追憶の夕刻





「妖気は抜けている」
 松本医院の別棟。隠人専用に設けられた、通称「隠棟」の一室。
 優音の額に翳していた手を離し、甲矢は息を吐いた。
「容体も安定している。当面は養生する必要があるが、現で対処可能だろう」
「はーーー、どうなるかと思ったぜ……」
 息を漏らしながら一真は壁にべたっともたれた。
 手が人間のものとは思えないほど変形しているものだから、よほどとんでもない事態が起きていると思った。
 甲矢が桜並木で応急処置を終えた後。連絡を受けた松本医院のスタッフの手で優音は松本医院に搬送され、そのまま緊急入院になった。
「ただ……、意識が随分と混濁しているのが気になる……」
「どういうことだよ?」
「鬼化の要因が妖気によるものだけではないということだ。何か、昼頭殿の心に翳りがあったところを突かれたのやもしれん。妖気にしろ、邪気にしろ、人の心の隙間に入り込むからな……」
「……それって……?」
 言っていることはわかるが、あの優音にそんな「翳り」があったということが今一つピンとこない。しかし、横で聞いている望は思い当たることでもあるのか、沈痛な表情で口を開いた。
「意識が戻るかどうかは、壬生君の心が落ち着くかどうか次第、っていうことですよ。普通は、これくらい鬼化が落ち着いてきたら意識も戻るはずなんですが……」
「落ち着いてきたらって……」
 包帯を巻いただけの両手はギプスを三つ重ねたように見える。額も、包帯の上からわかるほど盛り上がっている。とてもではないが「落ち着いて」きているようには見えない。
 控えめにドアをノックする音がした。
「失礼します。城田組長」
 入ってきた看護師が望に一礼した。この棟にいるということは、彼女も紋付の隠人であり、現衆の一員だ。二十代後半の社会人から社長に接するような態度をとられるのは違和感があるが、現衆にとっては年齢や人間社会の職業よりも、霊格と現衆内の役職が重要らしい。実感はほぼないが、現衆において「鎮守役」は上位に位置し、主座に至っては最高位なのだという。優音が起きていれば、わかりやすい例えで教えてくれたかもしれない……。
「壬生昼頭のご両親が来られていますが……」
「わかりました。会います」
 望は「すぐに戻ります」と言い置いて看護師と共に出て行った。
 邪に憑かれたり鬼化したりすると家族でさえも面会謝絶だ。外から邪気を持ち込んだり、心配する家族の霊気が患者の不安定な霊気に悪影響を与える可能性が高いのが理由だという。そういえば、詩織が鏡面にとり憑かれた時も長時間面会謝絶だった。
 ドアが閉まるのを待ち、甲矢は続けた。
「ご心配には及ばん。ここまで異形化してしまえば、目に見えて治まるまでに早くても三日ほどかかる。ただ、妖気にあてられたとなれば、今夜はまだ油断できん。私も別の部屋にて待機しよう。容態が急変するようならば起こしてくれ」
「待機って……、アンタ、昼型なのに大丈夫なのかよ?」
「霊力が落ちる故、万一の際は貴方か望殿に補佐してもらわねばならんかもしれん。元より、今夜は深く眠るつもりはなかった。遠慮なく声をかけられよ」
「どういうことだよ?」
 感情の乏しい彼女の目に微かに光が宿った。
「夢見が悪いことが確定しているからだ……。鏡の中にいるのは、千年前の惨劇を引き起こした元凶なのだからな……」
 虚空を見つめる黒い瞳に「怒り」と「悲しみ」が揺れていた。




 漆黒の海の中を五色の光が泳いでゆく。

(ここらへんか……)

 玉響の中の一点。葉守神社の本殿と座標を同じくする空間で総矢は静止した。
 それぞれに属性を帯びた光が波に乗って緩やかに流れてゆく様は、鮮やかな魚が泳ぐ夜の海のようだ。霊獣にとっては綺麗にすら思える玉響も、人間や隠人にとっては肉体ばかりか霊体をも引き千切られる恐ろしい空間でしかない。
「手鏡くらいの大きさだっけ」
 波に逆らい、あるいは波に乗るようにして。玉響の中をふらふらと泳ぐ。
 物質の縛りを受けるばかりか肉体の穢れに力を制限される現と異なり、玉響では霊体の力がまともに作用する。霊格が高ければ高いほど、本来の力を発揮することができるのが、この玉響という空間だ。玉響を自在に泳ぐことができるかどうかが、隠人と霊獣の分かれ目の一つでもある。

(葉守神社は異常なし、と)

 神社の敷地内に当たる空間には黒い石の破片らしいものは見当たらない。妖気を放っているならば、自らの意思でこの場に留まっていてもおかしくないのだが……。
「あ〜〜、次んとこ行きたくねえ〜〜」
 誰も聞いていないのをいいことに本音をぼやく。
 今夜、見廻る場所は大きく分けて二か所。どちらも鏡の破片があってもおかしくない本命だ。流れゆく霊気の流れと波動からおおよその地点を割り出す。玉響ならば、一蹴りで到着できる場所だが、どうにも足が向かない。
「これが……、入門試験だっていうんなら喜んで行くんだけどな……」
 思わず漏れた口癖に苦笑する。
 嫌なことや苦手なことをやらなければならない時、逃げたい時、決まって同じことを口にする。この嫌なことを乗り越えれば、ここで逃げなければ、幼い日に見かけた「師匠」が入門を許してくれたらいいのに。あの人が、どこかで見ていてくれればいいのに。そんなことを考えながら嫌なことや面倒なことをこなしていくうちに、上位武術士にまで上り詰めてしまった。>だが、元々、自分はそういう器ではない。千年前に大勢の有能な武術士が倒れてしまったから、他に候補がいなかっただけだ。
「どこかで見てるかもしれねえもんな……。てか、見ててくださいよ、師匠……」
 記憶の中の碧の風にまじないのように呟き、黒い空間を蹴る。
 隠れ里も霊山も、大規模な霊域はこの玉響に存在している。ここを辿っていけば、信濃の霊山に辿り着くことができるし、鞍馬へも続いている。ただ、それぞれの霊山は幾重にも張られた結界の向こうに隠れていて、鞍馬の霊山はその中でも最も強い結界に護られている。いかに太狼の里とはいえ、一介の武術士ごときが行き着くことはできない。ただ、宵闇はよくこの玉響を通るので、もしかしたら、天狗の誰かに偶然にも出くわすかもしれない。どんな小さなことでもいい。何か、手がかりを得ることができれば……。それだけを期待して日々の仕事を淡々とこなすうちに、もう何百年が過ぎただろうか。
 何もない一点で足を止める。位置は合っている。槻宮神社の裏側――、かつて、刃守の里が存在した空間だ。
「はは、綺麗に閉じちまってんのな……」
 千年前、自分達が暮らしていた刃守の里は最初からなかったかのように姿を消している。あの惨劇の夜までに里にあったもの全て――、美しい桜も、身寄りのない自分達兄妹を引き取ってくれた姉のような人も、里の人々の楽しい笑顔も、何もかもが消えてしまったような寂しさが込み上げる。
 あの悪夢のような一夜が、全てを奪っていった。
 たった一つの夜が、総矢から「里長」に対する忠誠心も信頼も、それまで信じていた全てを粉々にしてしまった。残ったのは――、朧な記憶の中で霞む「師匠」への憧れだけだ。里を信じられなくなった時、素性も名も、顔さえもほとんど覚えていない「絶対者」に拠り所を求めただけなのかもしれない。いや、もしかすると、あの「師匠」は、惨劇の中に放り出された幼い自分が自らを護るために造り上げた幻影なのかもしれない……。

(仕事……、しねえと……)

 渦巻き始めた感情を抑え、目を凝らす。
 里を閉ざす封印は健在だ。特に異常は見受けられない。この封印は毎年、里から術士を派遣して念入りに封印を調整している。この千年間、一度も封印が弱まったことはなかったはずだ。
「……特に変なとこ、なさげ……?」
 漆黒の空間の妙な揺らぎに気づき、総矢は息を呑んだ。自分の想像が外れていることを願いながら、ゆっくりと近づく。

 ――こいつは……!

 漆黒の空間の一点が揺らぎ、穢れが入り込んでくる。
 恐る恐る伸ばした指先に微かな妖気と現の匂いが触れた――。

「なんて……こった……」

 掠れた声を玉響の波が押し流していった――。



                    ―― 第二章 追憶の夕刻 終 ――