妖風薫りて

3話



 どこまでも続く桜並木。舞い落ちる花びらの中をひたすら駆けていた。

 ――どこ?

 きょろきょろと見渡し、待っていてくれているはずの誰かを探す。

 ――どこにいるの?

 立ち止ると心細くなり、声を限りに呼んだ。
 自分よりもずっと背の高い桜達が幼い声をかき消し、不気味なほどの静けさが戻ってくる。
「あ……」
 不意に思い出す。
 その人がもういないことを。

 ――そうだ……、僕は……

 足元に転がる白い小石に赤が散っている。乾いたそれに触れると指先で微かに霊気が漂った。

 ――この向こうにいるの……?

 まだ間に合うだろうか。会ってくれるだろうか。
 謝れば――、赦してもらえるだろうか。
 点々と続く赤を追い、また駆け出した。

 ――会いたい……!会いたいよ……!

 風が舞い、花びらが行く手を阻むように降った。思わず立ち止まる。
「あ……!」
 肩を押さえた人影が花霞の中に浮かんだ。
 大好きだった穏やかな笑みを浮かべ、彼は口を開いた。
「戻りなさい……」
「何故です!?僕も一緒に……!!」
「甘えるな」
 初めて向けられた冷たい視線に動けなくなる。
「お前に情けをかけられるなど虫唾が走る。金輪際、私の前に現れるな」
 吐き捨て、肩から滴り落ちる血もそのままに彼は花吹雪の中に溶けるように消えた。

 ――僕の……せいだ……

 追いかけたくても体が石に変わってしまったように重くて動かない。
 せめて謝りたいのに、唇が震えて何も言葉を紡げない。

 ――ごめんなさい……!ごめんなさい……!ごめんなさい……!!

 地面に落ちた桜の花びらを握り締め、ただただ泣いた――。



「……ッ」
 目を開けるとこめかみを伝う熱い滴が枕を濡らした。
(どうして泣いてるんだろう……?)
 ぼんやりと白い天井を眺め、望は涙を拭った。
 夢を見ていたことは確かだが、内容を全然覚えていない。
 ただ、とても悲しい夢だった。それだけはわかる。
「う……ッ」
 体の奥で渦巻く悲しみにまた涙が溢れた。
 胸を切り刻まれるような喪失感に肩を上下させて息を吐く。

 ――まさか、魂の記憶……?

 これほどまでに深い喪失を体験した覚えはない。あるとすれば、前世。自分が霊獣として生きていた頃だ。
(そろそろ僕もマズいのかもしれないな……)
 同格の一真が異常覚醒を頻発したり、白昼夢を見ているのだ。彼よりも覚醒が早かった望に何も予兆が起きなかったことのほうがおかしいだろう。何度も起きるようならば、いよいよ危険だ。
(まあいいか……)
 蝕の予兆だとすれば楽観できるものではない。ほんの一ヶ月ほど前の望ならば深刻に考え込んでいただろう。だが、今は一真がいる。同じように蝕を迎えつつある仲間が傍にいると思うと、それだけで気が楽だ。
 後で考えることにして、かなり大切なことにようやく思い至る。
(……ところで、ここはどこだろう?)
 ベッドを遮断するようにグルリと周りを囲んでいるカーテン。独特の消毒薬の臭いと白い天井。場所を特定するのに時間はかからなかった。
(保健室……?)
 階段を上っている途中で急に意識が遠のいたのを覚えている。倒れたと考えて間違いないだろう。階段から落ちたはずなのに怪我をしていないということは、誰かが支えてくれたか、霊符で治療してくれたか。隊員の誰かが傍にいた可能性が高い。
(誰だろう……?)
 気絶する寸前に誰かが傍に来た気がする。敵意も殺気も感じなかったし、邪気もなかった。補佐の霊気は全て覚えているので、補佐の誰かならばわかるはずだ。一般生徒の可能性もあるが、どこか懐かしい気がしたような気もする。

「城田君?開けるよ」

 控えめな声と共にカーテンが開いた。
 スーツの上に白衣を着た青年が立っていた。
「牧瀬先生……」
「よかった。起きていたんだね」
 この春から槻宮学園で保健医として勤務している牧瀬零だ。就任時に挨拶はしているが、直に会うのはまだ二度目だ。
「気分はどう?よく眠れたかい?」
 眼鏡の奥で少し灰色がかった瞳が笑った。
 零は大学の保健体育の授業も担当していて、授業がない時は第二保健室にいる。
 第二保健室は隠人専門の相談や応急処置を行い、その担当者の零もまた紋付の隠人だ。狼の霊筋らしいが、関西出身なので刃守の里に連なる霊筋ではないのだろう。
 生徒や補佐によるとどんな些細な相談にも乗ってくれるし、治療の腕も確かで霊符の扱いも上手いらしい。就任してまだひと月ほどだが人気はかなり高い。
「いきなり目の前で倒れるから驚いたよ。午後の授業は欠席で伝えておいたからね」
「先生が運んでくださったんですか?」
 思わず零をマジマジと眺める。身長こそ高いが、見るからに頭脳派で線も細い。他人のことを言えたものではないが、人を運んでいる姿を想像できない。
「他の生徒に見つからないように運ぶのは少し骨が折れたけどね。少し診てみよう。起き上がれるかい?」
 一通りの診察を終え、零は頷いた。
「肉体も霊気も安定している。もう大丈夫だ。巡察に出ても問題ないよ」
「あの、僕、邪気にでも中てられたんでしょうか?」
「ははは。そういうのじゃなくて、慢性的な過労だよ。さて……、」
 カルテに書き込み、零は傍の椅子に座った。
 望の脳裏を入院中の昼頭が過った。

 ――マズい……。これはお説教されるパターンだ……

 相手は保健医である。怒られるネタがありすぎる。
 チラリと見た壁の時計はまだ五時限目が始まったばかり。保健医に説教されるくらいならば、教室に戻って古典の授業を受けたほうが精神ダメージは少ないが、逃がしてくれそうにない。

 ――うう、怖い人がまた増えちゃったなあ……

 優音と似た雰囲気からクドクドと説教するタイプだろうと勝手に予想する。
 身構える望の予想を裏切り、零は心の底から心配そうな顔をした。
「ちゃんと寝ているかい?鎮守役が激務なのは知っているけれど、君の場合は度を超えているよ。男子高校生とは思えないくらい軽かったし、ご飯もあまり食べていないんだろう?」
「え……と、すみません……」
「君が謝ることなんてない。まだ高校生の君に大役を押しつけざるをえない、鎮守隊の現状にこそ問題があるんだ。そう、これは僕達大人に責任がある……」
「他にやれる人がいないから仕方がないんですよ」
「城田君!」
 零はグッと望の両手を握りしめ、目を潤ませた。
「なんて痛ましいんだ……。その考え方は、ブラック企業に飼い慣らされて疲れ切った正社員の発想だよ……。いいかい?君はまだ若い……!諦めちゃダメだ!人生に希望を持って生きるんだ……!生きていればいいことだってある!」
「まだ人生諦めるくらい深刻なことになってませんけど……」
 霊格が丁を超えると肉体より霊体のほうが強くなってくるので、肉体の疲労も霊力でかなり補えるようになる。人間がストレスのような精神的な疲労を入浴や睡眠といった肉体の回復で補うのと逆になってくるのだ。鎮守役が過労死してもおかしくないような激務をこなせるのは、この霊体と肉体の逆転現象が大きい。
 むしろ、鎮守役にとって必要なのは霊体のエネルギー。気力や使命感、願い、思いによって魂が燃えている状態だ。これが弱まった時、肉体の回復力も鈍る。
  妖獣の一件、優音の入院。課題は山積みだが、今は頼りになる副将兼弟子がいる。気兼ねしなくてもいい存在がいることで、望もまた遠慮なく自分を出すことができる。霊体のエネルギーが入隊以来最も高まっている自覚があるくらいだ。危険度は一真が入隊する以前のほうが上だっただろう。
 そんなことを知る由もない零は涙をダラダラと流した。
「何も言わなくてもいい……!先生には全部わかっているから……!」
「えっと……」
 たぶん、わかっていないと思います……。
 反論すると余計にエキサイトしそうなので様子を見ることにする。
「辛くなったら逃げておいで。いつでも先生がドクターストップをかけてあげる。必要なら診断書を書いてあげるからね。職権乱用と昼寝する場所を提供するくらいしかできない不甲斐ない先生を許しておくれ……!」
「先生!?そこまでやらなくてもいいですから……!昼寝する場所だけでも十分助かりますし!」
「どこまで遠慮深いんだ、君は……。その若さでそんなに控えめになってしまうなんて……。可愛そうに……」
 眼鏡を取り、零はアイロンがかかったハンカチで涙を拭った。
(ダメだ……。僕が何言っても聞いてくれそうにないや……)
 どうやら厄介な人物の前で卒倒してしまったようだ。こうなったら、どこか話が途切れるところで逃げるのみである。
「先生はね……」
 ドアが開く音がした。

「牧瀬先生〜〜!ご注文の品、お届けに参りましたよ〜〜」

「おや、いいタイミングで届いたようだ。少し待っていてね」
 零は涙をピタリと止め、スタスタと歩いて行った。
(はあ、助かった……)
 握り締められた手をさすると零の霊気が仄かに立ち上った。それだけ気合を入れて話していたのだろう。
(悪い人じゃないけど……。どちらかっていうと、凄くいい人みたいだけど……)

 ――もの凄くやりづらいタイプかもしれない……

 一真や剛士のように口よりも行動に出すタイプでもなければ、宗則や優音のように直接説教してくるタイプでもない。善意に溢れた熱血タイプ――、新手だ。
(今のうちに逃げよう……)
 結界酔いでも起こさない限り保健医と顔を合わせる機会はない。この場を逃げてしまいさえすれば……。
 傍にかけられていた上着を羽織り、靴を履いていると零が戻ってきた。
「もう起きられるのかい?」
「はい。これから授業に戻……」
「それはよかった。お昼、まだだろう?僕もなんだ。一緒にどうだい?」
「だ、大丈夫です!後で食べますから!」
 一真や優音、剛士ならばともかく、初対面の相手と食事をするのは苦手だ。望の食欲は「男子高校生」というカテゴリーから大きく外れているらしく、普通に食べていても食欲がないのかと周りに気を遣わせてしまう。用意した料理が口に合わないのかと不安がる人も過去にいた。
「後で食べるのも今食べるのも一緒さ。君が最優先しなければいけないのは授業じゃなくて、休養だ。いい機会だと思って、ゆっくり食べて行きなさい」
「え、で、でも……!」
 渋る望を引きずるようにして零はカウンセリング室のドアを開いた。
 温かな木製のテーブルとイス、窓辺には観葉植物。リラックスできる雰囲気の部屋だ。話には聞いていたが、思っていたよりも相談や悩みを打ち明けやすそうだ。この学園は本当に隠人のケアに力を入れてくれていると思う。
 少し感心したのも束の間、目に飛び込んできたものに望は固まった。
(う!?)
 テーブルの上に丼が二つ置かれている。卵と鶏、カツオ出汁と醤油が合わさったいい香りが漂ってくる。丼の横にちょこんと置かれた小さなお椀は和食に必ずついてくるという、学園自慢のお吸い物だろうか。槻宮学園は京都が本場。学食のレシピも出汁に拘っていると玲香がやや得意げに言っていたのを思い出す。
「あの、先生……。これは……?」
「親子丼だよ。嫌いかい?」
「そうじゃなくて、誰か他の人の為に頼んだんじゃないんですか?」
 必死に断る口実を探すと、零はにっこりと笑った。
「嫌だなあ。君の分だよ。寝ている間に注文しておいたんだ。ちょうど届く直前に起きてくれて助かったよ」
「え……」

 ――なんて断りづらいんだろう……

 沈痛な表情の望を他所に零はメニュー表を取り出した。第二保健室勤務の保健医は学園で邪霊絡みの異変が起きると夜遅くまで待機するばかりか、泊まり込みになることも多々あるらしい。そのため、隠人専用の学食、通称「隠れ食堂」から内線一本で食事を取り寄せることができる――、と聞いたことがある。
「僕達がこうして日々平穏に暮らせるのは、城田君達が戦ってくれているおかげだからね。こんな時くらい遠慮しないで。何か好きなものがあれば注文するよ。そうだ、焼肉はどうだい?今日も放課後から巡察だろう?しっかり食べておいたほうがいい」
「いえ!お気持ちだけで……!」

 ――どうしよう……

 こめかみを冷たい汗が伝った。
 そばやうどんでさえ一人前を平らげるのが辛いのに。親子丼なんて完食できる自信がない……。好意で用意してくれたものを残すのは悪いし、残したりすれば余計に心配して本気でドクターストップをかけそうだ。
「本当に遠慮深いなあ、君は。とにかく食べよう。冷めてしまうよ?」
 にこにこと席を勧める零の笑顔に桁違いの強敵の登場を感じた。





「どうしたの、若菜ちゃん?」
 学校からの帰り道。葉守神社に向かう途中で詩織は隣を歩く若菜を窺った。
「なんだか、さっきからぼーっとしてるよ?」
「ん〜〜、なんかダルいっていうか……」
 若菜はググッと伸びをして首を傾げた。
「なーんか調子出ないのよね。姉ちゃんも最近、眠そうにしてるし」
「光咲お姉ちゃんが?」
 珍しく今朝の光咲は欠伸をして辛そうにしていたのを思い出す。心配すると、「何でもないよ」と慌てたように笑っていたが。
「そーなのよ。昨日なんか部屋覗いたらベッドに突っ伏してるんだもん。まだ夜の九時だよ?邪霊にでもやられたんじゃないかと思って、霊符構えちゃった」
「えーーーーっ!?お姉ちゃんに霊符使っちゃったの!?」
 若菜はカラカラと笑った。
「いくらあたしでも、そこまではやんないよ〜〜。近寄って声かけたらちゃんと起きたし。でも、その後すぐに寝ちゃったんだよね。姉ちゃん、十時から見たいドラマがあるとか言ってたのにさ」
「……もしかして風邪かなあ?流行ってるよね」
「そうかもね。あ、ってことは、ダルいのって姉ちゃんの風邪が移ったのかな!?うわ、今日は早く寝なきゃ〜〜!」
「神社でお薬もらう?」
 隠人も風邪を引いたら市販されている風邪薬を服用する。だが、それだけでは不十分で、霊力を高める霊体の栄養剤とでもいうべき霊薬を同時に服用するのが望ましい。肉体が弱ると霊体も弱り、邪につけこまれやすくなってしまうからだ。霊薬は葉守神社のような鎮守隊の屯所や現衆の支部で取り扱っていて、詩織や若菜のように講習受講中の仮現衆でも申し込めば無料でもらえる。
「あ〜〜、どうしよっ!飴タイプだったらいいんだけど、粉タイプは苦いんだよね〜〜。でも飲んだほうがいいかあ……。講習休むわけにいかないし……」
「ジュースで呑んだらいいんだよ。霊薬を呑む時は、お水やお白湯じゃなくてもいいって先生が言ってたもん。ジュースや甘酒でもいいから、呑まないよりも呑んだほうがいいって」
「そっか!そうだよね!詩織ちゃん、さすが!よっしゃ、帰りにジュース買って帰るぞ〜〜!」
 クスクスと笑う詩織の頬を風が叩いた。
(なんだろう……。この感じ……?)
 腕の霊紋がジワリと疼く。理由はわからないが妙な不安が湧きあがった。

 ――本当に、風邪なの……?

 三日くらい前からだろうか。クラスで休む子が増えている。今日も二人くらいが新たに休んでいた。先生は風邪だと言っていたが、その先生自身の霊気はどこか緊張していた。何かを隠しているかのように。
(お兄ちゃん……)
 鎮守役になってから、あまり話をできなくなった兄が浮かんだ。今日は早く帰ってくるだろうか。少し話をできるだろうか。
(なんだか風の中に変な匂いがするよ、お兄ちゃん……)
 三日前から感じている異変を相談してもいいだろうか……?
 変なことを言い出したと思われないだろうか。
(ううん。きっと大丈夫……)

 ――お兄ちゃんはいつも詩織のお話、笑わないで聞いてくれるもん……

 今日は兄の好きなものでも作って待っていよう。そう決めると不安が和らいだ。