妖風薫りて

7話



 スニーカーに裸足を突っ込み、髪はぼさぼさ、パジャマも寝起きのように皺だらけ。身だしなみをやたらと気にする彰二がこんな格好で白昼堂々外を歩いていることが事態の深刻さを物語っている。
(よくねェな……)
 無意識に視た彰二の霊気が煙を混ぜたように濁っている。優音が鬼化した時、桜並木の空気があんな風に濁っていた気がする。
「ねえ、斎木君……」
 意思の通わない声音に密かに身構える。
 ダラリと垂れた両手には何も持っていなければ、手首に隊員が肌身離さず見につけているはずの隊員証も見当たらない。彰二得意の霊符攻撃がくることはないと考えてもいいだろう。袖口に仕込んでいるとしても、せいぜい数枚。隊員証がなければ、他の武器を隠し持っている可能性も限りなく低い。なのに――、得体の知れない胸騒ぎがする。
「お館様は……、どこだろう……?」
「なに……?」
 彰二の口から出るにはあまりにも突拍子のない単語に言霊を反芻する。聞き間違いでなければ、彼は「お館様」と言わなかっただろうか。
「お館様だよ……。探さなくちゃいけないんだ……」
 今度ははっきりと聞こえた。「お館様」、と。
 この呼称を口にする可能性があるのは、西組では望、宗則、優音、剛士、そして甲矢と総矢のごく限られた者のみ。

 ――まさか……?

 湧き上がる不吉な考えを抑え込んだ。
「……なに言ってんだ、沖野」
 彰二の様子を窺いながら水晶玉に手を触れる。自分の考えが外れてくれていることを祈った。
「んなヤツ、いねェよ。だいたい、誰なんだよ、『お館様』って」
「嫌だなあ、斎木君」
 彰二は「鎮守隊を知らない」と言われたかのように呆れたように笑った。
「決まってるじゃない。僕達が御守りしなきゃいけない……、太狼一門を統べるお館様だよ……。ああ、そうか……」
 彰二は納得したように頷いた。
「斎木君は……、天狼に連なる霊筋だっけ……。知ってるはず……、ないよね……」
 傍の電柱に手をついてよりかかり、彰二は肩で息を始めた。
「おい、沖野!?しっかしろ!オレの声が聞こえてるか!?おい!!」
 言霊に霊気を込めて怒鳴りながら肩を揺さぶっても、彰二は地面を虚ろに眺めたままだ。
「どこにも……、いらっしゃらないんだ……。どうしよう……、ねえ、どうすればいいのかな……。僕らは……、お館様……の……お膝元の……民……、あの御方を護るのが……、役目……。それに、ね……」
 虚ろな目がこちらを見た。壊れたように目から涙が流れていた。
「あれは……、ぼくたちが……、やったんだ……。お館様は……、ぼくたちをお嫌いになったのかなあ……」

 ――ヤバい……!

 咄嗟に大きく飛び退いた。彰二の体から濁った霊気が立ち上り、皮膚が黒く変色していく。
「いない……、いないよお……!」
「沖野っっっ!」
 ビキリと硬い物が軋む音がした。彰二の額で黒いものが突出した。パジャマを引きちぎりながら黒金のように色を変えた体が膨らみ、手足が伸びていく。
 過ったのは先日の優音の異形化した腕だった。
「まさか……、鬼化ってヤツか……?」

 なぜ――?
 何があった――?
 どうして、沖野が――?

 いくつもの疑問が過った。どれも答えなど出るはずがなく、この場で考えることでもない。
 数秒にも満たない内に小柄だった彰二の体は家の二階に届くほどにまで伸び、体は鋼鉄のような筋肉に覆われ、腰にぼろ布を引っかけ、額から黒い角を生やし――、昔話に登場するような鬼の姿へと変わっていた。
 少し迷い、水晶玉から霊符を引っ張り出す。

“十二天が一、青龍!”

 緑に光る符が黒い鉄板のようになった胸に吸い寄せられるように貼りつく。低く暗い呻きが漏れ、ぐらりと巨体が揺れた。

 ――効いたか……?

 青龍の霊符は相手を眠りに誘うことができる。木属性の一真の霊気を込めれば、強烈な誘眠効果があるはず。鬼化しているとはいえ、元は彰二だ。そう簡単に破れないはず――。
 彰二は何度も頭を振り、引っ掻くように符を握り締め――、
「な……」
 あまりの光景に一真は続く霊符を放つことを忘れて息を呑んだ。
 符が貼りついた肉ごと引き千切られていく。ぶちぶちと肉が千切れる音はあまりにも現実味がなかった。べしゃりと地面に捨てられた符から霊気が抜けていく。
「嘘だろ……」

 ――こいつは……、本当にあの沖野か……?

 霊符が黒い肉から流れる血で赤黒く染まっていく。痛覚を失ったかのように彰二は胸から血を流しながら咆哮を上げた。抉り取られた胸の肉が蠢きながら塞がっていく。跳躍しながら彰二は一真目掛けて両の腕を振り上げた。
「チ、」
 舌打ちと共に取り出した木刀が碧に灯った。
 振り下ろされた腕と木刀がぶつかり、骨が砕ける嫌な音が結界内に響いた。絶叫する彰二の腕でメキメキと音を立てて骨が再生していく。

風よ……

 突き出した掌に集まった風が巨体を圧した。巨体が叩きつけられた壁がガラスのようにあっけなく砕けていく。
 距離を取り息を吐いた。

 ――クソ、やりにくい……!

 手に負えないほど強いというわけではない。厄介なのは強烈な治癒力くらいだ。
 これが彰二でなく、ただの邪鬼だったならば、迷うことなく碧刃を放っている。相手が人でさえなければ……。
 腕を再生させ、彰二が瓦礫の中から立ち上がった。

 ――しょうがねェ……

 構えた木刀に碧の風が渦巻く。
 狙うは両足。あの巨体ならば足をやれば暫く動けないだろう。
 問題は――、加減を間違えれば、両足を吹き飛ばしてしまうということ。いや、下手をすれば下半身を吹き飛ばしかねない――。
「恨み言なら後で聞くからよ……」

 ――変な動きしねェでくれ……

 狙いを定め、木刀を振り上げた。
 風を放つ刹那、感覚に引っかかった霊気に眉を顰める。
 周囲で黄の光が弾け、新たな黄が揺れた。パンッと軽快ともとれる音が空気を揺らし、硝煙の匂いが鼻を突いた。
 くぐもった声を上げ、彰二は額を押さえてのけぞった。
 足元に黒曜石の矢じりの破片のようなものが転がる。
「下がっていたまえ、少年」
 どっしりと太い声に振り向く。茶系のスーツを身に着け、黒い髪を短く刈り込んだ男が立っていた。一見すると、サラリーマンのようだが、がっしりとした体つきと右手の拳銃が只者でないことを告げる。男は鬼の存在をまるで意に介することなく、のしのしと一真の横に並び、さらに数歩前に出た。
「……アンタは……?」
「ははは、覚えておらんかあ!俺はバッチリ覚えているんだがな!匠のお孫さんの一真君だろう?四年ほど見ないうちに、すっかり大きくなったなあ」
 バンバンと一真の背中を叩き、近所の子に会ったように親しげに笑う男の顔を凝視する。言われてみれば、どこかで会ったような気がしないでもない。
「え……と……、ジイちゃんの客か……?」
「その通り。今は同志だがな」
 男は続けざまに発砲した。黒い手の先で光るカッターナイフのような爪が撃ち抜かれて地面に飛び散った。
「ここは任せなさい。ただでさえ戦いづらい人鬼だ。友人ならば尚更だろう?」
「それはそーだけど……、って、後ろ!」
「ん?」
 言われている意味がわからない様子の男の背後で彰二が爪の残る手を振り上げた。
「いーから、そこをどけ!どいてくれ!」
 説明する間も惜しくて怒鳴りながら手の平を突き出す。木刀で斬りかかろうにも、霊風を放とうにも、男が彰二と一真の間に立っているので邪魔で仕方がない。
 手の平で風が渦巻いた。

“風よ……”

 風撃を撃つよりも早く、無造作に薙がれた黒い腕が男の腹に直撃した。投げられたボールのように吹き飛び、男は頭から近くの家の植込みに突っ込んだ。バキバキと枝の折れる音がやけに大きく聞こえた。
「あーー……、えっと……」

 ――まあ、いっか……

 一真の結界を破って入ってきたということは、鎮守役だろう。あの程度なら多少時間がかかっても自力で治癒できるはずだ。
 軽く咳払いし、一真は木刀の切っ先を彰二に向けた。
「とにかく!オレが相手だ、沖野。あのオッサンを黙らせたことは不幸な事故にしといてやるから、安心してオレにぶっ飛ばされてく……」
「選手交代には早いぞ、一真君」
 横手からかかった声に一真は耳を疑った。
 先ほどのダメージなどないかのように男は起き上がり、スーツを叩きながら歩いてくる。鎮守役は高い治癒力を備えているとはいえ、あれだけまともに食らえば動けるまでにもう少し時間がかかるはずだ。
「ここはまず、大人のお手本を見ておきなさい。いや、先輩の、といったほうがいいかな」
「そーいうこと言ってる場合じゃねェし……って、沖野!?」
 何故か彰二は正面に立つ一真ではなく男に咆えた。黒い指の先で爪が再生していく。
 さすがに今度は反応し、男は銃口を向け――るのではく、留め具を確認して銃を数珠に入れた。
「オッサン、バカか!?戦ってる最中に得物仕舞ってるんじゃねェええええええええええ!」
「フ、合いの手が上手いな、一真君!見事なツッコミだ!」
 鬼が迫るのが見えていないかのように男はビッと親指を立てた。
「よく見ておきなさい。これが正しい人鬼の対処法だ!」
彰二に向き直り、彼はバッと両腕を開いた。
「少年!この通り、俺は丸腰だ!さあ、心行くまで語ろうじゃないか!」
 張りのあるよく通る声に一真は戦慄した。

(こ、このオッサン……)

 ――本物のバカだ………………!

 瞬殺の予感に霊符を取り出す。
「生きていれば悩みは尽きることはない。君ほどの年ならば、世の中が汚く見えて仕方がないこともあろう!が!決して悲観することは……」
 十年以上前の青春ドラマに出てきそうなセリフを熱く語り出す男に彰二は爪を振り上げて跳躍した。
(……勝負あったな……)
 今度こそ撃沈だろう。
 だが、この時間のおかげで手の中の霊符は既に発動している。
「聞く耳持たんか……。やれやれ……」
 溜息と共に男が表情を変えた。
 スーツの袖から覗いた水晶に右手で触れた彼の霊気が急激に攻撃性を帯びる。

 ――なに……!?

 霊符を放つことを忘れ、思わず男の所作を見つめた。
 取り出された一振りの刀が霊気を吸い上げて白く光った。地面を蹴り、男は巨体に向けて刃を繰り出した。黒い腕が薙いだのと白い光が奔ったのは同時だった。

(どっちだ……?)

 ――どっちのほうが速かった……?

 一真が立っている場所からは死角になって、刀が届いたのかさえわからない。
 パキッと音を立てて彰二の額の角が根元から折れた。白い霊気が額から全身に回り、巨体が後ろに倒れ込んだ。
「やはり飛び道具はいかんなあ。得物は刀に限る!」
 全くの無傷で男は自分の刀をしみじみを眺め、こちらを見た。
「一真君!手伝ってくれないか?一時的に邪気を祓った今ならば六合で、彼の鬼化を解くことができるはずだ。おお、その手に持っている青龍も使えるな。まずは、それで眠りを深くしよう」
「お、おう」
 六合を取り出して駆け寄る。
「全身だからな、十枚くらいはいるだろう。青龍は四枚ほど手足に貼っておいてくれ。どうした?」
 一真が自分をまじまじと見ていることに気づき、男は怪訝な顔をした。
「アンタ、鎮守役だよな?どこの組の……」
「おお、これは失敬」
 刀を収め、男は居住まいを正した。
「武蔵国現衆南組鎮守役主座・近堂徹だ。匠の霊刀の大ファンでな。昔から世話になってるよ。小学生くらいの君に何度か会っているんだが……、いやあ、鎮守役として再会することになるとはなあ。最近の活躍は北嶺君から聞いているよ。よろしくな」
 大らかに笑い、徹は敬礼した。