春夢の狭間で

5話



 地図、地図、地図……。
 パラパラと冊子を最後まで捲り棚に戻したら、隣の冊子を出して……。何度目かわからない不毛な作業から顔を上げて光咲は息を吐いた。次の冊子を手にしようとして端まで到達していたことに気づく。
(地図らしいのはないなあ……)
 千年以上前の地図だというから、日本史の資料に出てくるような墨で描かれた地図なのだろうけれど、それらしいものは見当たらない。文章で記されているかもしれないからと軽く目を通してはいるが、どれも聞いたこともないような薬草の名前や里でしかできないような栽培方法ばかり。刃守の里そのものの文献には出会えていない。

「不思議だよね……」

 ポツリと呟いた。
 ここにあるのは千年以上前の文献ばかりだと聞いている。新しいものでも百年以上経っているのがほとんどだという。確かに紐で綴じられた冊子は歴史番組でよく出てくるような仕様だし、文字も墨で書かれている。なのに、紙も墨もほとんど劣化しておらず、そんなに気を遣わなくても普通にページを捲れるし、薄くなっている文字もなく普通に読むことができる。何よりも不思議なのは、光咲はそれらを教科書を読むようにすらすらと読むことができる。けっして古典が得意なわけではないのに、だ。
(これが……、刃守の里の霊筋っていうことなのかな……)
 本棚にも水晶が組み込まれていて、ほわりと温かい光を灯している。リラックス効果は抜群だが文字を読むには暗くて読書には向かない程度の明かりにも不便さを感じることがない。この空間にいるからなのか、それともこれが紋付の隠人の能力なのか――、光咲にはいまひとつわからなかった。
(私……、たぶん、もう人間じゃないんだろうな……)
 ほんの二ヶ月前までは、こうなることが怖くて眠れなかった。だけど、今はあの時悩んでいたのが嘘のように紋付の自分に抵抗はない。それどころか――。
 棚の横の休憩用の椅子に座り込んだ。一応叩いてみるが、あまり埃はついていないようだった。それでも資料室から出たら念入りにスカートを叩いておかないといけないだろうけれど。
 鞄からお茶の入ったペットボトルを取り出して一口飲むと思ったよりも喉が渇いていて、今度はしっかりと喉に流し込んだ。腕時計は午後四時を回っている。かれこれ一時間ほどが経っただろうか。
(今日中に見つけるのムリなんじゃないかな……)
 逢魔が刻まであと一時間少し。光咲が探している棚はまだ一つ目だから、この壁のような棚一つ一つを探し終るのはいつになるのか全く終わりが見えない。
 棚三つほど向こうでは一真が足の踏み場のないエリアを片づけながら探しているらしく、「あ〜〜!クソ、これもハズレじゃねェか!」という呻きとドサドサと雑誌を重ねるような音が聞こえてくる。すぐ隣でというわけにいかなくても、本棚を少し挟んだ同じ空間で作業をしている――、そんな些細すぎる事が嬉しくて、少し耳を澄ました。

 ――変わってないなあ、一真君……

 ガサツそうに見えるが、意外と几帳面で綺麗好きで面倒見が良くて。小さい頃からそうだった。鎮守役にならなければ、部活でもやって店の手伝いをしながら忙しいけれど普通の高校生活を送っていただろう。そうだったら自分も現衆の講習なんか参加せずに普通に――。

 ――そんなわけ、ないか……

 振り払うようにかぶりを振った。
 一真が町に戻ってきた時、光咲はもう覚醒が始まっていた。あの時、一真はまだ覚醒していなくて――、詩織が鏡面にとり憑かれたりしなければ、今でも覚醒しないままだったのかもしれない。

 自分だけが紋付の隠人として覚醒していれば、それまでのように笑えただろうか?
 化け物になってしまったことを隠して普通の人間のふりをして――、一真や詩織に会えていただろうか?
 今、こうしていられるだろうか?


(そっか……)


 寂しいけれど、これでよかったんだ……。

 霊格も立場も大きく違う。けれど同じ紋付の隠人だから、傍にいることに罪悪感を持たなくてもいい。ただ傍にいることに嘘をつかなくてもいい。きっと、これが正解なのだ。きっと。

 だから……、これ以上、望んじゃいけない……。きっと……気づいちゃいけない……。

 ぼんやりと眺めていた棚が滲んだ。
「……化け物でも、いいから……」

 どうして……、私だけが、こんなに弱いの……?

 若菜のように鎮守役を目指せなくても、詩織のように霊格が高ければ、同じものを視たり感じたりできたのに。
 変わらないと思っていた大切なモノがどんどん遠くへ、自分だけを置いて行ってしまうような気がした。
「さき……、光咲……?」
 棚三つ向こうからの呼び声に夢から醒めたように顔を上げた。
「一真君?どうしたの?」
「どうだ、そっち?なんかあったか?」
「ごめん、なんにも見つかってない」
「オレもだ。時間ヤバかったら言ってくれ。たぶん、これ、今日で終わらねェ……、うお、崩れやがった!」
「うん、わかった」
 思わず吹き出し、目元を拭った。

 ――よし、頑張ろう……!

 不思議なくらい元気が湧いてきて立ち上がった。踵に当たった膝くらいまでの山が音を立てて崩れた。
「……やっちゃった……」
 でも、いっか。
 一真も向こうで派手に崩していると思うとなんだか楽しくなってきて、鼻歌を歌いそうな勢いで屈んだ。崩れたのは先ほどまで見ていた棚のものよりも古い文献の山だった。
「ん……?」
 冊子を拾い集めていた手に妙な感覚が触れた。十冊ほどの冊子をどかすと、やけに存在感を放つ冊子があった。「桜霊法」と題されたそれは文献の海に埋もれてしまえば、まず見つからないような薄っぺらな冊子だった。
(なんだろ……、他のよりも古いみたいだけど……、変な感じ……)
 一瞬、玲香が言っていた「呪法」が浮かんで手にするのを躊躇するが、自分程度の霊格なら何も起こらないと自身に言い聞かせる。探しているのは千年前の刃守の里の地図だ。古い文献のほうが見つかる可能性は高いはず。
 恐る恐るページを捲った手が止まった。ドクリと心臓が跳ねた。
「……霊気の……増幅……?」
 びっしりと文字で埋められたページには「禁呪」と赤文字で書かれている。手にしているとうっすらと霊気を感じることといい、玲香が言っていた呪法の文献の類に違いない。
(荒野さんに知らせたほうがいいよね……)
 辺りを見渡すが、甲矢の姿はない。そういえば、十五分ほど前に地下に行ってくると一真に言っているのが聞こえた気がする。こくりと喉が鳴った。
 ほぼ呪法で間違いのない文献なんて、これ以上見ていいはずがない。発動しないとしても、書かれた内容は門外不出になるほど危険なもののはずだ。何より、光咲は鎮守隊員でさえない、ただの手伝いだ。自分が何かやれば、信用してくれた一真にも迷惑がかかってしまう。

 だけど……、本当に、そんな方法があるのなら……。

 文献を持つ手が小刻みに震えた。

 ――少し、だけ……

 ほんの少しだけ。地図を探す為に少し読むだけだから。それくらいなら、いいよね……。

 自分に言い訳をして目を落した。
 とてつもなく悪いことをしているような気分なのに、頭はやけに冴えていて文字をぐんぐんと吸収していく。
 それは修業方法ではなく、霊気を増幅させる霊薬の製造方法だった。

 ――この方法なら……

 簡単に手に入る道具や材料ばかりではない。だが、現衆に正式に入れば手に入るものばかりだ。必要とされる霊気もさほど多くなく、乙程度の霊格でも何とかできそうだ。

 ――私でも……、霊格を上げられる……?

 一真君や若菜、詩織ちゃんと同じ場所に立てる……?

 ガタンと本棚に何かがぶつかる音がして我に返った。
「あ……、私、今……」
 なんてこと考えてたんだろ!?
 禁呪を使って霊格を上げようだなんて……。
 ほんの数秒前の自分にゾッとしていると一真の霊気が急激に高まった。
「こいつ……!勝手に霊気吸ってんじゃねェっっっ」
 慌てたような声と同時にバタバタと紙がはためく音とギュンッと何かが軋む音がした。
「一真君!?」
 思わず読んでいた文献を積み直した山の上に置いて立ち上がり、床に散らかった巻物をワタワタと飛び越えて棚の角を曲がった。
 腕をぶんぶんと振り回している一真の手に先ほどの冊子と同じような妙な感じのする巻物が握られていた。ただ、その巻物からは霊気が立ち上り、霊圧が文献を吹き飛ばしている。
「一真君!それ、もしかして……!」
「離れろ、光咲!呪法だ……!クソ、手にくっついてやがる……!」
 巻物から黒い靄が漂っては周りの空間がガラスを擦り合わせたような音を立てる。音が上がった空間に黒い筋が奔っては消えた。とんでもなく危険なことが起きようとしていることはわかるが、何をすればいいのか皆目見当もつかない。講習ではこんなこと、実技はもちろん、座学で聞いたことすらない。
「いいから、いったん外に出ろ!」
 怒鳴りながら一真は右手で巻物を掴んだ。引き離そうとしているようだが、巻物はビクともしていない。
「で、でも……!」
 彼が言っていることはわかる。自分なんかがいても何もできないことも。
 だけど――。
 教室での睦月と一真の姿が過った。入学したばかりの頃、睦月はよそよそしい態度で一真と話していた。なのに、最近は睦月のほうから率先して一真のサポートに回るようになった。一真と話している時の睦月がどこか嬉しそうに見えるのは、気のせいだろうか?
 睦月だけではない。望が入院したあたりから一真を訪ねてくる上級生が増えた。皆、何年来の友人のように親しげで、一真の周りにはいつも誰かがいる。幼馴染だからといって、光咲が入り込んでいける余地はほとんどなくなってしまった。
 彼らが補佐だということは彰二から聞いた。上級生から訪ねてくるということは西組の鎮守役として一真が皆に認められている証拠だと。力に惹かれる狼の霊筋にとって、霊格の高い実力者は年齢を問わず敬われるのだ、と。
「お、おい!?光咲っっ!?」
 慌てた一真の声が耳元で聞こえた。霊圧に触れた指先がヒリヒリと痛む。
「なにやってんだ!?」
 いつの間に駆け寄っていたのかわからない。気がついたら巻物を両手で掴んで引っ張っていた。
「こ、これ、引き離せばいいんだよね!?」
「やめろ!離れろ!!お前の霊格じゃ歯が立たねェ……!!」
 制止が聞こえないふりをして巻物を掴む手に霊気を込める。

 ――私だって……ッ

 補佐のように邪を抑えられなくても、霊符を使えなくても。
 巻物を引き離すくらいできるはずだ。こんな時くらい、役に立てるはずだ。いいや、役に立ちたい。そうでないと……!
「くっ!離れ……ろぉ……ッ」
 台風の中で突っ立っているような霊圧に体が飛ばされそうになるのを、足を踏ん張って耐える。少し巻物からの抵抗が止んだ。
 もう少し……!
「離れろ!光咲!!」
 不意に肩を押された。手から巻物が離れ、数歩たたらを踏む。

 ――え……?

 一真が右手で巻物を掴み、抱え込むようにしながら大きく飛び退くのが見えた。
 背を向けた彼を中心に突風のような霊圧が叩きつけ、息が詰まる。講習で習った受け身をとることもできず、吹き飛ばされるように文献の山に倒れ込んだ。紙の山がクッションになってくれたが、霊圧が叩きつけた腹と胸が水面に打ちつけたように痛んだ。
「光咲っっ!?」
「な、なんとも、ない……、よっ」
 精一杯普通の顔をして体を起こした。何が起こったのかわからないが、自分が失敗したことだけはわかる。
「今すぐここから出ろ!オレのことは気にするな!!」
「そ、そんなの!できないよ……!」
 棚に掴りながら立ち上がる。「逃げる」という選択肢だけは採りたくなかった。
 巻物の周りに黒い亀裂のようなものが走った。
(なに……、あれ……?)
 亀裂は火花のようにチカチカと走っては大きくなっていく。
「一真君!」
「逃げろ、光咲!!」
 怒鳴り声が黄色い光に呑み込まれた。温かな暖色に慣れた目に黄の光が刺さって反射的に目を閉じる。
「甲矢……」
 どこか安堵した一真の声に凛とした声が重なった。一定のリズムで流れる言霊に従い、霊圧が止んでいく。黄の残像が残る目を必死に開けると、一真のすぐ隣に制服姿の少女が佇んでいた。
「驚いた。なかなかに強力なものが紛れているのだな……」
 本当に驚いているのかわからないくらい淡々と言い、甲矢は一真が手にしている巻物に霊符を貼りつけて引き剥がすように奪った。
「これで問題ないだろう。大事はないか?」
「は〜〜。助かったぜ、甲矢。玉響に飛ばされるかと思ったって」
「礼には及ばん。玲香殿によると地下の呪法の書が随分と少ないらしい。一階にかなりの数が紛れている可能性が高いゆえ、気を付けてほしいとのことだったのでな。この様子では、共に行動したほうが良さそうだな」
「そーみてーだな……。いきなり手にくっつくとか洒落になんねェよ。頼んだぜ」
「ああ、任されよ」

 ――え……

 跳ねた鼓動に体の痛みが消えた。
 甲矢は相変わらずの無表情だ。だが、一真にお礼を言われた時、頼まれた時、微かに頬が赤くなった。本当に一瞬だけだったけれど、どこか嬉しそうで……。

 ――もしかして、荒野さん……?

 そんなはずがない。彼女は霊獣だ。一真はどれだけ強くても隠人だ。霊獣が隠人に好意を寄せるはずがない。

 だけど、それなら……、たった今の彼女の表情は……、なに……?

 狼の霊筋は高い霊格に惹かれる――、そんな彰二の言葉が不吉な呪文のように頭の中に木霊した。
「光咲!?怪我はねェか!?」
 顔を上げると、すぐ傍に一真の顔があった。いつ傍に来たのか全く気付かなかった。
「う、うん。ちょっとびっくりしちゃったけど……」
 素早くこちらの様子を窺い、一真はふうっと息を吐いた。
「ったく、無茶しすぎだろ。ああいう時は逃げちまってくれ」
「ごめん……」
 情けないくらい声が沈んだ。
「や、なんていうか……、さっきのは、あの巻物が性質悪かったからってことで、光咲が悪いってわけじゃ……。どっちかっていうと、オレがやらかしたんだし……」

 ――違うよ、一真君……

 指示に従わなかったのは自分だ。霊的な事件が起きているのに、鎮守役の指示に従わなかったなんて――、現衆としても失格だ。
 気を遣わせているのが申し訳なくて、唇を噛んだ。甲矢がいなければ泣き出してしまっていたかもしれない。
「あ〜〜、怪我がねェなら、それでいいんだ。その霊格であの霊圧の中に入ってくるなんて、普通できねェよ。根性出し過ぎだって」
 彼は頬を掻いた。言いにくいことを口にする時の癖だ。
「その、さ。思ったより危ねェみてェだからさ……」
「だ、大丈夫だよ!荒野さんもいるし、危なそうだったら近づかなかったらいいんだよね?」
「なんか、さっきから無理してねェか?神社とか補佐がいるとこならともかく、この面子で気ィ遣うことねェぜ?」
「し、してないよ?」
 一真は少し霊気を視るような仕草をした後、ドキリとするほど真面目な顔をした。
「お前、昔からギリギリまで我慢するとこあるからさ……。普段はそれでもいいけど、鎮守隊系のはホントにヤバいんだ。ちょっとでもキツかったら早めに言ってくれ。そうじゃなきゃ……、守りきれねェ」
「うん……。ありがとう……」
 最後まで普通の声を出せたのは奇跡に近かった。なんとか笑い、逃げるように引き返す。角を曲がる時に振り返ると、甲矢が一真の左手に白い布を当てて両手で包み、呪を唱えていた。布を湿らせた赤に鼓動が跳ねた。

 ――怪我……してたんだ……

 あんなに近くで話したのに……、気づかなかった。気づけなかった。あんなに血が出ていたのに……!

 重たくなってしまった体を引きずるようにしてなんとか元の棚の前に戻ると、スカートが汚れるのも忘れて座り込んだ。

(私……、私……ッ)

 なんてダメなんだろう……!

 あの時、さっさと逃げていたら一真は自力で呪法を振り切っていたかもしれない。上手く立ち回れていたかもしれない。あんな怪我をしないで済んだかもしれない。

 なのに、自分みたいな無力な部外者がいたせいで――。

(ごめん……!ごめんね、一真君……!)

 こみ上げてくるものを抑え込んで目元を拭う。それでも滲んだ景色は変わらずにまた目元を拭った。
 少し晴れた視界に「桜霊法」がいやにくっきりと映った。