追憶の夕刻

17話



「組長……、早かったですね……」
 いつの間にか雨が止んでいるばかりか、元の並木道に戻っている。望が結界を破って入ってきたことにさえ気づかなかった。
「匠のお屋敷にまで澱んだ気が届いてましたから。こっちに来る途中で光咲さんと……。その肘……!」
 琥珀色の瞳が強張った。
「封が解けてるじゃないですか!体に異変はありませんか!?」
 駆けてくるなり右肘を両手で掴み、望は脈を測るように意識を集中させた。霊気の乱れを測っているのだろう。
「右手だけ、少しね……」
 開いてみせた右手は歪に変形していた。自分の手ながら随分と不気味だ。
「邪気は回っていないんじゃないかな。意識はちゃんとしてるよ」
「油断しちゃいけません。邪気は一度回ってしまうと、なかなか抜けきらないんですから」
 ピシリと言い切り、変形した手から右腕までに順に霊気を当てていく。やがて、望はふうっと息を吐いた。
「腕は霊気が濁ってるだけです。異形化も爪だけで止まってるみたいですね」
「あれから二年以上……。もう落ち着いたって思ってたんだけどね……」
「落ち着いてますよ。こんなに霊気が濁ってるのに、この程度で済んでるんだもの」
 主座というよりは医者のような顔で告げ、数枚の霊符を取り出した。霊気を通しては優音の右肘に貼りつけていく彼の手際は松本医院の若先生にも引けを取らない。さすがに院長には敵わないだろうけれど。
(相変わらず、見事なもんだね……)
 霊符から流れ込む破邪が皮膚の内側に広がり、暴れていた霊気を鎮めていく。
 見る度に応急処置の腕が上がっているが、それは彼が深手を負った回数を重ね続けていることを意味している。
(やっぱり……、鎮守役が二人じゃ無茶なんだ……)
 せめて、あと三人、いや、二人。望や一真のように頭抜けていなくてもいい。並の鎮守役程度で構わないから、彼らと共に戦場に立てる人物を探さなければ……。
「……ねえ、壬生君……」
 臨戦態勢のままの赤い瞳が気遣うように窺った。
「もしかして、あのことをまだ気にしてる……?」
「そう見えるかい?」
「壬生君の霊気が僕の霊気から逃げたがってる……。怖いっていう感じじゃなくて、何か負い目を感じてるみたいな感じがするんだけど……」
「そんなつもりはないんだけどね……」
 負い目などではない。あるとすれば――、自分自身への怒りだ。今でも時折、あの頃の自分を殴り倒してやりたくなる。
「僕は鎮守役として役目を果たしただけ。壬生君が気にすることなんてありませんよ。逆に、鎮守隊に入ってもらって申し訳ないくらいだもの。お家の人も……、あんまりいい顔しなかったって聞いてるし……」
「それこそ、あなたが気にしちゃいけないことですよ、組長……」
 数珠から包帯を取り出し、霊符で固定された右手に巻きつける。これで一般人に見られても奇異には映らないはずだ。
「他の組は知らないけれどね……。西組の隊員は皆、自分で望んで入隊したんだ。例外は組長推薦の斎木君だけど、彼だって推薦前から入隊を希望していたっていうじゃないか。多少の危険は覚悟の上さ。辞めろって言われたところで、あっさり辞めるような隊員なんていないよ」
「だけど……」
 望は少し表情を険しくした。主座としての彼がこんな顔つきをすることはほとんどない。補佐頭の前であっても。
「壬生君も気づき始めているはずですよ。鏡面といい、この間の妖獣といい……、最近、西組が直面した問題は、多少どころじゃ……」
 言葉を切り、望は刀を抜いた。先ほど光咲を襲っていたものと同じ――、黒い靄が地面から立ち上っていた。
「まだ動いてる!?」
 素っ頓狂な自分の声に驚く。それほどまでに信じられない光景だった。
 望の破邪で斬られれば邪霊どころか邪鬼もひとたまりもない。宵闇匹敵と称される彼が手を焼くとなれば、それは隠人の手に負える存在ではないということ。いや、宵闇でさえ手こずる相手ということでもある。
「下がっていてください」
 赤い光が燃えた。
「術を操れるようなら防幕を張って……、できるだけ離れて……」
 声は随分と硬い。望がこれほどまで気を張り詰めるなどと、そうそうないことだ。小柄な体から立ち上る炎の霊気に混じる強烈な破邪に本能が畏れを叫ぶ。
「組長……、アレはやっぱり、例の妖獣の……?」
「鏡の破片でしょうね……。付け加えるなら、これは邪気なんかじゃない……。妖気です」
 言うが早いか、望は靄のとの距離を詰めた。抜刀された刃に纏わりついた赤い光が靄に食らいつく。黒い小さな石が束の間、靄の向こうに透けた。間髪入れず赤い光を帯びた刀が黒い物体を突く。悲鳴にも似た耳障りな音が結界内に響いた。

“焔よ……!”

 小柄な体から燃え上がる深紅の炎が水色のパーカーを紫に染める。刀身を包む赤い光が靄のみならず結界の澱み全てを祓っていく。流れるような動きは緩やかなように思えるのに、優音の眼では太刀筋を捉えることはできない。久しぶりに目にする主座の戦いに目を凝らしていた優音はあることに気づき息を呑んだ。

(霊気が強まっている……?)

 一週間の休息をとったからということもあるだろう。しかし、この霊気の高まりようは、それだけではない。こんな広範囲の澱み全てを瞬時に祓うほどの強力な破邪。これは……。

(こんなの、完全に鎮守役の域じゃない……!これじゃ、宵闇匹敵どころか、宵闇そのものじゃないか……!)

 昼頭といっても望の戦いを常に間近で見てきたわけではない。他者を巻き込むことを嫌う望は、結界に入る時はたいてい一人だ。補佐頭でさえ滅多に一緒に連れて行こうとしない。優音でさえ数えるほどしか補助に入ったことはない。しかし、記憶に在るものよりも明らかに高くなっていることだけははっきりとわかる。

 ――また、遠くなった……

 鎮守隊に入って、必死に霊符の扱いを習得して実戦経験を積んで――、優音の霊格は鎮守役に迫るほど高くなった。他の組の並の鎮守役程度ならば勝てる自信だってある。なのに、強くなればなるほど望との距離を感じる。望が立っている場所がどれだけ遠くて見上げなければならない場所なのか――、再認識させられるばかりだ。

 同じ場所に立てなければ、意味がないのに……。

(これがある限り……)

 霊符がギプスのように固めた右腕を恨めしい気分で眺める。霊気の暴走を抑える封印は霊格も抑えてしまう。あの日、覚醒した優音の霊格は丁に至っていたと聞いたことがあるが、封をして以来、一度も丙の域を出たことがない……。

(この封印を完全に解けば……)

 丁を超えられるかもしれない。鎮守役として共に戦えるようになるかもしれない。
 だが、それは決してできない。異形化はまだ完全に治まっていない。あの事件の日、自分の中に渦巻いていた暗い澱みはまだ消えていないのだから……。

‘解放すればよいではないか……’

 くぐもった囁きが鼓膜を揺らした気がした。
 例の靄は望の破邪に焼かれてどんどん小さくなっていく。優音に語りかけてくるような余力などあるはずがない。
(気のせいか……?)
 久しぶりに封が解けたから霊気が昂っているのかもしれない。不安定な霊気は邪につけこまれやすい。防幕を張ったほうがいいだろう。

‘霊筋を解放するのだ……’

 印を切ろうとした手を止める。気のせいなどではない。

 ――離れなければ……

 足音を殺し、距離をとる。
 望は破片を鎮めるのに手一杯だ。妖気相手ともなれば、彼ほどの使い手でも相当な集中が必要なはず。意識を殺ぐような事があってはならない。

 ――早く……!組長が気づく前に……!

 あれほど優勢ならば破片を鎮めるまで、あと十分もかからないはず。それまで時間を稼ぐことができれば……。

‘解放せよ……!’

 足が止まった。心臓がそこに生じたように右肘が大きく脈打つ。包帯もろともに霊符が弾け飛び、霊紋が濁った蒼を放つ。
(これ……は……ッ)
 意識が沈んでいく感覚には覚えがあった。全身が異形化していく感覚も。額に集まる破壊衝動も。

‘そこにいる者を……、討て……’

 治まりつつあった右手の爪から硬質な音が上がる。指と同じ長さの爪が獣のように鋭く伸びていく。

‘魂を……引きずり出せ……’

 頭の中に声が響いた。命じられるままに足が向きを変え、一歩二歩と歩き始める。
「ふざける……な……ッ」
 取り出した白虎の符がナイフに姿を変えるのを待つのもそこそこに、右脚に突き立てる。傷口から流れる血も、痛みもどうでもよかった。この足が止まってくれるならば……。

‘行け……、あれを殺すのだ……’

 声がまた響いた。怪我などないかのように足は動き続ける。新たな霊符を刃に変え、脚にも突き立てる。
(止まれ……!止まれ……!!)
 抜いては刺し、また抜いて刺し……、何度繰り返しても、足は別の生き物のように前進を続ける。

 ――ダメか……

 舌打ちし、右肘に爪を立てる。根拠などない。ただ、この抗えない声は右肘から伝わってきているような気がした。糸が切れたように足が歩みを止めた。

 ――肉ごと……抉ってやる……

 熊のように伸びた爪は人間の肘を抉るくらい造作もないだろう。霊紋ごと抉ってしまえば、この声は止むかもしれない。

‘全て……は……、お館様の……た……め……’

 電波の悪いラジオのように途切れ途切れに聞こえた声は、それまで聴こえていたものよりもずっと小さく、弱々しかった。だが、金縛りにあったように手が止まった。
「おやかた……さま……」
 それが誰を指すのか、どういう意味なのか――、知らない。わからない。ただ、「お館様」に逆らうことは決してあってはならないこと――、自分の存在意義でさえあるのだと、魂が告げる。
「お館様の……為に……」
 気づけば望の背後に忍び寄り、爪を振り上げていた。靄と鬩ぎ合いを続ける望がこちらの動きに気づく様子はない。当然だ。彼は全霊力を破片に向けているのだから……。

‘殺せ……!’

 一切の迷いなく爪を振り下ろす。霊気に揺れる髪の下から覗く首筋がどこか遠くの景色のように思えた。
 視界が赤く染まった。
「ぐっ!?」
 顔を背け、数歩後ずさる。
  飛びかかってきた赤い光が炎に姿を変えて襲いかかった。右腕だけでなく全身に広がる炎の中で強力な破邪が牙を剥く。悪夢から醒めるように意識が浮上していく。

(これ……、は……)

 十二天将の霊符の一つ、朱雀――!
 すぐに効力を発揮する他の霊符と異なり、持続性を持つ霊符。攻撃にも防御にも使えるそれを、いつの間に待機させていたのだろう。
「……ごめん」
 消えていく渦に霊符を放ち、望は静かに呟いた。背を向けたままの彼の表情を声から推測することはできない。
「……少し、休んでいてください……」
 視界が揺れ、地面が眼前に迫る。思い出したように感覚を刺激する脚と右肘の痛みが酷く心地良い。

 これで……、いい……。

「……貴方には……敵わない……な……」

 中学の頃とさほど変わらない細い背がとてつもなく大きく、遠く感じた。