妖風薫りて

序 



 武蔵国東組担当地域――。


 ビキリと額から黒いものが盛り上がった。骨にひびが入るような音と共に黒い瘤は大きく伸び、先端が尖っていく。
「成川!?」
 悲鳴にも似た声が上がった。
 意味をなさない叫びを上げながら、つい数分前まで共に夜の街を駆けていた「成川」は全身を歪な黒い異形に変えながら変貌を遂げていく。
「嘘だろ!?なんだって、お前が……」
 赤く濁った眼がこちらを見た。耳まで裂けた口が言霊を吐き出す。

 渇く……、かわく……、かわくううううううううううううううううううう……

「鬼化……!」
 誰かの呟きがやけに大きく響いた。

“十二天が一、青龍!”

 放たれた一枚の符が黒い額に命中して緑に光った。その動きが鈍り、鬼は睡魔を振り払うように何度も頭を振った。
「葵主座!」
 東組鎮守役主座・葵真樹は霊符を取り出しながら振り返った。
「全員、退避。屯所まで退きな」
「主座は!?」
「あたしは成川を鎮める」
「一人でですか!?」
「当たり前じゃん。補佐頭が寝惚けた事言ってんじゃないよ、柿本」
 肩の上で茶色い髪が揺れた。自分より年上の補佐頭に真樹は要領の悪い後輩に向けるような呆れた顔をした。
「この場に渦巻いてる邪気のヤバさがわかんないの?これ以上、鬼化する奴を増やしてどうするのさ?」
 補佐達が顔色を変えた。
 真樹は若干十九歳ながら東組歴代の主座でもトップクラスに入る有能な使い手だ。いつも飄々としている彼女がこんな硬い表情を浮かべていることなど、これまであっただろうか。
「信濃に応援要請を出して。こいつは隠人の手に負えるモンじゃない。宵闇の領域だ」
 指示を飛ばしながら真樹は霊符を放った。
 黄に光る符が青龍の符を引き剥がしたばかりの成川を現から隔離していく。
「急げ!」
 一喝に悪夢から醒めたように補佐達が体の向きを変えた。公園の入り口へと我先にと駆け出す。漂う邪気の異様さにようやく気づいたのだろう。
「す、すぐに宵闇を……!」
 どもりながら走り去っていく補佐頭に頷き、真樹は数珠に手をやった。
「補佐を鬼化させるほどの邪気……。ついにこっちまで来たってことね……」
 頭を過ったのは、隣の西組で立て続けに起きている前代未聞の怪事だった。武蔵野国と強い縁を持つ妖獣を封じた霊具が砕け、破片が現へ漂着しようとしている。その妖獣は「宵闇の化身」と称される最強の鎮守役でさえ手も足も出ず、その破片は西組の補佐頭の鬼化を誘発するほどの強い妖気を放っている、と――。

『破片を発見次第、霊山に報告せよ。遭遇した場合、鎮守隊員は即刻退避せよ』

 信濃の霊山から最優先事項として通達が来たのは、つい一昨日のことだ。いつ東組に及んでもおかしくないと思っていたが、こうも早く出くわすなんて――。
 音を立てて勾陣にひびが入った。黒い爪が中から突き出す。
 補佐ほどの霊格の者が鬼化したからなのか、鬼化を誘発した存在が強い力を与えているのかはわからない。ただ、ここにいる「成川」が持つ力は通常の人鬼の比ではない。
 舌打ちと共に、取り出した五枚の霊符を黒い巨体に向けて放つ。

“十二天が一、青龍!”

 貼りついた霊符が緑の光を放ち、鬼の体に救った邪を打ち消していく。

(効いてよ……、頼むから……!)

 公園の真ん中に立つ時計は午後十一時を指している。今すぐに信濃の霊山に応援要請をしたとしても、宵闇は既に出撃している時刻だ。強力な神通力を有する彼らの戦いは、鎮守役以上に周囲へのダメージを考慮しなければならず、その戦いは常に二重、三重に張られた結界の中。外からの「声」は、まず届かない。夜間に応援要請をしたとして、夜明けまでに宵闇が駆けつけてくれれば、かなり運がいい方なのだ。
 霊符を剥がそうともがく鬼から目を離さず、勾陣の霊符を宙に放つ。
 黄の光が夜の公園を現から隔離していく。怒りを帯びた咆哮に混じり、何かを引き裂く音が黄の天井に響いた。
「やっぱ無理か……」
 ボタボタと左腕から落ちる赤い血が土を濡らす。霊符は剥がれていない。霊符が貼りついた腕の皮膚を霊符ごと引き剥がしているのだ。救いなのは、人の姿であったならば目を逸らしたくなる凄惨な光景も、黒い異形と化しているおかげでいくらか視覚への衝撃が薄らいでいることだろうか。
「ごめん、成川!」
 投げつけた小刀が黒い右腕に刺さった。上手く筋を断ったのだろう。右腕がダラリと垂れる。数珠から短刀を取り出し、地面を蹴る。
 霊符が効かなければ、もはや直接霊力を叩き込むしかない。できれば避けたい手段だった。

(腕と足さえ無力化すれば……!)

 動きさえ止めることができれば勾陣での長時間の隔離が可能。宵闇の到着を待つことができるはず――。
 振り下ろされた左腕をかわすと溢れ続ける血が舞い、鉄の臭いが鼻を突いた。
 どうせならば血の色も匂いも完全に別の物に変わってしまえばいいのに。そうすれば、もっと楽なのに――。
 人鬼と戦う時、決まって過る考えを振り払い、身を屈める。振るった刃がアキレス腱を正確に断つ。

 残るは左腕のみ――!

 裂けた口から吐き出される絶叫を聴覚から追い出し、皮膚が剥がれた左腕に刃を突き立てる。皮膚の裏側さえも黒く変色した腕は、それでも人の筋の形をしている。
「これで……」

 終わりだから……!

 手に霊気を込めた瞬間、横から重い衝撃が来た。
「え……?」
 何が起きたのかわからないまま宙で体勢を立て直し、砂場の上に着地する。衝撃が襲った左肩と脇腹に激痛が走る。シャツに生温いモノが広がり、鉄の臭いが砂に染みた。
「嘘……」
 傷口から灰色の煙を上げ、鬼は動かないはずの右手を振るった。抉り取られた肉が爪からべちょりと地面に落ちた。

(結界の中で……再生した……!?)

 鬼化は急激に霊気を消耗する。補佐程度の霊格ならば、鬼化と同時に霊気を消耗し、枯渇に近い状態に陥り、激しい渇きに襲われる。鬼化するなり成川が正気を失ったのもそのため。それまでは通常の鬼と変わらない。
 だが――、鬼が傷を治癒する為には、霊気を補充しなければならないはず。この結界の中で霊気を奪う機会などあるはずがない。再生できるはずがないのだ。
 口から紫の舌を垂らし、「成川」が跳躍する。

 渇く……、かわく……、かわく……!

 思念を撒き散らしながら襲いかかる巨体を転がるようにしてかわす。もうもうと舞う砂埃の中、赤い眼が真樹を睨んだ。

 霊気を……ヨコセ……!

 喰わせろォオオオオオオオオオオオオ!

 霊符を取り出し、咳き込む。紙に血が染み目が霞んだ。
 黒い爪が視界いっぱいに迫る。血飛沫が飛び、頬を濡らした。

 ――死んだ……

 そんな考えが過り、すぐに消えた。寸前まで迫った爪がピタリと静止した。肘を射抜いた白い光によって。
「かたな……?」
 柄はない。刀身だけの姿で、それは丸太のような腕を深々と貫いていた。
 鬼は怯えたように後ずさり、真樹の背後を睨んで唸った。勾陣の黄の光が消え、誰かが巡らせた結界の白い光が周りで揺れていることにようやく気づく。
「霊狼が守る地に物騒な輩がいるものだな」
 落ち着き払った声が耳に届いたのと黒い風が横を吹き抜けたのは同時だった。黒い影が瞬く間に鬼に迫る。

‘鋼風よ、裂け’

 集結した白い風が容赦なく鬼を切り裂く。絶叫する鬼に成川の顔が重なった。
「待って!そいつは人鬼……!」
 制止を意に介することなく、男は鬼の鳩尾に掌を当てた。白く光る掌がズブズブと体内に入り込み、何かを引きずり出す。
「う……」
 思わず塞いだ耳に突き刺さる声がどんどん小さくなり、人の呻き声へと変わっていく。人鬼に対峙する時、常に付きまとう凄惨な声と耳を貫く痛み。知人、いや、仲間のものともなれば痛みは倍どころではない。
 大きく一度痙攣し、鬼は後ろに倒れた。夜の公園が静けさを取り戻す。
「……殺した……の……?」
 起き上がる気配がなければ、邪気も感じない。あまりにも鮮やかすぎて、そこで起きた事を上手く呑み込めない。
「案じられるな。因を取り出したのみ。あの程度の邪気ならば俺の破邪で焼き祓える。数刻もすれば鬼化も解けるだろう」
 黒い手袋の上で白い光が躍った。灰色の靄が光に喰われるように消えていく。
 二十歳前後の生真面目そうな青年だった。大学にいても違和感がないだろう彼は黒の上下に黒のジャケットを纏い、夜の闇から生まれたかのようだ。しかし、その圧倒的な霊圧が夜の中でも存在をくっきりと浮かび上がらせる。

 ――宵闇……

 それも、かなり高位の。信濃の霊山所属の宵闇に会ったことはあるが、ここまで強い霊圧を感じたことはない。
「ところで、この地の鎮守役殿とお見受けするが?」
「そ、そうだけど……」
 青年は真樹の眼前にひょいと屈んだ。その瞳もまた夜の闇のように黒い。
「な……、何?」
「信濃の霊山は、どちらだろうか?」
「…………は?」
 からかわれているのだろうか?それとも、何か深い理由があるのだろうか?あるいは、自分は何かを試されているのだろうか?
 ぐるぐると反芻し、真樹は一つの結論に達した。

(そうよ……、これって、天狗がよくやるっていう謎かけってやつよ……!たぶん、そうに決まってるわ!)

 というよりも、そうであってほしかった。
 こんな凄腕の宵闇が、まさか、よりによって、迷子などと……。
 しかし、どこまでも真剣な表情で彼はもう一度、口を開いた。
「信濃の霊山に行きたいのだが、どの方角に飛べばいいだろうか?」
 聞き間違いであることを祈る真樹の耳に決定的な言葉が飛び込んだ。
「知っていたら教えてくれないか?風を読み違えて流されてしまってな。難儀しているところなんだ」
 どうやら本当に迷子らしい。そもそも、この時刻に宵闇がふらりと現れること自体がありえない。目的地を探しているうちに邪気を感じて様子を見に来たのだろう。
 ラッキーというべきなのだろうが、この複雑な気分は何なのだろう。
「え……と……、あっち……だと思うけど……」
 かなり昔に先代の主座から聞いた知識を引っ張り出し夜空の向こうを指差すと、青年は大きく頷き、霊符を取り出した。
「礼を言うぞ、鎮守役殿。就任早々遅刻するところだった。こんなものしかないが、受け取ってくれ」
 お礼のつもりなのだろう。青白く光る霊符を真樹に握らせ、青年は立ち上がった。
「いかに鎮守役とはいえ、その傷、放っておくと命取りになりかねん。養生されよ。では、これにて」
「あ、ちょっと!?アンタ、名前は……」
 無視されるかと思ったが、律儀に彼はもう一度向き直り、一礼した。
「これは失敬。俺は笹貫圭吾。今宵零時より信濃の霊山所属となる宵闇だ。以後、お見知りおき願おう」
 風が吹き、黒い姿が夜の闇に消えた。
「笹貫……、圭吾……」
 抉られた脇腹の痛みも忘れ、真樹は霊符を握り締めたまま信濃の霊山の方角を見上げていた。人の姿に戻った成川が目を覚ますまで、ずっと。