妖風薫りて

9話 幻影



 窓から差し込む夕陽が弱まっては影を濃くしていく。
 人工の電灯に切り替わっていく廊下で一真は足を止めた。
(逢魔が刻か……)
 昼と夜が交錯する時刻であり、邪が活動を始める時刻だ。昼型と夜型が等しく力を発揮できる時間帯でもあり、この時刻ならば鎮守隊員は自らのタイプに縛られることなく戦うことができる。最近わかったが、一真も望と同じ昼夜を問わないタイプらしく、逢魔が刻だろうと戦闘力は普段と変わらない。にもかかわらず、夜のほうが調子がいいような気がするのは狼の霊筋のせいなのだろう。

“十二天が一、青龍!”

 放たれた符が数メートル先の柱の陰で止まり、一際強く光った。黒い靄が霧散し、霊気の抜けた符が床に落ちる。
 邪霊にも満たない邪。邪念の類だろう。
(こいつじゃねェ……)
 符を拾い視線を走らせる。
 人から剥がれ落ちた負の感情が独り歩きを始めたものが邪念だ。そんなものが病院内をうろついているなどと思うとゾッとするが、珍しい現象でもない。人がいる場所に邪念が生じるのは当然で、病院のような人が負の感情を抱きやすい場所では、剥がれ落ちる負の感情も増え邪念も比例して多くなる。通常の病院に行けば、そこここに邪念が犇めいていると補佐の誰かが言っていた。
 もっとも、結界や浄化を始めとする対邪の術を施されている松本医院内を邪念がうろついているということは異常事態なのだが。
 瞼を下ろし、指に軽く注意を向ける。指先で挟んだ符が霊気を吸い上げて再び霊力を取り戻した。
(どこだ……)
 隠人棟の一階。奥の厨房付近で十人を超える霊気が慌ただしく動き回っている。ちょうど夕食時だ。入院している隠人が多いというから、配膳の支度も大変なのだろう。その分、院内を巡回している看護師は少ない。
 霊気を探る範囲を広げ、一真は眉を顰めた。
 病室の患者達の霊気の状態が思っていたよりも酷い。彰二や優音ほどではないにしても、ある者は澱み、ある者は随分と弱っている。院内の気もいつになく澱んでいる。はっきり言って、かなり良くない。
 一分ほど気配を探り、目を開けた。
 先ほどと変わらない電灯の光と夕闇が入り混じった廊下には誰もいない。邪の気配もない。
(気のせいか……?)
 聴こえたのが自分一人だけだったならば、引き返しただろう。だが、優音もまた聴いていた。「気のせい」で片づける気分にはなれなかった。
(チ、ついてねェ。若センセーはまだ槻宮学園だろーし……)
 院内で起きていることは学に話を持っていけば手っ取り早いのだが、留守ときた。
 院長に知らせたほうがいいだろう。学と違い豪快な院長を思い出し、少しブルーな気分になる。相性が悪いわけではない。どちらかといえば気が合うほうなのだが、子供の頃の一真を知っているだけに、鎮守役として会うのがなんとなく気が進まない。からかわれるのが目に見えている。とはいえ、放置するわけにもいかない。
 院長室はどこだっただろうかと記憶を掘り起こしていると、それは聴こえた。

‘……さ……、ま……’

 頭に響いた思念に何かを考えるよりも早く走り出す。
 霊符を構えて突き当りの角を曲がり、足を止めた。それまでと同じようなしんとした廊下には人の気配はない。が、気の澱みが酷くなっている。

 ――マズイな……

 廊下の先には防火扉のような頑丈な扉が閉められている。
 あの先は重症者、つまり鬼化した者専用の隔離病棟に続いている。部分的とはいえ鬼化した優音が最初に運び込まれたのがあの病棟だ。彰二が今入院しているのも。
 思念が扉の向こうからではなく、手前のどこかから発されたことを祈りながら木刀を取り出す。ビュッと音を立てて振られた木刀から碧の霊気が小波のように廊下に広がっていく。邪特有の反応は戻ってこない。
 嫌な予感を押しやり、もう一度木刀を振るった。
 やはり反応はない。
(……やっぱ、この奥か……)
 木刀に霊気を込め、鎮守印を手に取る。
 思念の主は隔離病棟にいると考えていいだろう。
 隔離病棟は葉守神社に匹敵するほどの防壁と結界で囲まれ、この扉が唯一の出入り口となっている。他の場所から外に出ようとすれば結界が砕ける音ですぐにわかるから、まだこの奥にいるはずだ。

 ――開けるか?

 扉の鍵は病院内で厳重管理されているが、鎮守印を使えば開錠は可能だ。
 明かりを弾く水晶を眺め、一真は唸った。
 邪の類は群れで動くことが多い。奥に数体が潜んでいた場合、こちらは圧倒的に不利だ。
 一体でも漏らせば、大惨事になりかねない以上、この場は退いて補佐を呼ぶべきなのだろう。
 だが――、それは隔離病棟内に正体不明の邪を放置するということだ。一度鬼化した隠人は霊気が枯渇状態になり肉体も衰弱しきっている。邪に少しでも干渉されれば死に至る者もいる。葉守神社が近いとはいえ、巡察が始まっている時間だ。欠席者が多い今、隊は包囲網を張るので手一杯でこちらの応援に回せる余裕はない。補佐を呼んだとしてもどれだけの時間がかかってしまうのか――。
 逡巡する一真の感覚に何かが引っかかった。ボコンと何かが凹む音と共に反射的に霊符を放つ。

“十二天が一、勾陣!”

 扉が音を立てて内側から開いた。飛び出してきた何かを黄色い光が景色ごと遮断していく。
「なっ!?」
 隔離されていく空間の中で一真は間合いを取りながら声を上げた。
 それは黒い影だった。邪に似ているが、姿は人だ。袴の上に簡略化した甲冑をつけたそれは刀を持ち、彰二の顔をしていた。

‘おやかた……さま……’

 虚ろな目をした彰二から思念が響いた。覚束ない脚は透けている。
「沖野……?お前……、その格好……」
 呆気にとられたのも束の間、すぐに木刀を構える。
 奇声と共に振り下ろされた刃が碧に光る刀身に食いついた。
(違う……。こいつは……)
 ――沖野じゃねェ……
 彰二の顔をしているが、肉体を持っていない。かといって、彰二の霊体が抜けて彷徨っているわけでもないようだ。霊気が彰二のものとどこか違う。
(さっきの思念はこいつか……?)
 青白い顔と死んだ魚のような目は明らかに尋常ではないが額に角はない。木刀を伝わる霊気はせいぜい丙の穣。普段の彰二よりは強いが、厄介と言うほどでもない。前に宗則からチラリと聞いたが、生霊というヤツなのかもしれない。霊気が濁っているので邪霊の類だということは間違いなさそうだが。
(こいつだけみてェだな……)
 こじ開けられたままの扉の向こうは澱んでいるが他に何かがいる様子はない。この程度の邪霊ならば一真独りで十分だろう。
「悪いな、沖野に似たヤツ。とっととぶっ飛ばせてもらうぜ」
 木刀に霊気を込め、力任せに振るう。呆気なく吹き飛ばされた邪霊は壁にぶつかり、ずり落ちた。取り出した霊符が霊気を吸い上げる。
“十二天が一……”
 青黒い顔がこちらを向いた。何故かギクリとして一真は霊符を放とうとした手を止めた。
‘……さま……’
 涙を流し、それは口を開いた。
‘やっぱり……、来てくださった……んだ……、はは、あははははははは……’
 壊れたような思念が結界内に響いた。
‘ぼく……、まってたんだ……、あなたが……くるの……、待って、まって、まって……’
 胸を覆う甲冑にいくつもの穴が開いた。ごぷりと口から赤黒いものが溢れた。
‘……ぼく、戦った……よ……、……逃げ……なか……った……よ……’
 見開かれた眼は死体のそれのように何も映していない。
 一真は戦いの最中だということも忘れ、邪霊を眺めた。
(今の……、どっかで……)
 激しい既視感に何度も瞬きを繰り返す。
 あれは彰二ではない。それはわかっている。
 一真のことを知っているような口ぶりだが、邪霊に知り合いはいない。仮にあれが彰二の生霊だとすれば別だが、一真が知る限り彰二がああいうコスプレをして趣味の悪い冗談を言ったことはない。
 なのに、この記憶のどこかから何かが顔を出しそうなもどかしさは何なのだろう。
(なんだ……、この感じ……?)
 際限なく湧き上がってくる自分のものであって自分のものでないような感覚で気分が悪い。振り払うように頭を振った。
『――様、僕に戦い方を教えてください!』
 不意に声が聴こえた。
 鼓膜を伝ってきたのではない。一真の内側、記憶の底からそれは滲むように聴こえてきた。
(今の声……)
 あの邪霊の思念と同じだが、やけに明るくて生き生きとしている。そしてやはり、どこかで聴いたことがある。
(あれは……、どこだった……?)
 記憶を探るように額に手をやった。
 手の甲で碧が輝きを増し、奥底で何かが開いた気がした。
 魂の内に碧が広がり目の前の景色が変わっていく。


「教えろったって……。お前は太狼一門に仕える霊筋だろーが……。オレの戦い方なんざ、参考にならねェだろ?」

 呆れた様子の自分の声がして、ひらりと白いものが舞った。
(ここは……どこだ……?)
 塗り潰されたように変わった景色に混乱する。
 そこは人工の灯りが照らす廊下ではなかった。屋根もない。代わりに頭上を覆うのは満開の桜で、背中にごつごつとした太い幹が触れる。少し離れた場所に明かりがいくつも灯り、笑い声と笛の音が流れてくる。祭りでもやっているのだろう。
 祭りの輪に加わることもなく、一真は桜の大木にもたれていた。


「そんなことありません!僕、風狼斎様みたいになりたいんです!」
 水干と着物を混ぜたような服装の誰かが目をキラキラさせている。一真よりもずっと年下――、まだ子供だろう。
「本気で言ってんのか?オレなんかに弟子入りしたって、デタラメな戦い方しか身につかねェぜ?」
 相手にする気がない自分にめげることなく子供は大きく頷いた。
「だって、風狼斎様は勝てそうにない相手にも偉そうな態度で挑発してお一人で突っ込まれるじゃないですか!御三家嫡流一の突撃バカって有名なくらい……」
「テメ、喧嘩売ってんのか……?」
 怒気を感じとり、子供は慌てて手を振った。
「ぼ、僕、風狼斎様みたいに誰が相手でも怯まない、強くてかっこいい武術士になりたいんです!強くなって、お館様を御守りしたいんです!」
「……正気か?こないだも手合せ中に泣いてなかったか?」
「い、今はこんなだけど、絶対に強くなります……!だから……!」
 真っ直ぐな目に涙が滲んだ。必死な様子に断る言葉の代わりに溜息をついた。
「わかった。そのすぐ泣くとこを直したら考えてやるよ。小突くたびに泣かれちゃ、修業どこじゃねェからな……」
「本当ですか!?」
「言っとくが、今回は無しだからな?祭りが終わったら帰らねェといけねェし」
 弟子をとるつもりなど毛頭なく、その場しのぎで話を合わせただけだった。どうせすぐに諦めるだろうと。仮に弟子入りしても三日も経たずに逃げ出すだろうと。
「じ、じゃあ、次はいつ来るんですか!?」
「あ〜〜、ちょっとわかんねェな……」
 舞い散る桜を眺めた。霊紋が疼く。刻一刻と「刻限」は近づいている。明日、自分がこうして暢気に花見をしているかすらわからない。
「ま、次に桜が咲く頃にはまた来るだろーぜ……」
 このまま「刻限」が訪れなければ。それは恐らくないだろう。
「一年後ですね!!」
 こちらを見上げ鼻息荒く確認する子供の顔は――、小学生の頃の彰二と酷似していた――。
 ドクリと鼓動が跳ねた。意識と碧が重なっていく。
 桜が消え、廊下と邪霊の姿が戻ってくる。
「……そっか……、お前も……堕ちちまったのか……」
 声が自分のものとは思えないほど掠れた。窓に映る眼が碧に染まっている。風狼斎と呼ばれた時と同じ色に。
「そうだよな……。みんな、堕ちちまったもんな……」
 額を押さえた手に流れる赤が視える。あの日、自分の両手は真っ赤だった。敵のものか味方のものかわからない血で染まっていた。
「みんな……、ここにいるんだよな……」
 邪霊がガタガタと震えながら笑った。
‘風……、狼斎……さ……ま……、ぼく……、ぼく……は……、あなたの……、でし……なれ……る……?’
 記憶の中と変わらない霊気が同じ口調で呼んだ。
「ああ……。強くなったじゃねェか……」
‘ほんと……?’
 顔をぐしゃぐしゃにして動きを止めた邪霊に左手を突き出した。
「そんなボロボロじゃ修業どころじゃねェ。ちょっと眠りな……。命令だ」
 何も疑わず、邪霊は頷いた。胸に走る痛みを押し殺し、霊気を高める。
 燃えるように紋が光を放った。霊格が隠人の域を軽々と超えてゆく。

“風よ……”

 碧が結界の中で渦巻いた。緩んだ封印が悲鳴を上げ、強烈な破邪に肉体が浸蝕されていく。頭の中で警鐘が鳴り響いたが無視して霊気を高めた。

“送れ……、風鳥……”

 碧が吹いた。翼を広げた鳥のように碧が吹き抜け、亡霊が溶けるように消えていく。

‘風……斎……さ……、ま……’

 結界の中を渦巻く風が思念を運んだ。
「……悪い……」
 碧の風が晴れた後には病院の白い廊下だけがあった。肉体のない亡霊は血痕一つ残らない。
 だが、まだそこにあの子供がいるような気がした。
「オレはさ……、守れなかったんだ……。お前が思うほど強くもなけりゃ、かっこよくもねェ」
 握り締めた手で霊紋が輝いた。肉体に食いつく破邪が心地良くさえ感じる。
「だからさ、せめて……」
 誰も罰してくれなかった。
 咎めることさえしなかった。
 だから――。
「あの人は必ず見つけ出す……。お前らのことも……、『斎木一真』でいられる間は守ってみせるからよ……」
 結界の隅に霊符を放つ。
 碧に光る霊符が炎に包まれた。
「入ってきてたんなら、声くらいかけろよ」
 瑪瑙の髪飾りが炎を反射して赤く光った。彼女は手にした霊符を忘れたように呆然とこちらを凝視していた。
「ま、わからなくもねェけどな。こんな化け物がいりゃあ、驚きもするよな……、甲矢」
 結界の中に残る碧が髪を揺らした。
 碧の瞳を隠そうともせず、一真は笑った。