妖風薫りて

8話



「もう気づいてるかもしれねえけど、武蔵国全域に妖気が蔓延してる」
 槻宮学園の第五会議室。総矢は挨拶もそこそこに切り出した。
 時刻は午後六時前。楕円形に並んだ席の議長席に総矢が座り、東西南北の主座が二人ずつ向かい合っている。その横に宗則、更には玲香と保健医の零、松本医院の学が着席している。里の関係者の甲矢と記録係を務める宗則、槻宮学園の邪霊対策室長の玲香が同席するのはわかるとして、学や零まで同席していることが一般隠人に既に悪影響が出ていることを暗に語っている。総矢の隣にもう一つ設けられた席は甲矢が座るはずだが、彼女は彰二の治療の為に松本医院に行っている。
(これは……)
 配られた和紙を一読し、望は眉を顰めた。
 里で造られた和紙には今後起こりうる危険性が墨で綴られている。妖気による人体への影響、人鬼増加の危険性、邪霊の邪鬼化の危険性、鎮守隊への影響――。
「深刻だな……」
 隣から聞こえた呟きにチラリと視線を移す。
 南組主座の徹がいつになく硬い表情をしている。
 予定よりも早く到着した彼は異様に強い木属性の破邪を感じ、興味本位でその主を探しているうちに彰二の鬼化の現場に出くわしたのだという。南組は武蔵国で最も人鬼の出没が多く、鎮守役も人鬼の対処に特化した者が多い。主座である徹は長年南組で戦ってきた人鬼の専門家だ。初めて人鬼に対峙した一真の加勢に入ったのが彼だったのは不幸中の幸いだった。
 徹は顔を上げ、和紙を人差し指でピンと弾いた。
「総矢殿。ここにある以上に事態は進んでいるぞ。西組の昼頭の半鬼化は破片との遭遇が原因だとしても、先ほど俺達が鎮めた人鬼は明らかに妖気に中てられていた。東組でも先日補佐が人鬼になったと聞いている。その場に破片のようなものはなかったんだったよな?」
 徹は望の向かいに座っている東組主座の真樹を見た。
「そうだねえ……。あたしが鎮めたわけじゃないから、はっきりしたことは言えないけど……、邪物を封じたりは……、してなかったと思う……」
 当時を思い出したのか、真樹は少し遠くを見やるような顔をした。
 通りかかった宵闇の加勢で彼女のみならず鬼化した補佐も無事だったというが、勝ち気な彼女は相当悔しかったはずだ。
「しかし、宵闇が深夜に駆けつけるとはなあ。珍しいこともあるもんだ」
「本当にね。呼んでも、なかなか来ないのにさ。ちょっと変な奴だったよ」
(あれ……?)
 彼女の霊気が一瞬だけ波打った気がして望は瞬きを繰り返した。悔しさや怒りによる激しい揺れではなく、水が波打ったような――。彼女からこういう霊気の乱れを感じたのは初めてだ。
  徹は気づかなかったのか、難しい顔で頷いている。
(気のせい……かな……?)
 倒れて保健室に運ばれたのは今日の昼のことだ。感覚が鈍っているのかもしれない。
「大丈夫か?」
 不意に横からかけられた声に驚いて顔を上げた。
「な、何がですか?近堂主座?」
「ぼんやりしていたぞ?今回の件で、またオーバーワークなんじゃないか?」
「そんなことありませんよ」
 ごまかそうとした望を制するように張本人の真樹が口を開いた。
「ん〜〜、言われてみたら、今日の城田主座はちょっと顔色悪いよね。いっつも青白い顔してるけど、今日は三割増しくらい青いっていうか……。ちゃんと食べて寝てる?」
「ヤダなあ、ちゃんと食べてますよ」
「ホント?最後にご飯食べたのいつ?」
「え?えっと……、今日のお昼です……」
「今日の昼う!?野菜ジュースでも飲んだの?言っとくけど、お菓子とか飲み物系はご飯って言わないからね!?」
「わかってますよ、葵主座。今日のお昼は親子丼だったんですよ。ね、ちゃんとしたご飯でしょ?」
 我ながら珍しくまともな答えだと思ったが、徹と真樹が一斉に不審な顔をした。
「親子丼っ!?ヤダ、城田主座が昼からそんな重たいもの食べられるわけないじゃん!疲れてるのわかるけどさ、もっとマシな嘘つこうよ〜〜」
「そうだぞ。俺達に気を遣う必要なんてないだろう?正直に言えばいい。本当はココアと飴玉あたりだろう?」
「いくらなんでも、ココアと飴玉の組み合わせはちょっと……。飴玉の時は飲み物はいらないかなあって……」
 横と向かいで霊気が高まった。

 ――マズイ!説教される……!

 条件反射で身構えたのと机が音を立てたのは同時だった。
「余計に悪いぞ、それは!せめて水くらい飲みたまえ!」
「つか、ダイエット中の女子高生でも、そこまでストイックじゃないよ!?城田主座って、体重何キロなのさ!?」
「え?最近、測ったことないですね……。何キロなんだろ……?」
「測りなって!今すぐ!待っててあげるから、保健室行っといでって!手首とか、あたしより細いよね!?」
「……僕の体重測っても、妖獣とはあんまり関係ないと思いますけど……」
「何を言ってるんだ!大有りだ!この異常事態に君が倒れたら、武蔵国鎮守隊全組の危機だぞ!?わかっているか!?」
「近堂主座の言う通りだよ!東組じゃ、西組の完全フォローなんてできっこないからね!?この非常事態に最強の鎮守役が睡眠不足と栄養失調で倒れるとか、マジで勘弁してよね!?」
「まあまあ、お二方。落ち着いてください」
 末席から穏やかな声がした。
 徹と真樹の視線をものともせず、朔はにっこりとこちらを見た。
「今日のお昼に関しては僕が証人になりますよ。保健室で一緒に親子丼を食べましたから。男子高校生として、あの小食はいかがなものかと思いますけれど、飴玉だけということはありません。ご安心を」
 徹と真樹の口から同時に「おお〜〜」と感嘆が漏れた。
「いやあ、君がちゃんと昼飯を食っていたとはなあ。俺はてっきり疲労のあまり脳が記憶をねつ造し始めたんじゃないかと思ったんだが……」
「そうそう!城田主座がまともにご飯食べるなんてねえ。明日は邪霊でも降るんじゃない?」
「ははは、だったら、巡察を強化せんといかんなあ!」
「二人とも、僕のことをなんだと思ってるんです……?」
「過労死寸前の生活破綻者」
 見事に重なった真樹と徹の返事に望はガクリと肩を落とした。
(この気配……?)
 不意に感じた視線に勢いよく顔を上げた。何事かと驚く徹と真樹に構わず、周囲に視線を走らせる。大会議室と同じくらい広い第五会議室に何かが潜んでいる気配はない。
 その場にいるのは総矢、徹、真樹、宗則、玲香、零、学、そして……。
「何か?城田主座?」
 真樹の隣に座る北組主座・嵯谷尚也が小首を傾げた。
「いえ、なんでも」
 笑みを浮かべながら、望は相手を観察した。
 休日だったという彼はポロシャツにスラックスといった軽装だ。真面目そうな青年で大きな黒縁眼鏡をかけている。これといっておかしなところはないように見えるが――。
(まさか……)
 この数日感じていた獣のような視線。あれを今しがた感じた。この結界で隔離された場所であの視線を感じたということは、あれの主はこの中にいる誰かということになる。
(あの視線の主は……、嵯谷主座……?)
 言い知れない不安と圧し止め、望は机の上に置かれた紙コップを手に取った。槻宮学園のスタッフが用意してくれたカフェオレの甘さが喉に染みた気がした。



「沖野君が?」
 露骨に眉を顰める優音に一真は頷いた。
 あれから――、松本医院の緊急対策チームに迎えに来てもらい、彰二は隠人棟の中でも特に厳重に結界を張られた隔離病棟に緊急入院することになった。望への説明は徹に任せ、一真は甲矢の治療が終わるまで松本医院に待機することにした。徹から説明されたのだろう望から優音に事態を知らせるように言伝が来たのは十分ほど前。鎮守役の会議が始まる直前だっただろうか。
「鬼化はどの程度進んでいたんだい?」
 眼鏡を押さえた優音からは動揺は消え、いつもの調子に戻っていた。
「真っ黒な筋肉の塊みてーになって、角が生えてて、奇声上げて暴れてさ……。オレのこともわからなくなってたみてェだったっけな……」
「意識まで浸蝕されたとなると完全な鬼化だね……。入院が長引くかもしれないな……」
 いつになく表情が硬い様子に、彰二の霊符の師匠が優音だったことを思い出す。日頃、彼らが顔を合わせる時間こそ少ないが、彰二は何かと優音を頼っていたし、優音も嫌な顔一つせずに相談に乗ってやっていた。
「いくら甲矢殿でも人鬼の治療となると、もう少しかかるだろう。この際だから人鬼について少し説明しておくよ。
この様子じゃ、いつまた鬼化する隊員が出るかわかったものじゃないからね」
 優音は冷蔵庫からペットボトルを二つ取り出した。どちらもミネラルウォーターだ。一つを一真に渡し、椅子に座るように促した。長い話になるということだろう。
「斎木君は鬼化についてどれくらい知ってる?」
「霊気が穢れて鬼化しちまうってくらいだよ。霊気を作れねェから人を襲うんだよな……」
「大雑把にはそんな感じだよ。付け加えるなら、穢れた霊気が霊体を侵蝕しきって肉体にまで現れた状態が鬼化なんだ」
「じゃあ、鬼になってる時って、もう霊体は真っ黒ってことか?」
「個人差はあるけれど、ほぼ真っ黒だね。霊体から黒い血が噴き出して、肉体っていう服を染めてるっていう感じかな?」
「けっこうグロいんスけど……、その例え……」
「そう?」
 涼しい顔で優音は続けた。鎮守隊員は感覚のどこかが麻痺しているのではないだろうかと時々思う。
「黒くなった肉体。あれは、穢れが鎧のように全身を覆った状態なんだ。まあ、鎧っていっても外装じゃない。肉体を変形させたようなものだから、斬りつければ血も出るし、本人にもダメージがある。やりづらい所以だね」
「それって、どれくらいのダメージなんだ?」
「幸か不幸か、穢れが表面を覆ってるから多少は軽減されるけれど、斎木君の霊格で普通に斬りかかればアウトだよ。近堂主座が通りかかってくれて本当に運が良かった」
「待ってくれよ。じゃあ、オレが人鬼に出くわしたら逃げるしかねェってことか?」
「まさか。ちゃんと対処法はあるよ。人鬼の弱点もわかってる。邪鬼よりも難易度は高いけれどね……」
 優音はメモ用紙を取り出した。
「まず大声で言霊をぶつけて霊体を揺さぶるんだ。意識が完全に浸食されていなければ、それで隙が生まれるし、無理だとしても穢れを削ぐことができる。特に鎮守役の言霊は破邪が混じっている。人鬼には覿面なんだ。その時、フォローしてくれる戦闘力の高い味方が傍にいるなら武器を手放すのが理想的だね。人鬼はこちらの攻撃的な気に過剰に反応する。臨戦態勢をギリギリまで解けば、それだけ言霊が霊体に大きく作用するけれど、危険度は格段に高くなる。どうかしたかい?」
「あ……、いや……。なんでもねェっス……」
 ポカンとしていたことに気づき、慌てて水を飲んでごまかした。
(……すまねェ、近堂のおっさん……)

 ――ただのバカと思ってたぜ……

 まさか、あの青春ドラマのような説得にちゃんと意味があったなんて。あの時、まだ自己紹介もしていなかった一真の戦力をちゃんと分析していただなんて。
 ついさっきまで「こいつが主座って、南組、ヤバいんじゃねェの?」などと誠次の所属先を本気で心配していたことを反省した。
「言霊が効かなかった場合は実力行使になるけれど、どこを斬ってもいいってわけじゃない。狙うのは――、ここだよ」
 優音は大きな絆創膏が貼られた自分の額をトントンと指で叩いた。
「ここに高濃度の邪気が集まって角を造り出す。角の根元から断てば、一時的に全身を巡っていた邪気は薄まる。後は霊符で動きを封じつつ邪気を祓うんだ」
 そこまで言い、優音は病室を見回した。
「何か聞こえないかい?」
「え?」
 鼓膜よりも感覚に触れたそれに一真は立ち上がった。