気で護衛しろ、総矢……。蝕ならば、夜中でも私を起こせ……。サボるなよ……?」
「あ……、ああ……。任せとけって……」
 逆らったら呪い殺されそうな迫力に、ただ頷いた。





「千年前に造られたかもしれない道の痕跡探しか……。気が遠くなるような話だね」
 松本医院の一室に冷静な声が響いた。
「ダメ元ですよ。少しでも可能性があるならやってみないと……」
「まあ、何もやらないよりマシだからね。夜番の最中に探すのかい?」
「ええ。夜のほうが探しやすいですから。二班が始まるまでの間なら、総矢殿一人でも問題ないでしょうし」
 学校が終り、昼番も落ち着いた夕暮れ時。
 見舞いを兼ねて望と訪れた松本医院の病室で、優音は普段とまるで変わらない様子で鎮守隊のスケジュール管理をしていた。違うのは入院中らしく寝間着姿だということくらいだろう。
「一班だけの間だったら、かなりのペースで回らないといけないね……。場所の見当はついているのかい?」
 一真と望に椅子を勧め、自らはベッドサイドに腰を下ろした優音は手帳を開いた。
「実際に視てからになりますけど、隠人が玉響と道を開こうとしたら、よほど霊気が安定した場所じゃないと難しいですからね。いくら槻宮学園でも、そんなスポットはそんなに多くないから、ある程度は絞れると思うけど……」
「時間との勝負だね。斎木君と二人がかりでも、玉響が絡むんじゃ手分けして探すのは危険すぎるわけだし」
「そこなんですけど、玲香さんが一緒に来てサポートしてくれるんですよ。前もって対策室がポイントをいくつかリストアップしてくれるそうですし、かなり効率よく回れるんじゃないかなあ」
「玲香君が?よく協力してくれたね。向こうだって大忙しだろうに」
「今回は対策室が全面協力してくれて、僕達が校内を回っている間、実働班が学園内を巡回してくれるそうですよ。霊域の兆しがあったり、痕跡みたいなものがあったら、すぐに連絡をくれるって」
「なるほどねえ。対策室がそこまで協力してくれるってことは、保管庫がそれだけ厳しいってことだね……」
 顔を上げた優音の額には絆創膏はない。あの鬼化が嘘だったように白い額には傷跡すらない。このまま落ち着いているようなら、数日で退院できるらしい。
「できる限り早く学園から遠ざけたいんでしょう……。いくら霊術師が抑えてるっていっても、破片が集まるごとに妖気が強まっていくんです。気が気じゃありませんよ」
「だろうねえ……。その保管庫担当の霊術師殿は何て?」
「『現在は問題なし』の一点張りです。甲矢殿も時間があれば確認に行ってくれてるけど、外からじゃ限界がある上にリアルタイムでの把握は無理らしいですよ」
 甲矢は鎮守隊と葉守神社の担当だ。保管庫にかかりきりで結界を維持している霊術師は他にいて、彼らは結界の内側に入っている。交替の時だけ外に出てきて対策室と神社に定期報告を入れてくるが、その間の変化は外からはわからない。
 甲矢がこまめに保管庫を見に行っているといっても定期報告をいち早く手に入れられる程度で、現状は結界の中に入らないとわからないらしい。
「僕達としては報告の合間に何も起こらないことを祈るだけですね……」
「厄介なことになったもんだね……」
 望と優音は憂鬱な顔で溜息を吐いた。こんな光景を補佐に目撃されて噂にでもなれば、西組の士気が下がりまくりだろう。
「そーいえばさ、里は武術士とか霊術師が出てきてるけど、霊山ってあんま出てこねェよな。ホントに信濃から宵闇出てんの?」
 一真は勢いよくコーラのペットボトルを開けた。プシュッという音がどんよりした空気を軽くしてくれた。
「信濃の宵闇全員が出撃してくれていますよ。西組には総矢殿が常駐してくれてるから、他の組に行ってるんじゃないかなあ」
「宵闇なあ。オレ、入隊してから一回しか見てねェけど……」
「おや、もう会ったのかい?」
 優音は逆に驚いたような顔をした。
「斎木君が入隊してから宵闇に応援要請したことはなかったはずだけど……」
「会ったっていうか、空飛んでるのを見たっていうか……」
「宵闇が浅城町の上空を渡ったのかい?」
「珍しいでしょ?この間の巡察で宵闇が真上を通って行ったんですよ」
 望は少し明るい口調でペットボトルの水を一口飲んだ。

 ――ついでに、そこの饅頭も食え……!食うんだ……!

 三人の真ん中に置かれた椅子の上には、午前中に優音の親が持ってきたという饅頭が置かれている。部屋に入るなり優音が待っていたように棚から取り出して開けて勧めたが、もちろん、望の栄養補給用だ。
「僕も宵闇を見たの、久しぶりでしたよ。一真君は、ある意味、ラッキーでしたね」
 にこにことしながら望は饅頭に手を伸ばすことなく話し始めた。
 向かいで同じくこっそりと望の手元に注目していた優音と目が合い、小さく落胆し合う。今日も強硬手段しかなさそうだ。
「浅城町は宵闇の飛行ルートから外れてるから、滅多に通らないんですよ。最近、信濃に新しい宵闇が加わったって聞いたから、その人だったのかもしれないなあ。あんまり感じたことのない霊気でしたし……」
「へえ、珍しいね。信濃に新任の宵闇が来るなんて」
「新任って……、宵闇って、転勤なんかあんのか??」
 少し意外だった。一つの霊山に所属したら動かないと思っていた。
「詳しく知りませんけど、全国の霊山を飛び回る人と、所属霊山の管轄地域だけを担当する人がいるみたいですよ。信濃は同じ人がずっといますよね、壬生君?」
「そうだねえ……、僕も入隊してから信濃の宵闇が異動した話は聞いたことないなあ。伝令役の話を聞いてる限りじゃ、全国規模で飛び回るのは宵闇でも格上で、援軍として各地に駆けつけてるみたいだね。このタイミングで信濃に新しい宵闇が赴任したんだとしたら、腕利きが加勢に来たと思いたいけど……」
「どうかなあ……。信濃から鞍馬に状況を連絡してるらしいですけど返事はないみたいですし、里の内紛みたいなものだから、霊山は本当に関わるつもりないのかも……」
「霊山と里の関係は微妙らしいからねえ……。現を巻き込むなら、せめて妖気が外に漏れないようにするだけでも力を貸してほしいんだけどねえ」
 優音はベッドサイドの棚に置いたマグカップを手に取った。
「まあ、今回は運が良かったと思うしかないね。斎木君に噛みついた文献が新しい保管庫探しの突破口になる可能性がある術だったんだから」
「……そーなんだけどさ……。あれ、マジで危ねェよ……。邪霊よりよっぽど凶暴じゃねェか……」
 左手を振ってみせる。傷はもう消えているが、けっこう痛かった。
「そんなに?呪法って、手に吸いついて霊力を奪うだけって聞いていたけど……」
「オレもそー聞いてたけどさ、持った途端、手に食い付いてきたぜ……。霊力食いやがるし、邪鬼でも憑りついてんじゃねェかって勢いだったって……」
「それはまた……、凶悪だなあ。夏休みに隊からも片づけの応援を出そうって話が出てたけど、考え直した方がいいかもしれないね」
 自分が手伝う時のことを考えたのか、優音は少しブルーな顔をした。
「たぶん、一真君だからじゃないかなあ……」
 顎に手をやり、望は唸った。
「げ〜〜。なんだよ、それ……。あーいうのに好かれたくねェよ……」
「好かれるっていうか……、あの文献に書かれてたの、京の術式だったでしょ?千年前に京の術式を書き残せたのって一真君か玲香さんのご先祖だけなんですよ。玲香さんにも反応してましたし、二人のご先祖が共有していたのかも……」
「あ〜〜、そうだっけな……」
 ちなみに玲香は発動しようとした文献を蚊でも叩くように手刀で黙らせていた。あの年で対策室を束ねている理由を垣間見た気がしたのはさておき。
「それじゃ、槻宮家が使ってきた術式だったのかい?」
「どちらかというと、京の霊山で使われてる術らしいですよ。鞍馬から伝わったんじゃないかって玲香さんは言ってましたけど」
 書かれていたのは、現から玉響へと続く道の開き方だった。玉響へ行くだけならば総矢達が知っているが、肝心なのは術式が隠人用にアレンジされたものだという点だ。
 千年前の妖変の後、里は現から玉響に隔離されたが、完全に封印されるまでに数年かかったという。その間、京から来た槻宮家の者も隔離された里へ足を運んだことは記録されているが、その手段までは記されていない。
 霊山や里が一時的に造った道を使い、里の封印後に道を消した――、それが長い間の通説だった。
 だが、あの術式が見つかったということは、槻宮家が自ら道を開いていた可能性があることを意味している。
 実際は用がある度に自ら道を開いていたのだとしたら……。玉響へ行く術を応用して、隔離された霊域へ入っていたのだとすれば、当時、使っていた道の痕跡がどこかに残っている可能性がある――。
 昨夜と昼休みに甲矢を加えた四人で話し合った結論がそれだった。
 隠人の力では玉響への道を開くことはできても、完全に消し去ることは難しい。まして、妖変の後で霊域が不安定だったならば、現側で安定させる為の基盤を設置したはず。その痕跡が残っていてもおかしくない。目に見えるものでなくても、基盤が発している霊気の揺らぎや、不安定さを見つけることができれば、そこから霊域を探し出すことが可能かもしれない。
 その基盤が現存し、まだ力を持っているならば、あの夜、霊域が開いたのは、その痕跡の一つが一時的に霊域と繋がったからだ、という仮説さえ成り立つ――。
「ところで組長。痕跡が見つかったらどうするつもりだい?まさか、三人で霊域に入るつもりじゃないだろうね?」
「総矢殿と交替ですよ。僕達じゃ霊域と現を繋いだりはできませんから」
「安心したよ。それなら危険は少なそうだ」
 優音はマグカップを啜り、少し表情を改めた。
「ところで、二人に相談したいことがあるんだけど……」