追憶の夕刻

18話



 背後で妖気が蠢いた。黄の光が閉じ込めた灰色の塊が生きているかのように脈打ち、どこからか集った暗灰の刃が霊符を切り裂いていく。

‘お館様……’

 耳にというよりは霊体に直接届くような声は随分と濁っていて聴き取りづらいが、玉響で聞いたものと同じ波動だ。
 望は靄を睨み付けた。刀が持ち主の霊気に赤い光を灯す。
 相手の正体が自分の想像通りだったことなど、どうでもいい。
「……西組の補佐に……、手を出しましたね……」
 靄が膨れ上がった。触手のように伸びたそれをことごとくかわし踏み込む。赤い光が正確に靄の中央部を突いた。

“焔よ……”

 刀身が深紅に燃えた。赤が靄に喰らいつき、灰色を食い千切っていく。撒き散らされる怨嗟のような波動に肉体が微かな痛みも気にならない。
(燃えてしまえ……)
 炎に食い千切られて小さくなっていく靄を冷酷に眺める。妖気を剥がれた黒い破片が姿を現した。

 ――あれか……

 優音の右肘が異形化していたので可能性としては考えていた。恐らく、右肘の怪我は封が解けた衝撃ではなく、直接攻撃によるもの……。
 噛みしめた唇から微かに血の味がした。

 ――もっと深く波動を測っていれば……

 自分を弁護するつもりなどない。
 ただ、妖気を取り込んだならば、すぐに肉体に異変が表れる。穢れが霊体にまで至っていたとすれば、異形化するばかりか、理性を失い見境なく周囲を攻撃し始めるのが通常だ。異形化は爪だけに留まっていたし、優音も正気を保っていたから、封印の邪避けが妖気に反応して弾け飛んだのだと思った。
 まさか……、肉体を通過して霊体内にまで入り込んでいたなんて……!
 結界に入る前に仕込んだ朱雀だって複数の破片が漂流していた場合――、一対多数の戦いを警戒してのことだった。あれを待機させていなかったら、今頃は……。

“十二天が一、太常!”

 赤に近いオレンジの光が圧し包むように破片を囲んだ。勾陣よりも赤みを帯びた黄の光が球体を造り破片を隔離する。強く光り、小粒のオレンジの球がポトリと地面に転がった。太常によって造られる印玉だ。一見すると、駄菓子屋にでも並んでいそうなビー玉のようにも見える。オレンジ色に瞬く球を拾い、周りの気配を探る。妖気も邪気も感じない。結界の中は静まり返っている。息を吐くと、考えないようにしていた不安が襲った。
「僕は……主座の器じゃないのかな……」
 邪を鎮めることができても、補佐一人守れない。いや、結局のところ、自分は補佐を信じきっていない。正直なところ、優音が気絶してくれて安堵しているのだから。この力を使う一部始終を見られずに済んだことに、心の底からほっとしているのだから……。
「ごめん……、壬生君……」
 信頼の目を向けてくれる彼らも、いつかこの力を恐れて去っていく日が来る――、そんな予感を振り払えない。
 鎮守役になれば、この力を認めてもらえると思っていた。もう誰からも気味悪がられずに生きられるのだと。必死に修業して最年少で入隊を許可してもらったのに……。主座になっても何も変わっていない。この隠人の域を抜けた力はやはり異質の存在で、自分のことを怯える「誰か」の目をいつも恐れている。
「こんなにボロボロになって……、妖気に逆らってくれたのに……」
 指の長さほどに伸びた鋭い爪に額に突き出た蒼黒い瘤。右肘は血まみれでブレザーが引き裂かれているし、脚は……、右も左も血まみれだ。必死に正気を保ち、妖気に抗った証拠だ。人の域に近い補佐の霊格で妖気に抵抗するなどと、並大抵の精神力ではない。意思の強さだけならば、彼は鎮守役に匹敵している。
いや、宵闇同等とされる自分よりもずっと強いかもしれない。
「僕は……、壬生君達の信頼に応えられるのかな……?」

 自分は……、果たして、補佐達の意思に釣り合う主座なのだろうか……?

 何度自問自答しても一度も答えの出たことのない問いを繰り返す。
 空に亀裂が走った。新たな黄の光が揺れ、微かな風と共に一人の少年が駆け込んでくる。重い空気を吹き飛ばしてくれるような風の主は既に臨戦態勢を示す碧の光を帯びていた。

「先輩!妖獣は!?」

「鎮まりましたよ。随分と早かったけど、光咲さんは?」
「途中で昼番の連中と会ったからさ。夜頭とジイちゃんに連絡だけして、光咲のこと頼んで、こっちに……」
 安堵しかけた一真の顔が強張った。無理もない。オレンジに瞬く印玉と血まみれで倒れている優音。何も訊かなくても、ある程度はこの場で何が起きたか察しが付くだろう。
「予想通り、でしたよ……」
「そか……」
 それ以上を言わず、一真はポリポリと頬を掻いた。どう声をかけようかと迷っているのだろう。
「あ〜〜、とりあえず、解決ってことでいいんだよな?」
「ええ」
 重く張りつめていたものが少し晴れた。
 望が妖気の立ち上る破片を封じたとしても、一真の目には奇異に映らない。彼もまた同じことができるだけの力を秘めているからだ。この力を持つ「異端」は自分だけではないという事実がこんなに安心できるものだと思わなかった。
(近しい霊筋、か……)
 共に戦い始めてまだいくらも経っていない。腑に落ちないことは多々あるが、信頼を揺るがすには足りない。妖獣と戦うことになれば、自分は優音や剛士ではなく一真に援護を頼むだろう。理屈などない。魂が告げるのだ。彼は信頼できる存在だ、仲間だ、と。
(僕が太狼だっていうなら……)
 雄緋の言葉が真実で、本当に望が太狼だというならば。同格の霊筋である一真もまた、「一門」の霊筋だということになる。彼の家系は京出身だというから、伸真が言うように天狼の系譜なのかもしれない。そして、天狼もまた、人の血が混じった器では生まれてこない。だが、彼は隠人の両親から生まれた正真正銘の隠人で、これまでの十五年ほどを「人間」として生きてきた。望同様、天狗の証である「前世の記憶」を持たず、あくまで隠人として……。

 ――一真は、いや、自分達は……、いったい、何者なのだろう……?

 深みにはまっていく思考を押しやり、六合の霊符を取り出す。向かいに屈んだ一真がさっきから何か言いたげにこちらを見ている。訊きたいことの予想はつくが、気づかないふりをして霊気を符に送り込むことに集中する。今はまだ訊かないでほしかった。いや、知らないままでいてほしかった。
「あのさ、先輩……」
「一真君も六合の霊符をお願いします。僕よりも一真君のほうが六合との相性がいいですから……」
「お、おう」
 質問を引っ込め、少し躊躇いながらも霊符を取り出した一真の手の中で符が鮮やかな緑の光を放つ。
 六合は木属性の霊符だ。火属性の望よりも符と同じ属性を持つ一真のほうが強い治癒の力を引き出すことができる。もっとも、彼の手の中で発動の時を待つ霊符は一介の鎮守役の霊気ではありえないほどの光を灯している。
「右肘にお願いします。あと、両手と額の分も必要ですね。一枚ずつお願いします」
 言いながら、自分も六合を発動させていく。互いに無言で異形化した部分に霊符を貼っていくと、ものの数分で応急処置は終わってしまった。
 気まずくなりかけた空気を察したのか、一真が遠慮がちに口を開いた。
「先輩……。そのさ……、壬生先輩、どうしちまったんだよ?」
 治療の間、言葉を探していたようだったが諦めたらしい。普段と同じ、彼らしいストレートな質問と変わらない口調に逆に落ち着いた。ここにいるのは自分が見込んだ弟子なのに……、真実を告げることが辛い。
「……やっぱ、妖気が原因なのか……?」
 霊符に覆われた優音の両手はグローブの上に指の長さ程の爪が伸びたような異形の形で、額には粘土を盛りつけたような不恰好な瘤ができている。一般人の目には「化け物」に映るだろう。
「無関係じゃありませんね。これは異形化の中でも特に凶暴性の高い鬼化……」
「鬼化……?人が鬼になるって奴か……?」
 鬼にはいくつか種類がある。最も多いのが、優音のように人が鬼化するケースだ。次に、一真が昨夜出くわしたという邪霊が成長した邪鬼。いずれも凶悪さと凶暴さから、初っ端から鎮守役が最優先で対処しなければならない強敵だ。
「妖気が鬼化を引き起こしたってことか……?」
 軽く呼吸を整えて気分を落ち着ける。鬼化について説明するのに、いい機会かもしれないと自分に言い聞かせても気分はどんよりと沈んだ。
「今回はそうですね。でも、鬼化自体はそんなに珍しいことじゃありません。特に隠人にとって……」
「うげ、鬼化ってそんな頻繁になっちまうもんなのか?」
 季節外れのインフルエンザが流行っていると聞いたかのように、一真は眉を顰めただけだった。拍子抜けするほどあっさりとしたリアクションに肩に圧し掛かっていた重いモノが肩から落ちた気がした。

 ――さすが、一真君だなあ……

 彼には「鬼」のことでさえ詳しく話したことはない。話すための時間も余裕もなかったといえばそうかもしれない。
 しかし、本当は――、怖かった。それだけだ。
 鬼のことを話せば、自然と鬼化の話へと繋がっていく。そうなれば優音を始め、同じ事情を抱える補佐が西組に大勢いることを話さなければならなくなる。自分達が化け物集団だと自ら宣言することが、怖くて悲しかった……。
「鬼化っていうのは、正確には霊気が穢れて自分で浄化できなくなってしまった状態です。自覚は薄いかもしれませんけど、隠人も人間も霊体内で霊気を血のように循環させて魂を保っているんですよ。それができなくなれば、魂は死んでしまいます……」
「そーいえば、壬生先輩が初級講座の初日にそんなこと言ってたっけな……」
 一真は何かを思い出すように顎に手をやった。意外と真面目に聞いていたらしい。
「霊気は精神状態に左右されやすいでしょう?昔、人に追い立てられたり迫害された隠人は自らの中に怒りや憎しみ、怨みを溜め込んで……、自ら霊気を穢して鬼化してしまったそうです。霊気を浄化できないと、自分で霊気を生み出すこともできなくなって、やがて霊気そのものが枯渇します」
「それって、ヤバくねェか?」
「だから……、魂の渇きに耐えられずに人を襲うんですよ」
「え……?」
「邪霊と同じです。自分で生み出せず、誰からも霊気の供給を受けられないなら……、他人から奪うしかありません。
最も身近で、最も多くの霊気を持つ肉体を持つ存在。生きた人間から……」
「……その、奪うって……、どうやって……?」
「……鬼って、昔話とかで何を食べてます?」
 一真は恐る恐ると言ったように口を開いた。
「普通に米食ったり酒飲んだりしてんのもいるけど……、やっぱ、人、なのか?」
「霊気だけを吸い出すなんて、普通の隠人には無理ですから。そうやって人を襲って霊気を肉体ごと食らって、余計に恐れられて……。負の連鎖は終わることなく続いていったんです。現代になったからって、それがなくなったわけじゃありません。鬼化までいかなくても、異形化してしまって治療を受けるケースは多いんです。浅城町は土地の霊力のおかげで他の地域よりは少ないけれど……、それでも鬼化の経験者は相当な人数います」
「……それじゃ、その、鎮守隊の中にもいたりすんのか……?」
「ええ。名前は、僕の口からは言えませんけれど……。皆、それぞれに戦っているんですよ。自分の霊筋と」
「……そっか……」
 一真の顔には恐れも軽蔑も浮かんでいない。望が思う以上に彼は肝が据わっているのだろう。
「なあ、先輩……」
 一真は昏睡したままの優音を眺め、呟いた。
「これって、治るんだよな?」
「え?」
「壬生先輩は、まだ完全な鬼までいってないんだよな?治まったら、また戻ってこれんだよな?このまま、霊山に連れてかれちまったりなんてことは……」
「……まだ何とも言えません。治まらずに鬼まで進んでしまうようなら、里や霊山が何らかの対策を打つかもしれませんが……」
 初めて、一真の顔に動揺が浮かんだ。
「待ってくれよ!それじゃ、蝕と一緒じゃねェか!」

 ――ああ、そうか……

 一真が先ほどから本当に訊きたがっていたことが、ようやくわかった。彼はただ、優音に表れた症状が現に留まれるものなのかを案じていただけだったのだ。自分もまた、いつ蝕を迎えるかわからないからこそ、他人事ではないのだろう。

(バカだな……、僕は……)

 ――何も怖がることなんてなかったんだ……

 自分と同等の霊格の弟子でさえ信じていないことが急に恥ずかしくなった。自分はまだまだ主座として半人前だ。もしかしたら、一真のほうがずっと主座に向いているのかもしれない。
「幸い、里の術士が現に留まっています。甲矢殿は……、この時間じゃ、もう寝ちゃってるかもしれないなあ……。総矢殿は……、治癒術はあんまり得意じゃなかったはずだから、松本医院へ連絡するしか……」
「起こしてくる!」
 立ち上がった一真から碧の風が一筋吹いた。
「ここに連れてくればいいんだよな!?」
 言うが早いか一真は駆け出していった。結界に出入り口を造るのは相変わらず苦手なのか、彼が消えた方向で黄の火花が光った。
「本当に、風みたいな人だなあ……」
 結界に残る碧の霊気に目を細めた。
 澱んだ気持ちがどこかに吹き飛ばされている。確かに彼は、風狼斎とまで称される霊狼に連なる霊筋なのかもしれない。
(……それにしても、鬼化を引き起こすなんて……)
 妖気を甘く見ていたわけではない。しかし、鬼化はあくまで隠人の負の感情が蓄積されたものが何らかのきっかけで暴走したもののはず。妖気によって邪霊が急成長して邪鬼になるのとは根本的に異なっているはずなのに。

(どうなってしまうんだろう……)

 事態が予想を超えて大きく、早く動いている。それも悪い方向へ。刃守の里だけでなく、何かとてつもなく大きな流れが自分達を呑み込もうとしているのではないか?
 言い知れない不安が過った。