妖風薫りて

2話



 ドアを開けるなり聞こえたのはパラパラと書類を捲る音だった。
 ベッドの上に身を起こし、優音は見事な手つきで書類の束を仕分けていく。異形化は収まっているとはいえ、両手にはまだ厚く包帯が巻かれているし、額の瘤は消えたとはいえ大きな絆創膏を貼っている。鬼化を抑えるために符を内側に巻いているので、かなり動かしづらいはずなのだが、ペンを走らせる右手は全く違和感を抱かせない。
「ああ。入ってくれていいよ、斎木君」
 入り口で呆気にとられている一真に気づいたのだろう。彼はようやく手を止めた。
「…………何やってんスか、昼頭……」
 予想はつくが、一応聞いてみる。
「今日の夜番のシフト調整を、ちょっとね。座っててくれるかい」
 望が一緒にいれば、「何やってるんですか、壬生君!寝てなきゃダメでしょう!?」などという、超レアなツッコミが見られただろう。
「見舞い、ここでいいスか」
「ああ、いつも助かるよ」
 棚に置かれたウバのティーパックを嬉しそうに見やり、優音はまた書類に視線を落とした。傍らのマグカップからは湯気が立っていない。飲むことも忘れて事務処理をしているらしい。

 ――アンタ、組長のこと言えねェよ……

 あの上司にして、この部下有である。入院中くらい、大人しく療養していられないのだろうか。
 とりあえずベッドサイドの椅子に腰を下ろし、鞄の中から週刊誌を取り出す。
(鎮守隊って……、マジでタフだよな……)
 覚醒した隠人の身体能力や体力が一般の人間を軽く上回っているのは知っているが、これはどちらかというと気迫だろう。他の組もこうなのだろうか。

「うん……、これでなんとかなりそうだ……」
 何やら書き込み、ようやく優音は書類を脇に置いてマグカップを手に取った。一口啜り、顔をしかめたあたり、かなり冷めていたのだろう。
「お待たせ。もういいよ」
「えっと……、鬼化って、大人しく寝てねェといけねェんじゃ……?」
 入院しているのが望ならば、「そんなもんはオレが適当にハンコ押しとく!」と言って取り上げるところだが、優音が扱う書類はかなり面倒くさいものが多い。迂闊に取り上げると、後で物凄く後悔することになるのだ。
「脚もかなり重傷って聞いたけど……」
「鬼化の直後から甲矢殿が治療してくれたからね。もうほとんど治っているよ。退院許可が下りないのは……」
 言葉を切り、優音はドアに視線を走らせた。それだけでは足りずに、窓を閉めるように促す。
 隠人専門棟は基本的に個室で、術者の付き添いが常に必要な重症者用に相部屋がある程度。大部屋はない。霊的なダメージは外から入り込む邪気だけでなく、他人の霊気でも悪化しやすいからだ。
「……結界張ったほうがいいスか?」
 ここまで外を気にするということは、聞かれたくないことを話そうとしているということだ。恐らく、鎮守隊の外に出せないような話だろう。
「そこまではいいよ。この棟は霊気や邪気へのセキュリティが強化されているんだ。斎木君が霊気を高めたりしたら、すぐに看護師が様子を見に来る」
 一真が椅子に座り直すのを確認し、優音は一枚の書類を手に取った。
「今日来てもらったのは、斎木君に意見を聞きたいからなんだ」
「オレ?組長のほうがいいんじゃ……?」
 いつもは望と一緒に学校帰りに見舞いに来る。しかし、今日は一真一人だ。昼休みに優音本人から言伝が飛んできて授業を抜け出してきたのだ。望はまだ授業中だろう。
「いや、君のほうがいい。組長は本当に危険なことを隠して一人で抱え込むところがあるからね」
「あ〜〜、そーいうところあるよな、あの人」
 望にしてみれば、補佐を危険に晒さない為なのだろう。
 組長である彼の霊格と補佐の霊格は違いすぎる。望にとっては何の問題もない邪気も、補佐にとっては危険レベルだということも多々あるらしい。今回の優音の件のように。
 特に今回は堪えたらしく、優音が入院してから三日ほど、望はこれでもかと凹んでいた。
 その優音はケロリとしたもので、意識を取り戻してからは彰二や他の補佐に指示を飛ばし、屯所から山積みの仕事を持ってこさせては次々に捌いている。この入院患者の手も借りないといけないような人手不足はそろそろ本気でなんとかしないとヤバいだろう。
「単刀直入に言おう。ここ数日で邪気に変化が生じ始めているんじゃないかい?」
「え……?」
 ギクリとする一真を一瞥し、優音は眼鏡を押さえた。
「ここのところ、運び込まれる隠人が急増しているんだ。鎮守隊でも……、」
 優音は手にしていた書類を見せた。さっき調整していた巡察シフト表だ。
「一昨日あたりから急病での欠席が多い……。例えば、沖野君はこれまでに一度も欠席したことがなくてね……。徹夜で大物を封じた日も夕方の交代には必ず顔を出すし、倒れるまで霊符の修業をした時も次の日、真っ青な顔で出てきたんだけどね……」
 今日と明日の夜番にあった彰二の名前は消され、他の補佐の名前が入っている。昨夜の巡察中に体調を崩して早退し、今朝がた今日と明日の巡察を欠席すると伝えてきた。危険を伴う巡察ならばまだしも学校にも来ていないので、この後に見舞いに行こうと思っていたところだ。
「隊の理由不明の急病人は沖野君を入れて三人目だ。僕が入隊して以来、こんなことは初めてなんだよ」
「昼頭は、その原因が邪気だって考えてるのか?」
「考えられる原因はそれくらいしかないんだ。隠人はウイルスや細菌に強い反面、邪気や穢れに弱いからね。もっと具体的に言えば、邪気に妖気が混じり始めてるんじゃないかと、僕は思っている。どうかな?」
 一瞬落ちた沈黙を破るように廊下が騒がしくなった。
 ガラガラと担架を押す音と何人かの足音が部屋の前を通り過ぎていく。ドアの向こうから微かな邪気の香りがした。

 ――ごまかすのは無理だろな……

 むしろ知らせておいたほうがいいかもしれない。退院すれば、優音もすぐに直面することなのだから。
「水もらっていいスか?」
「水でいいのかい?ジュースが沢山あるけど……」
「今はジュースな気分じゃねェから……」
 横の冷蔵庫を開けると、ヒヤリとした空気が漏れた。補佐達が見舞いに来るたびに置いていくらしく、中は缶ジュースとペットボトルが所狭しと詰まっている。紅茶を愛飲する優音はほとんど清涼飲料を飲まないので、一真が来るたびに減らしている。
 ペットボトルの蓋を開けて喉を湿らせる。どこまで話していいものかと考えながら。
「邪気が濃くなってきてるのは間違いねェよ。でも、それが妖気かって言うと微妙なところでさ、組長も測りかねてる感じなんだよな……。総矢は里帰りしてるし、甲矢は怖い顔して考え込んでるから訊きづれェし。たださ、」
 水を半分ほど飲み、息を吐く。
「霊山から通達が来たってことは、これから破片が来るのは確定だろーし、ホントに妖気が混じってきたりするんなら、何か手を打たねェとダメだよな……。沖野達が倒れたのが妖気のせいだっていうなら、総矢を待ってる場合じゃねェ……」
一真の答えを予想していたように優音は頷いた。
「まったく同感だよ。その件について、今のうちに伝えておきたいことがあるんだ」
「オレに?」
「暫くは内密にしておいてほしいんだ。組長や夜頭、伝令役にもね」
「それはいいけど……」
 望にも伏せてほしいというのは、よほどのことだ。優音のことなので、何か考えがあるに違いないが。
 冷めた紅茶を一口啜り、優音は手にしていたシフト表を他の書類に重ねた。
「今回の妖獣は元刃守の里長だ。もう聞いているだろうけれど、僕達、武蔵国の鎮守隊員のほとんどは刃守の里から現に逃げ出した霊獣を祖としている……」
「そういえば、皆の先祖って里出身だから、かなり霊筋が近いんだっけ……」
 一言で「霊筋が近い」といっても、大まかに二通りの意味がある。
 ひとつは文字通り、霊筋そのものが近しい場合。同じ霊の系譜に連なるということで、血縁と近いように思えるが、その範囲は遥かに広い。必ずしも同じ霊種、例えば、太狼同士のみというわけではなく、代々主従の関係である太狼と貴狼、同じ刃守の里に住む狼達のように深い縁を持つ者同士も霊筋の上では近いのだという。優音が今言っている「霊筋」はこの意味だ。
 もうひとつが、同じ獣の霊族であり霊格が近い場合。こちらも必ずしも同じ霊種である必要はなく、霊族が同じで、霊格が同等の場合だ。この場合、地縁や主従関係といった縁は関係なく、本人の霊格のみが物を言う。一真と望、伸真と宗則はこれにあたる。霊獣にとっては霊格の差は大きな意味を持ち、しばしば対人関係さえも左右するという。実感はないが、一真と望が出会うなり互いに好印象を抱いたのは霊格の近さが一因していて、逆に、望と補佐がどこかよそよそしいのも、霊格の差が開きすぎていることが一因となっているのだという。
 隠人の場合は祖とする霊獣の関係者なども含まれ、かなり複雑なことになっているらしいが、詳しく聞いてみたいとは思わない。とりあえず、一真が今までに聞いた限りでは武蔵国の鎮守役や補佐はほぼ全員、「霊筋が近い」らしい。
 そして、その根元に遡ると――。
「うげ!?ちょっと待ってくれよ!これって……」
「そう、僕達の先祖は、その妖獣に仕えていたんだ。そして、受け継いでいる霊筋に何らかの縁が残っている可能性がある……」
 優音はもう一度、しっかりと閉まっているドアを窺った。
「あんまり考えたくはないけれどね……。甲矢殿達ほどじゃないかもしれないけれど、僕達は奴の妖気に中てられやすい可能性があるんだ……。通常なら影響が出ない程度の妖気にさえもね……。全部推測にすぎないけれど、院長先生がそれを考えないはずがない。僕の入院が長引いているのも、ほぼ治っているのに、まだ霊符を貼っているのも、それが原因なんじゃないかってね……」
 言葉を失う。
 優音の推測が間違っていなければ、彰二達は妖気にやられた可能性が高いということだ。それはつまり、妖獣の妖気は既に西組を蝕み始めていることを意味する。妖獣がまだ封じられているにもかかわらず、だ。
「斎木君」
 優音は改まった様子で切り出した。
「組長と西組を頼んだよ。万一、組長が動けないようなことになれば、君が副将として指揮を執ってほしい」
「オレが!?副将とかいっても、まだ見習いだぜ!?指揮だったら、昼頭とか夜頭のほうが絶対いいって!皆もそっちのほうが納得するだろーし!」
 眼鏡の奥の瞳が真っ直ぐに見つめた。
「いいや、君にしか無理だよ。君は西組で唯一、天狼に連なる霊筋だ。それは、刃守の里長の妖気に僕達よりも耐えられるということでもあるんだ。これから妖気が強まった時、武蔵国で最後まで動ける鎮守役は、間違いなく君だろうね」
 淡々と、だが噛みしめるような重さがあった。昨日今日に思いついたようなものではなく、何日も前から考えに考えて出された結論だということがよくわかる。
「だから、万一の時は西組と組長を頼むよ、斎木君」
「ああ……。わかった……」
 頷き、顔を上げた。
「その時はオレが指揮を執る。だけど、それは最悪の場合だぜ?あと、」
 少し真顔で優音を見つめた。
「オレが指揮してめちゃくちゃになったからって、後で文句言わねェでくれよ?ノークレームで頼みてェんだけど……」
「そうだねえ、『めちゃくちゃ』の程度によるかな?」
「げ。フォローしてくれねェの!?」
 本気で慌てると、優音が笑い出した。
「冗談だよ。意外と真面目なんだね。もっと後先考えていないと思ってたよ」
「ちょっと酷いぜ、昼頭〜〜!」
「ごめん、ごめん。全面的にフォローするから思いきりやっちゃっていいよ」
「は〜〜、焦った……。マジで頼むって……」
 どちらともなく笑い出し、その後はいつも通り、望の体力の話へと話題は反れていった。





「ッ」
 階段の踊り場で望は額を押さえ、壁によりかかった。
(まただ……)
 何かがこちらを視ていたような気がする。玉響で妖気に囲まれた時に感じた視線と近い獣のように鋭い気配だった。
(どこに……?)
 意識を澄まして周囲の気配を探っても、まばらな人の気配を感じるばかり。先ほどの視線の主は知覚できない。
「気のせい……?」
 五分ほど気配を探り、諦める。一昨日くらいからだろうか。学校で、屯所で、病院で。ところ構わず、あの視線を感じる。確かに感じるというのに、どれだけ気配を探してもその主を探り当てることができない。こんなことは初めてだった。
(長期戦になりそうだな……)
 伝う汗を拭い、息を吐く。吐いた息がやけに熱い。
 西組で体調不良者が出始めたのが一昨日くらいから。あの視線を感じるようになった時期とほぼ同じだ。これまで巡察を休んだことのなかった補佐達が相次いで倒れたことと、この妙な視線に何らかの関係があると考えるべきだろう。
(一真君は……)
 同じように妖獣と戦った一真はこの視線を感じているのだろうか。それとも、これは望だけなのだろうか。夜番の前に確認しなければならないだろう。
 階段を中ほどまで上り、また額を押さえた。
(あれ……?)
 だんだんと景色が遠ざかっていく。いや、暗転していく。ぐらりと体が傾き、足が床から離れた。

 ――落ちる……

 ぼんやりとした思考が遠ざかる中、懐かしい霊気を感じた気がした。