春夢の狭間で





 闇の中で桜が揺れた。
 隔離された霊域を吹く風は微かな邪気を孕んでいる。かつて、ここには多くの霊狼を束ねる刃守の里長の館があった。

「霊染め桜……、この地で目にすることができようとはな……」
 指先に触れた花びらが色を変え、圭吾は目を細めた。
 樹の周りを漂う霊気は一人のものではない。一つはよく知る霊気。千年を経ても浄化の力を失わない強大な水の気だ。もう一つは、知らない火の気。そして、微かに残る火と木の霊気――。
 背後で気配が動いた。
「何か御用ですか?」
 細いながら凛とした声が草原に響く。
「迷い込まれたのならば即刻お立ち去り下さい。ここは妖獣が生まれた忌むべき地……」
「承知している」
 圭吾は体ごと振り向いた。巫女の装束に身を包んだ少女は警戒も露わに若草色の瞳を鋭くした。炎がゆらりと細い体から立ち上った。
「お初にお目にかかる。俺は笹貫圭吾。鞍馬所属にして風狼斎様直属の宵闇。現在はあの御方の代行を務めている」
「風狼斎様の……?」
 細い眉が僅かに動いた。
「その火の霊気。刃守の姫君とお見受けする」
「……私は刃守弥生。かつての里長・刃守雄緋の妹です。この強い金属性の霊気……。貴方は天狼……、霊獣ですね?」
「いかにも」
 少女を包む霊気が赤く爆ぜた。
「狼の霊獣、それも鞍馬の宵闇ならばあの御方のご身分をご存じのはず。たとえ直属の部下だとしても、軽々しく名を出すことは許されません。代行者ならば、その証をお示しください」
「証か……」

 ――懐かしい響きだ……

 遙か遠い故郷での日常が過った。あの時はこんな場所まで来て、あんな奔放な男に仕えることになるなどと思いもしなかった。
「何を笑っておられるのです?」
 少女の顔に怒気が浮かんだ。
「もしも、偽りだというならば、私も狼の霊筋として御三家の名を騙る者を許すわけにまいりません」
 自らの口元に笑みが浮かんでいることに気づき、笑みを深くする。当たり前すぎるやりとりが新鮮にすら感じる。それほどまでに、この地で永い時間が過ぎた。
「確かに礼を欠いていたようだ。現に長居しすぎたゆえ、ご容赦願いたい。証ならば、ここに」
 圭吾は右手の黒い手袋を外した。
「それは……」
 弥生が目を見張った。
 露わになった手の甲で交差する刀と丸星が白く光り、刀に守られるかのように角のような三角形が二つ、白と碧に灯っている。三角形の大きさは同じだが、その形状はいくらか異なっている。
「刻紋……?」
「さよう。武家ならば知っておられるだろう。己の紋に他者の紋を刻むは揺るがぬ忠誠の証。この碧の紋は風狼斎様より直々に賜ったゆえ、こうしている今も彼の方と繋がり、風を宿している。主よりの信用を示す証として、これ以上のものはないと思うが?」
「笹貫殿……、と仰いましたね?」
 紋と圭吾の顔を交互に見つめ、弥生は居住まいを正した。
「向かい合う刀の紋は御三家縁の家柄の証……。私の記憶に間違いがなければ、天狼御一門の分家に笹貫という姓があったはずです。もしや、貴方は……」
「それ以上の詮索はご無用」
 圭吾は静かに息を吐いた。
「刃守一門の三兄妹の中で、最も当主たる資質を秘めているのは末の妹君だと、彼の方は仰っていたが……。確かに、兄君達よりも刃守の名を継ぐに相応しいかもしれんな」
 弥生は動じることなくこちらの言葉を待っている。圭吾が確信を抱くには十分だった。
「我ら霊獣にとって、この身は仮初の器。我らの本体は霊体であり、それは器が死した後に真価を発揮する。貴女が器を失っても尚、この地に留まっているばかりか、霊染め桜の霊力を増幅するだけの力を保っているように――」
 圭吾は若草色の瞳を見つめた。
「あちらの記憶が戻っておいでなのだろう?恐らく、きっかけは肉体の死と、この桜に宿る霊気。あるいは、あちらで強い縁を持っていた上位の者と接触したか……。いずれにせよ、貴女の覚醒は疑いようがない。その荒ぶる火の霊気と俺の真の素性を知っていることがその証だ」
 沈黙が落ちた。風の音が霊域を満たす。
「天狼御当主の親戚筋の方に隠すことはできませんね……」
 観念したように弥生は息を吐いた。
「ご推察の通りです。あの妖変で私は体を喪った後、輪廻に加わることもなく霊体となって彷徨い、この霊域に辿り着きました。ですが、目覚めたのは、ほんのひと月ほど前。ある方々の霊気に触れた時です。あの時まで私の時間は兄に殺された夜のまま止まっておりました。あの夜から千年も経っているなんて……」
 圭吾は碧の紋に触れた。
「この場には我が主の霊気が残っている。覚えておられぬやもしれぬが、貴女はこの場所で我が主に会っているはずだ。今宵、俺がこの霊域に入ったのはあの御方の導きだったのだろう」
「お会いしたことは覚えております。ですが……」
 弥生が言葉を切った理由を察する。
「かつての姿とあまりにも違っていた、と?」
 不安げに頷きながらも、彼女は「何故?」と問おうとしない。彼女なりに大まかな事情を察しているのだろう。
「あの御方のことは俺に任せてもらいたい。それなりに長く仕えているのでな。それよりも、こたびの妖変は貴女の力も必要になるやもしれん。望まぬ戦いだろうが、風狼斎様の御為、狼の霊筋としてその力をお貸し願いたい」
「私とて刃守の端くれです。里の者の仇討を避けるつもりはありません。たとえ仇敵が兄であったとしても。いえ、兄だからこそ、逃げるわけにまいりません」
「感謝する」
 軽く頭を下げると、弥生は驚いたように目を丸くした後、微笑んだ。
「……一つだけ。ご無礼を承知でお尋ねします、笹貫殿」
 彼女は少し躊躇いながら口を開いた。
「二つの刻紋を抱いておられるということは、貴方には二人の主がおられるということ……。それは、命を賭して守るべき方が二人いらっしゃるということです。貴方の霊筋を考えると、本来の主は風狼斎様ではないのでしょう?」

 ――驚いた……

 猛将が多い狼の霊筋の中で、刃守家は珍しく知将を多く輩出する家柄だと聞いたことがある。この少女もその素質を強く受け継いでいるのだろう。圭吾の素性に勘付きながら物怖じしないところといい、当主となる器は十分に備えている。
「ご明察、と言っておこうか」
 少女は顔を曇らせた。
「たとえ刻紋を二つ抱いたとしても、同時に二人の主に忠義を尽くせるはずがありません……。戦いの場においては、どちらかお一人を選ばねばならないでしょう。風狼斎様はこのことを……」
「むろん、御存じだ」
 少し考え、圭吾は笑った。

「ご心配には及ばん。あの御方はこの程度のことを気にかけるような繊細な神経を持ち合わせておられぬのでな」