妖風薫りて

10話



 勾陣の黄色の光すら塗り潰す碧の風が上着と茶の髪を逆立てるように煽る。佇む少年は「斎木一真」という名の鎮守役の姿をしているが、碧に染まった瞳と吹き付ける霊圧が目の前にいる存在がとてつもない化け物だと告げる。

 ――何が……起きている……?

 自分が見ている景色が信じられず、甲矢は何度も瞬きをした。
 彰二から追い出した妖気を追っていたはずだ。妖気は追われるうちに姿を変え、戦装束の邪霊へと変わった。恐らく、彰二の前世――、霊獣だった頃の姿だろう。
 そこまでは予想の内だった。
 隠人とは霊獣の転生した姿。だからこそ、前世で仕えた雄緋の妖気に干渉され、魂の内に眠っていた霊獣としての自我が表に出てきたり、鬼化したりする現象が武蔵国一帯で起きている。
 問題は、剥がれ落ちた邪念が邪霊になるばかりか、妖気を吸いこんで妖魔化した場合、邪鬼を超える厄介な相手になるということだ。
 だから――、自分は、「沖野彰二」という隠人から剥がれ落ちた邪念が妖魔化する前に消そうとしていた。妖魔化すれば鎮守役では手に負えなくなるばかりか、何をしでかすかわからない。とはいっても霊術師の敵ではなく、隔離棟の結界から出る前に追い詰めて始末すれば済む話だった。誤算があったとすれば、あの邪霊が予想以上に往生際が悪かったことだ。まだ妖魔化していないというのに、手を具現化させて扉に埋め込まれた結界の要を破壊して外に飛び出していった。

 ――あれは……、誰だ……?

 混乱する頭の中でそれだけがグルグルと回った。
 面倒なことになったと思ったのも束の間、勾陣の光が邪霊を隔離した。霊気から霊符を放ったのが一真であることはすぐにわかったし、彼がこの病院にいることも知っていたから驚きもしなかった。ただ、一真ではあの邪霊の容姿に動揺するだろうと結界に入り込んで――、そこで思考は停止した。
 目の前に悠然と佇む人物の存在によって。
「妖魔化しかけてる邪霊を追ってきたってとこか……。迂闊だったかもな。お前がいるのを忘れてたぜ」
 冷たい汗が全身を伝った。
 勾陣がいつの間にか碧に塗り替えられている。結界の中を流れるのは碧の風だ。一際濃い碧が「斎木一真」という名の少年の周りを巨大な翼のように流れ、彼がこの場の支配者であると告げている。これほどの霊圧を放てるとなれば太狼だろうと一捻りして終わりだろう。彼がどこか一真を彷彿させる笑みを浮かべていなければ、意識が遠のいていたかもしれない。

 ――何か言わなければ……

 向かい合っていても何も変わらない。彼が敵意を向けてこないうちに何とか隙を見て逃げなければ。可能な限り情報を引き出したいが厳しいだろう。
 自分を奮い立たせて口を開いた。
「貴殿は……」
 情けないほど声が震えているのがわかった。霊獣同士であっても格が違いすぎると話すことさえままならない。今がまさにそうだった。いや、顔を上げていられるだけマシだろう。
 彼は少し眉を顰め、初めて自分を取り巻く碧風に気づいたようだった。
「ああ、悪い。ちょっと待ってな」
 軽く握られた手の甲で霊紋が瞬き結界の中の碧がざわめいた。鷹が広げていた翼を畳むように彼の周りを渦巻く碧が小さくなっていく。霊圧を抑えているのだ。
(え……?)
 何かが引っかかり、甲矢は食い入るようにその姿を見つめた。

 ――あの仕草……、どこかで……

 激しい既視感が恐怖を薄めた。停止していた思考が急激に動き始める。
 刃守の里長にこれほどまでの格の違いを感じたこともなければ、自分達が貴狼相手に霊圧を抑えたこともない。だが、自分は――、あの仕草を知っている。
(そうだ、あの時の……!)
 胸の奥底から顔を出した記憶にあと少しで声を上げるところだった。鎮まっていく霊気が奥に仕舞いこんでいた記憶を呼び起こしていく。
「こんなもんか……」
 鎮まった碧を眺め、彼は独り言のように呟き、こちらを向いた。
「待たせたな。里のヤツと話すのは久しぶりでな……」
 霊圧を抑えたといっても、里長と向かい合っているほどの重圧を感じる。あの時と同じだ。
 かつて師がそうしたように跪き、深々と頭を垂れた。
「お久しゅうございます、風狼斎様」
「どこかで会ったか?」
 怪訝そうな声と共に数歩離れた床で風が渦巻いた。ふわりと揺れた霊気が彼が移動したことを告げる。
「は。千年前に一度」
「千年前……?」
 少しの沈黙が落ちた。
「顔を上げてくれ。もしかして、お前……」
 見上げると、千年前よりも近い位置に碧の瞳があった。彼は少し目を丸くし、合点したように頷いた。
「そっか……。あれから千年経ったんだもんな……。霊獣もそれなりに大きくなってるよな……」
 静かに彼は笑った。
「久しいな。刃守の姫君の愛弟子殿。あの時はまだ童だったか……。見た目だけならともかく、そこまで霊気が成長してちゃ、さすがにわからなかったぜ……」
 霊獣は相手を霊体と霊気によって識別する。現における容姿も見ていないわけではないが、重きを置くのは霊体であり、霊体が持つ霊気だ。霊気や霊体が大きく異なると、判別できないのも無理がない。人間が成長期を経た子供を見分けづらくなるのと同じだ。
 千年前と同じように彼は膝をついて目線を合わせた。
 風狼斎は御三家の嫡流。いくら太狼とはいえ、甲矢は一門の臣下の端くれにすぎず、身分がまるで違う。頭で理解する以上に魂が格の違いに畏怖を抱いて体が金縛りに遭ったように動かない。千年前もそうだったが、必然的に彼のほうからこちら側に降りてきて話す形になる。
「あの時は驚いたぜ。オレを見るなり腰抜かして泣き出すんだもんな。『化け物が天から降ってきた』とかわめいてさ。あのガキが霊術師になってるなんてな……」
「……覚えておられたのですか……」
 碧風と共に舞い降りた彼を見て、当時の自分は妖獣が襲ってきたと思い込んで死を覚悟して泣き喚いた。
 今にして思えば無礼打ちにされても仕方のない醜態だ。
「今、思い出したんだよ。弥生も無茶するよな。茶の準備が整ってねェからって、まだ霊符も握れねェような弟子を迎えに寄越すんだからさ」
「誰にも知られぬよう内密で、というお話でしたので……。弥生様も表立って準備ができず、人目につかない屋敷を探すだけで手一杯で……」
 「御三家直流の者がお忍びで訪ねるからよろしく頼む」と戒から文が届いたのは訪問の前日だった。弥生の慌てた顔は今でも忘れられない。「上品な場を好まないヤツだから人目を忍べる場所で雑談に付き合ってやってほしい。もてなしは水で十分だと本人も言っているから」と文は続いていたが、師は続く文面など目に入っていないようだった。
「急に押しかけたんだ。そんな気ィ遣わなくても、里長に見つからねェ場所で質問に答えてくれりゃよかったんだけどな。戒にもそう伝えといてくれって頼んだはずだが」
「そ、そういうわけにまいりません!御三家直流に連なる御方をもてなしもせずに帰したなどとあっては、弥生様だけでなく刃守の名にも傷がつきます……!」
 言ってしまってから「しまった」と自らの口を押さえたが遅かった。さすがに今の反論は気分を害しただろう。
 風狼斎は呆れたように手を振った。
「あ〜〜、わかった、わかった。ったく、そーいうとこは師匠そっくりだな」
 笑いながら、彼は手を翳した。注がれた霊気が金縛りを解いていく。
「そう畏まられてたんじゃ、オレが話しにくくてな。この場の無礼を許す。楽にしてくれ」
「は。では……」
 高貴な霊筋のくせに格式ばったことを嫌うのは千年前と同じだ。もしかしたら、思い出話もこちらの気分を和らげるためだったのかもしれない。
「今回の妖変は把握しているつもりだ。厄介なことになったもんだな」
「は。刃守の里も総力を挙げて鏡の回収を進める所存……。状況によっては先代里長様、いえ、雄緋討伐も辞さぬ覚悟――」
「その先発隊がお前と総矢か?」
「はい」
「当代の里長は清山だったか……。あいつも災難だな。実の兄貴と戦うなんざ、悪夢そのものだろう」
「ですが、里長様のご決意が変わることはないでしょう」
「ああ。わかっている。あの妖変の傷跡は千年やそこらじゃ癒えねェだろう。最愛の妹を実の兄貴の手で喪っちまったんだからな……」

 ――懐かしい……

 千年前のあの時も彼はこんな調子で弥生と話していた。自分は部屋の隅で誰かが来ないか見張りをしながら京から来た高貴な客と師のやり取りをおろおろと眺めていた。妖変が起きたのは、あの数年後で――。
「ッ」
 景色がぼやけた。
 弥生はもういない。あの妖変から千年が経ち、自分は当時の弥生よりも背丈が伸び、師の意に反して霊術師になった。
「悪い。辛いこと思い出させちまったな……」
 温かい手がポンポンと頭を撫でた。千年前、泣きじゃくる自分に困り果て、弥生が来るまで彼はそうしていた。どれだけ時間が経っても、彼にとって自分は子供で、それは変わらないのだろう。それが酷く嬉しかった。
「申し訳……、ございません……」
「咎めたりしねェよ。泣ける時に泣いておいたほうがいい。ずっと泣けなかったんだろ?」
 ――やはり、この方は御三家嫡流のご霊筋なんだ……
 霊術師だろうと関係ない。こんなに不安定な状態で霊気に触れられれば読み取られてしまうのは当然だ。
「いいから気ィ済むまで泣けよ。内側に溜め込んじまうよりはいい」
 涙が壊れたように溢れた。弥生が死んだ時さえ出なかった涙が終わりがないように込み上げてくる。御三家の嫡流の前で泣きじゃくるなど、太狼としても、霊術師としても最悪だ。それくらいわかっているのに。
 ややあって、彼は静かに口を開いた。
「薬師を目指してたのに霊術師になったのは、雄緋と戦うためか?」
「……わかり、ませんッ」
 妖変が起きた時、甲矢は弥生の言いつけで社の休憩所で寝ていた。あの時はまだ今ほど酷い昼型ではなく夜も起きていられたので祭りの手伝いくらいできると主張したが、弥生は「それは成長期が終わってから」と夜の就寝時間に厳しかった。
 里長の屋敷が騒がしくなって目を覚ましたら薬師に抱きかかえられるようにして里から連れ出され、逃げ出した現で里長の乱心を聞かされた。
 弥生が屋敷に向かったまま行方不明だと知っても探しに行くこともできず、子供だからと詳しいことを教えてもらえず、ただ不安に震えるだけの時間が過ぎ――、ようやく会えた師は冷たい亡骸に変わっていた。
「薬師ではッ、護れない……、そう、思ったからッ」
「そうか……」
 彼はそれきり何も訊かず、甲矢が落ち着くのを見計らって手を離した。
「もう大丈夫か?」
「はい……」
 涙声を堪えて頷くと、彼は安堵したように頷いた。
「そろそろ眠らねェとヤバくてな……。オレのことは暫く黙っててくれるか?現の連中はもちろん、総矢や里の連中にも。
お前の中だけに留めておいてほしい」
「むろんで――!?」
 その時になってようやく気づく。
 風狼斎が「斎木一真」という隠人の器で転生している異常さに。彼の意識だけでなく霊力までもが表面に顔を出していることの危険に。
「お、お待ちください!その器は……!?どうして、貴方様が隠人などに!?」
 彼は少し笑った。
「あと、この器も診てやってくれ。積もる話は……、また今度な……」
 瞼が下りた。彼のものではない強力な木属性の霊気が薄布のように全身を包む。急激に霊格が下がり、結界の碧が消えていく。
 眼を開けていられないほどの霊圧に腕で顔を庇う。
(まさか……、封印!?)
 誰が?何のために?どうして?
 疑問がいくつも巡ったが、答など見当もつかない。
 燃え立つような碧の紋が淡く灯ったのを最後に木属性の霊気が消えた。後には勾陣の光と背佇む少年が残るのみ――。
「風狼斎様……?」
 恐々と覗き込むと、瞼が開いた。碧ではなく茶の瞳が寝惚けたようにこちらを見下ろした。
「……甲矢?」
 それまでの口調とは打って変わり、暢気な声が呼んだ。
「あれ……?オレ、何やってんだ……?」
「一真殿……?」
「おうよ……、お前、なに人の顔覗き込んで……、あれ……、なんか……足が……?」
 その場に崩れるように一真は床に座り込んだ。
 無理もない。あれだけの破邪が表に出ていたのだ。脚や腕が使い物にならなくなってもおかしくなかったはずだ。
「なっ!?足に力入らねェし……!嘘だろ!?これから巡察だぜ!?」
 狼狽えて霊符を取り出す彼からは風狼斎の面影は消えている。

 ――眠りにつかれたのか……

 きっと自分などが想像もつかないような大役を背負っているのだろう。
 こっそりと目を擦った。
 いつもの無表情を造り、甲矢は一真の傍にしゃがんだ。
「診よう」
「頼むわ。そういやアンタ、どうしてここにいるんだ?沖野の治療中だったよな?」
「覚えておられぬのか?」
「何を?」
 どうやら一真は風狼斎の時の記憶がないらしい。それは甲矢にとっても好都合だった。
 混乱している様子の少年にどう答えたものかと暫し考える。風狼斎は一真に関しては何も言わなかった。それは、彼になら告げても構わないということともとれる。

『ね、甲矢。約束してくれる?』

 懐かしい声が不意に耳に蘇った。

『風狼斎様がここに来られたことは内緒よ。私とあなただけの秘密。お兄様達にも総矢にも内緒!なんていったって、御三家嫡流の御方が直々に頼みごとをなさったんですもの。戒様と宮の姉様のご信頼に応えるためにも守り抜くわよ!』

 どこか誇らしげに笑う記憶の中の師に頷いた。既に心は決まっている。
「通りすがりだ。気になさるな」
「ハア!?」
「それより、霊気を抑えてくれ。治術が効きづらくなる」
 いつもの口調で諭すと、一真はそれ以上の追及を止め、ブツブツとぼやきながら霊気を抑え始めた。

(弥生様……)

 ――あの方との約束、私が守りとおしてみせます……

 姉のような顔で弥生が笑った気がした。