妖風薫りて

第1章 宿縁

1話 



 同時刻 武蔵国西組担当地域――。

「…………?」
 不意に一真は立ち止まった。
(霊気……?)
 辺りを見渡しても自分達の他には誰もいない。しかし、気のせいで終わらせるにはやけに引っかかった。
「一真君?」
 少し前を駆けていた望が立ち止った。
「どうかしたの?」
「……妙な霊気を感じたなあって……」
「妙?補佐の皆の霊気が乱れてるってこと?」
 返事を待たず望は耳を澄ますように瞼を下ろした。別行動をとっていても、彼はこうして補佐の状況を定期的にチェックしている。
「特におかしなことはないけど……」
「補佐の誰かじゃねェと……思う……、たぶん……」
 もう先ほどの霊気は感じない。あの様子では望は感じなかったのだろう。
「なんていうか、破邪の匂いがした気がしたっていうか……」
「ああ、なるほど」
 思い当たることがあるのか、望は三日月が昇る空を見上げた。皐月の温い風が彼の茶色い髪を揺らす。
「たぶん、宵闇ですよ。西組からは応援要請を出していないから、東組の担当地域あたりで戦っているんでしょう」
「東組って、けっこう離れてるよな?こんなとこまで霊気が流れてくるもんなのか?」
「彼ら天狗は風の護りを受けていますから。風向きによってはここまで破邪が運ばれてくることもあります。宵闇の中でも班長クラスの人はよくあるらしいですよ」
「よくあるって、先輩も感じたことあんの?」
「時々ね。一真君が感じたっていうことは、木属性の人かもしれないですね。同じ属性の霊気って感じ取りやすいんですよ。あ、相克の関係の金属性も相手が強いほど感知しやすいですね」
「ん〜〜、言われてみると、そーだったかもしれねェ……」
 家の作業場から感じるようなピリリとしたものが混じっていたような気がするので、金属性の霊気だったのかもしれない。
「妖獣の件で里も霊山もピリピリしていますからね。宵闇が独自に鎮守隊の担当地域を巡回していてもおかしくありません。霊気が明らかな戦闘状態だったら、僕達も警戒しなきゃいけませんけど……」
 望はもう一度耳を澄ました。
「やっぱり僕には感じないなあ。戦っていたとしても、もう終わってしまったんでしょう。僕達が出る幕はありませんよ」
「そっか。ま、宵闇だしな。オレらが首ツッコむようなことじゃねェか」
「必要があれば向こうから緊急要請してきますよ。宵闇は鎮守印に直接アクセスできますし。そろそろ行きましょうか」
「ああ」
 鏡の破片がいつ漂着してもおかしくない現状では、望の復帰は大きかった。昼頭不在という痛手を負った現在の西組が士気を保っているのは「最強の鎮守役が健在」という事実が補佐達の不安を大幅に軽減しているからだ。
「ん?」
 頬に触れた夜風に再び立ち止まる。
(近い……?)
 先ほどよりもはっきりと霊気を感じる。戦闘中のような荒々しい気配はない。しかし、これは……。
(近づいてきてねェか!?)
 顔を上げたのとほぼ同時に上空を黒い風が吹き抜けた。風の中に白い光が視える。

 ――あれは……

 ドクリと鼓動が跳ね、意識の底から碧が顔を覗かせた。耳の奥で轟々と風が鳴った。ぼんやりと何かが意識の中から浮かび上がってくる。
「…………イ……?」
 自分が発した音に碧が濃くなった。
「一真君?空に何かいるの?」
 不思議そうな声に脳裏に広がろうとした影が霧散した。浮かぼうとしていた面影は消えてしまってもう思い出せない。
(今のは……?)
 頭を軽く振りながら視線を移すと、少し離れたところで同じように望が夜空を眺めていた。琥珀の瞳が何かを見つけたように細められた。
「驚いたなあ。宵闇が空を渡るところなんて久しぶりに見ましたよ」
「宵闇?あれが?」
 目を凝らしても夜空にはもう何も視えない。ただ、先ほどよりも空が澄んでいるような気がした。
「宵闇の活動は主に夜ですから。風に乗って移動する彼らが夜に空を駆けていると、さっきみたいに風が黒くなるんですよ」
 おっとりとした口調とは裏腹に望は少し表情を険しくした。
「先輩?どーかしたのか?」
「なんだか腑に落ちないなあって……」
「何が?」
「まだ十二時前です。あの方向だと、信濃の霊山に向かったんでしょうけど……、宵闇がこんなに早く引き上げるなんて……」
「呼び出しでも食らったんじゃねェの?」
「だから、おかしいんですよ。僕達の鎮守印と同じで、霊山は所属する宵闇との連絡回線をいくつか持っています。わざわざ宵闇を呼び戻したんだとしたら、よっぽどの事態です。招集じゃなかったとしたら、戻らないといけないほどの負傷……」
 だんだんと表情が深刻なものになっていく。理由はわかっている。総矢だ。
 里からの助っ人として派遣されているはずの彼は今夜の巡察に参加していない。
 あの夜、玉響の調査を終えた総矢は「破片は間違いなく現に流れてくる」という洒落にならない言伝を妹に残し、夜明け前に里へ戻って行ったという。言伝を受けた甲矢はというと、あの日から陽が落ちてからも葉守神社の陣の修復に打ち込んでいる。
 彼女曰く、「里と霊山が対応を検討している。総矢もじきに戻り、皆に詳細を申し上げるだろう。案じられるな」とのことだが……。彼女の様子を見て不安になるなというほうが無理というものだった。追い打ちをかけるように、里から武蔵国中の組に「厳戒態勢」の指示が出たのが三日前。総矢から何の連絡もなければ、甲矢もあれ以上何も言わないのが気になるといえば気になるが、この三日はわりと普通だった。いつものように巡察に参加し、いつものように邪霊を追い回す。何もかもが普段と変わらない。表面上は。
「宵闇が帰還しなきゃいけないような負傷なんて、よほどの相手です。まさか……」
「考え過ぎじゃね?」
 できるだけ気楽な口調で言い、一真は空を見上げた。夜風が吹き抜けた後には澄んだ気が残るだけだ。
「そんな強いのと戦って大怪我してたんなら、血の臭いとか体に着いた邪気とか、何か感じるって。そーいう感じ、全然しなかったしさ」
「そうだけど……」
「大丈夫だって。あんま悩んでたら、破片に出くわす前にこっちが参っちまうぜ?」
 望は何事か言いかけたが、少し考えて頷いた。
「今日は一真君の意見に賛成しておいたほうが良さそうですね。霊山が苦戦するような相手なんて、僕達の管轄外だもの」
「そーそ、とっとと邪霊倒して休憩に戻らねェと、夜頭が煩いぜ?」
「あはは、本当ですね。壬生君が入院してから関戸さんが怖くなったからなあ」
「先輩がちゃんと飯食って寝たら怒らねェだろよ」
「えーー、それが難しいんですよ」
「オレは腹減ったら動けねェけどな……」
 先に立って歩き出したものの、抱いた既視感は消えることはなかった。
(さっきの霊気……)
 知っている気がした。いや、そんな生易しいものではない。懐かしささえ感じた。
 望と初めて会った時に感じた既視感とはまた違う。望よりも、もっと近い時間の中で自分は彼に会っている――、そんな気がするのに、誰なのかまでわからない。
(まさか、蝕に関係あったりしねェよな……)
 まだ体に異変は出ていないが、鏡から戻って来てからというもの、霊気が強まったような気がする。この不可思議な感覚が蝕と無関係だと言いきれるだろうか。
 だが――。
 まだ少し空を気にしている望の横顔に微かな疲労が浮かんでいる。迫りくる捕食者の存在を本能が感じ取り、臨戦態勢を常にとらせているのだ。いくら休養したばかりだといっても、あの調子ではすぐにバテてしまうだろう。
(この件が終わるまでは……)
 先ほどの天狗のことは黙っていたほうがいいだろう。可能ならば、自力で解決しよう。
 今の望にこれ以上の負担をかけるような真似、できるはずがなかった。



 同時刻 信濃の霊山――。

「遠路はるばる、ようお越しくださいましたな、笹貫殿。山守も出迎えるべきところですが、生憎、出払っておりましてな」
 出迎えた烏天狗に圭吾は一礼した。
「とんでもない。信濃の嶺守殿直々のお出迎え、痛み入ります。冶黒殿」
 「嶺守」は、本来、霊山の天狗全員を束ねる立場だ。ただし、小規模な霊山では後方支援を担当する天狗を「嶺守」が束ね、実働部隊である宵闇を「山守」が束ねるような簡易的な組織図がしばしば成立する。信濃の霊山がまさにそれで、冶黒は信濃の後方支援部門の責任者にあたる。ただ、どれだけ小規模な霊山でも、たかが新任の宵闇を山守と嶺守が揃って霊山の入り口まで出迎えるなどと、そうそうあることではない。
「どうか楽になさってくだされ、笹貫殿。ワシ相手に畏まる必要などありませぬぞ」
 嶺守と宵闇。本来は上司と部下という立場だ。しかし、冶黒は自らが上司に接するように額から流れる汗を手拭いでふいた。
「これは失敬。まだ霊気が昂ったままだったようだ」
 軽く息を吐いた圭吾から霊圧が消えた。それだけで場を包む重苦しい気が和んでいく。
 ようやく冶黒は肩から力を抜いた。
「いやいや、さすが笹貫殿。この冶黒、宵闇とも数多く接してまいりましたが、これほどまでに鋭い霊気は初めてですぞ。先の奥羽での武勇はこの信濃にまで届いております。あれだけの妖獣を鎮めながら、半日も経たぬうちにお越しとあっては、霊気が昂っておられるのも無理からぬことでございましょうな」
「もう伝わっておりましたか。相変わらず、奥羽の風は早いようだ」
「しかし、まさか貴方が信濃にお立ち寄りになるとは夢にも思いませんでしたぞ。実は今、この信濃も厄介ごとを抱えておりましてな。お役目の片手間でも構いませぬ。ご加勢頂けると非常に有難い……」
「太狼の里の一件は聞き及んでおります。同じ狼の霊筋として、放っておくわけにもまいりません。微力ながら加勢いたしましょう」
 淡々と話す青年に冶黒は目を輝かせた。
「なんと心強い……!笹貫殿の御力添えがあれば、こたびの妖変は解決したも同然じゃ!」
 飛び跳ねそうなほど上機嫌な冶黒に圭吾は笑みを浮かべた。
「つきましては、この武蔵国一帯の鎮守役の名を知りたいのですが……」
「おお、到着されたばかりだというに、もうお役目のお話とは。聞きしに勝る実直な御方のようですのう。信濃の連中に爪の垢を煎じて呑ませてやりたいですぞ。後ほどお部屋に届けさせますゆえ、今夜はゆるりとお休みくだされ」
「お気遣い、かたじけない。しかし、滞在中は自分も信濃所属の立場。一介の宵闇として接して頂きたい」
「それこそ無理な注文というものですぞ。鞍馬指折りの宵闇と謳われる笹貫殿がこんな小さな霊山に滞在されるなどと、千載一遇の僥倖と、山守を始め、信濃の宵闇は状況も忘れんばかりに浮かれております。ワシとて、それは同じじゃ。叶うならば、酒でも酌み交わしながら、じっくりとお話を伺いたいものですな」
「ご希望とあらば」
「ほっほっほ、言ってみるものですのう。これは、ぜひ宴の席を設けねばなりませんな。さっそく山守に相談じゃ」
 先に立って歩き出した陣羽織を眺め、圭吾は両の手を握り締めた。
「班長……」
 唇から洩れた小さな呟きは風にも乗らず、夜の闇へと消えた。

 ――この笹貫が馳せ参じるまで、どうか、ご無事で……