妖風薫りて





 障子の向こうで霊気が動いた。
 冊子を捲る手を止め、圭吾は入口へ向き直った。
「笹貫殿。少し宜しいですかな」
「むろん。お入りください」
「調べ物の最中に申し訳ございませぬな。例の妖獣の資料をお持ちいたしましたぞ」
 入ってきた烏天狗は手にしていた冊子を圭吾の前に供え物のように置いた。
「今回の妖獣は、刃守の里の前里長殿でしてな。里の者にとってもやりづらい相手のうえに、武蔵国の隠人への影響も計り知れませぬ。既に現にも妖気が流れ込んでおるが、封具の所在が掴めぬので、こちらも打って出ることができん。行き詰っておりましてな」
「拝見します」
 適当な一冊を手に取り、パラパラと捲る。簡単な表紙を付けられた冊子はどこの霊山でも同じで変わり映えしない。ただ、他の妖変よりも深刻な事態が文字から漂う霊気から窺える。
「それにしても、冶黒殿直々にお持ちいただかなくとも、お呼び出しくだされば受け取りに参りますが」
 冶黒はバタバタと手を振った。
「いやいやいや、笹貫殿を呼び出すなど、とんでもない……!大天狗様よりのお役目を優先してくだされ」

 ――「窮屈」だな……

 圭吾は内心で息を吐いた。
 敬愛する上司は、必要以上に恭しい態度をとられることを嫌い、他の霊山と連携せずに単独行動を好んでいた。当時の自分は、その身勝手ともとれる行動に苦言を呈しては鬱陶しがられた。
 千年以上経った今、一介の宵闇として自ら他の霊山に赴いてみて、ようやくあの行動を理解できる。遙かに霊格の高い彼は、圭吾よりもずっと面倒な思いをしていたのだろう。
「有難い申し出、痛み入ります。ですが、この役目は昨日今日で片付くものでもありません。妖獣が迫っているならば、そちらの対応こそ大事。信濃に留まる間は、こちらの妖変を優先いたしましょう」
「なんと心強い……!頼りにしておりますぞ……!」
「宵闇としての職務を果たすまでです」
「いや、真に信濃は恵まれておりますなあ。本来であれば、鞍馬に宵闇の応援を頼まねばならぬところに、折よう笹貫殿がお立ち寄りくださったのですからのう」
 跳ねそうなほど喜ぶ冶黒に軽く頷き、圭吾は先ほどまで眺めていた冊子を手にした。
「ときに、冶黒殿。ここにある鎮守役ですが」
 栞を挟んだ頁を開き、そこに書かれた名を指す。
「おお、その少年ですか。最近入隊した鎮守役でしてな。まだ見習いながら、なかなかに面白い少年ですぞ」
「もしや、会われたことが?」
「お察しの通り。ひと月ほど前でしたかのう」
 まだ新しい墨で書かれた名と、その隣に少し色褪せた名が並ぶのを眺め、冶黒はうんうんと頷いた。
「まだ入隊前の、覚醒寸前の時分でしたかのう。ワシを視て怯むどころか、殴り飛ばした挙句に恐喝してきましたからのう。あの何物をも恐れぬ豪胆さと気概。あれぞまさに、狼の霊筋ですぞ」
 上機嫌の冶黒は圭吾の眉が動いたことに気づかず続けた。
「かの誠の匠の孫でしてな。今回の妖変とも深う関わっておりましてのう。いかに最強の鎮守役と称される西組の主座と一緒だったとはいえ、あの妖獣を前にして生還するとは、この冶黒も驚くばかりで……」
「ここに、碧の霊風を操る、とありますが……、冶黒殿は彼の風を視たことは……?」
 息を詰めて返事を待つ圭吾の様子に気づいているのかいないのか、冶黒は楽しそうに頷いた。
「ほっほっほ、笹貫殿も気になりますかな。さよう、彼は天狗でもないのに霊風を操りましてな。ワシが見たのは、まだまだ荒削りのものじゃったが……、一喝しただけでワシの部下を吹き飛ばしておりましたかのう。あれから鎮守役となって、風も鋭さを増したと聞き及んでおりますぞ」
「風の色は、本当に碧だったのですね?」
「碧でしたぞ。しかとこの眼で視ましたゆえ、間違いございませぬ。恐らく、木属性が滲んでおるのでしょう……」
 ふと気づいたように冶黒はこちらを見た。
「随分と気になっておられるようですな。もしや、お役目に関わるのでは……」
「いえ」
 圭吾はかぶりを振った。
「珍しい色だと思ったまで。同じ色の風を使う……友を思い出したのですよ」
 「友」という言葉を使うのにかなりの抵抗があった。相手が霊山の重役であっても、彼の存在は可能な限り伏せなければならない。「友人」ということにするのが最も手っ取り早いと理解していても、感情は慣れてくれない。
「なんと。彼は京の狼の霊筋ですゆえ、鞍馬の方と縁を持つ霊筋やもしれませぬな。そのご友人は……」
「千年前の大妖変にて戦死しました。高い霊格の持ち主ゆえ、未だ戻りません」
 烏天狗は大きな目を閉じた。
「さようなことが……。あの大妖変では、多くの鞍馬の宵闇が倒れたと言われておりますからの。ご友人と似た風の持ち主となれば、お気にかけられるのも無理からぬこと……。おお、そうじゃ!そのようなご事情とあらば、彼を信濃に呼び寄せてはいかがですかな?同じ色の風の使い手の狼ともなれば、ご友人と霊筋も近いでしょう。お話になるだけでも慰めになるやもしれませぬ」
「それには及びません。信濃に滞在していれば、目にすることもありましょう。それよりも、良い機会です。他の鎮守役についてもお聞かせ願いたい。こたびの妖変では、彼らの協力が必要となるようだ」
「おお、では、彼の上司に当たる西組の主座から説明しましょうかのう」
 冶黒は隣に書かれた名を指した。




(斎木……、一真……)
 冶黒が去った部屋で圭吾は冊子を開いた。
 十年ほど前に部下が確認した時にはなかった。恐らく、これが今生での彼の名なのだろう。
(京の霊筋に転生するつもりだとは聞いていたが、武蔵国におられたとはな……)
 この十数年、全国の霊山を飛び回っても手がかりはなく、最悪の事態を考えたことは一度や二度ではない。
 たった一人の隠人を現から探し出す――、気が遠くなるような話だが、ここまで見つからないとは思っていなかった。
 楽観視していたわけではない。彼が大人しく現に埋もれている姿を想像できなかったし、見つからない理由が思いつかなかったのだ。
 本人が予告したように、京に住まう狼の霊筋に転生するならば、すぐに鞍馬の知るところとなる。仮に違う地に生まれたとしても、あの霊格の高さと気性ならば幼いうちに正体を現すだろうと高をくくっていた。転生する時期はわかっているのだ。その前後に生まれた狼の霊筋の隠人から霊格の高い者に注意を払っておけばいいだろうと。
 まさか、予告していた千年を過ぎても霊気すら感じさせないとは。それは大天狗の封印が予想以上に力を発揮しているということでもあり、喜ぶべきことなのだが。
(息災なご様子で何よりだが……、隠人になろうが記憶を封じようが、全くお変わりないな……)
 早々に碧風を呼び、霊山の嶺守を殴り倒し、妖変に首を突っ込み――、いかにもすぎて、冶黒の話を聞きながら頭痛を覚えた。会って確かめなくてもわかる。ここまでデタラメな隠人など、他にいるはずがない。この武蔵国が格の高い霊獣の霊筋が多い地で、管轄する信濃が霊山の中でも最小規模、鎮守隊を実質的に纏めているのが霊獣の里という特殊な事情があるからこそ、「面白い」で済んでいるのだ。
(嶺守にも正体を気取らせぬか……。大天狗様の封印は、まだ八割以上の力を保っているとみていいだろう……)
 それは、彼がまだ自らの目的を果たせていないということでもあった。目的が果たせていない以上、当面は現に留まるのだろう。
「どうしたものか……」
 「時」が迫っている。
 鞍馬は風狼斎の力を必要としている。捜索兼迎え役に圭吾を派遣し、実力行使を認めたことがその証拠だ。通常、役目を帯びて転生した者を力づくででも呼び戻すような真似はありえないのだから。
(班長が鞍馬の指令を受け入れるとは思えん……)
 相手が大天狗でも怯むことのなかった上司を思い出すと気が重くなってくる。自分などが何を言っても聞き入れてくれるはずがない。いや、そもそも本体はまだ封印の眠りの中にいるはず。圭吾の声は届かないだろう。

『オレ達は窮屈な立場にいるもんだな、圭』
 碧の霊気と声が蘇った。
『ここにある報告のどれを見たところで、オレの知りたいことは書かれてねェ。そろいもそろって上辺だけ取り繕いやがって……。結局、テメエの眼で視に行くしかねェのかもな……』
 山と積まれた報告書をうんざりとした顔で眺め、彼は圭吾にというよりも、自身に確かめるように呟いた。
 鞍馬を壊滅寸前にまで追い込んだ大妖変が起こる数年前のことだった。

 ――班長……

(俺は全てにおいて未熟でした……)

 ――あなたが何を思い、何を考えていたのか。まるでわかっていなかった……

 覚悟も、思いも。全てが足りていなかった。
 それを痛感した時には、何もかもが遅かった。守るべき者も、自らの誇りも、妖気が渦巻く空へ消えて行った。

『千年だ』
 あの日、空を見上げて彼は言った。
『千年後、必ず戻ってくる。あの方を連れてな。それまで鞍馬を頼む。成すべきことを忘れるんじゃねェぞ……』

 ――心得ました、班長……

 千年前に口に出せなかった言霊が胸の内で燻った。
 鈍い痛みに、圭吾は両の手を握り締め、瞼を下ろした。



                 ――妖風薫りて 終――