追憶の夕刻

16話



 赤い夕暮れが一転、大雨が降り出す直前のように暗く沈んだ。

(小道に張った結界はまだ健在か……)

 靄を閉じ込めていた黄の結界は跡形も残っていないが、小道に張った結界はまだ健在だ。その証拠に、頭上で自分の霊気が揺れている。

(どこに行った……?)

 自らの周りに張った防幕ごしに辺りを窺う。五重ほどに張った結界を破るのにかなりの力を消耗したはず。満足な攻撃力は残っていないと考えていいだろう。補強が間に合わなかった外側の結界まで破壊できなかったのが、その証拠だ。
 薄暗い林の中に靄はどこにもない。桜だけでなく低木も多い小道はとにかく死角が多く、見晴らしも悪い。急激に暗くなったのは靄が結界中に拡散しているからだという可能性も否定できない。

(どうしたものかな……)

 この暗い空間では蒼く光る防幕は自分の位置を相手に教えているようなものだ。防幕を維持しながらできる攻撃など知れているし、動くのも不便だ。だからといって、防幕を解けば死角から襲撃を受ける確率が倍増する。ただし、こちらも複数の霊符を操れるようになる。襲ってくる前にめぼしい場所を障害物ごと隔離してしまえば……。

 防御か?攻撃か?

 暫し考え、優音は防幕に霊気を注いだ。
 未だに結界に手を出さず、こちらにも攻撃がないということは、邪は動けないほど消耗している可能性が高い。仮に例の鏡の破片だったとしても、ごく小さなものに違いない。少なくとも、昨夜の破片よりも数段劣ることは間違いないはず。
 ならば――、無暗に戦う必要はない。防御に徹して結界を維持することに集中し、望達が駆けつけてくるまでの時間を稼ぐべきだろう。

(それにしても嫌な暗さだな……)

 雨が降り出す手前の湿った薄暗い景色は苦手だ。どうしても、あの事件を思い出す。
 防幕を一滴の滴が叩いた。

(……なるほど……。そう来たか……)

 結界は玉響まで届かないほど浅い亜空間を創り出し、空間ごと現から隔離する術だ。亜空間に反映されるのは、隔離する直前までの景色であり、外の天気が変わろうが結界の中に影響はない。雨が降り出したということは、これは邪の仕業ということになる。
 背後――、並木道の入り口のほうで土を踏む音がした。

(かなり頭を使う奴ということか……)

 雨を降らせてくるなんて……。まだ知能が発生していないはずの邪霊がやることではない。かなり厄介なタイプなのは間違いないだろう。だが……。

(まあ、所詮、邪霊は邪霊ってことだね)

 雨はさほど強くない。もう少し酷くなってから襲ってくるならばともかく、こんな視界がクリアな状態で襲われてもさほど脅威はない。しかも、こんなにわかりやすく近づいてくるなどと――、霊符の標的になりたいと言っているようなものだ。
 霊符を取り出して振り向き――、優音は息を呑んだ。
 少しずつ強くなる雨の中、一人の少年が佇んでいた。
 シャツにジーンズとラフな服装の少年は空色のパーカーを羽織り、少し長い茶髪を雨に濡らし――、 「組長……?」
 チラリと時計に目を走らせる。光咲が彼らを呼びに行って、まだ十五分も経っていない。あまりにも早すぎる。だとすれば、あれは幻。あるいは変化能力を持つ邪だとでもいうのだろうか。
 望が顔を上げた。その目に宿るのは穏やかな色ではなく、鋭い獣の眼差し。彼が一度だけ優音に向けた、邪を震え上がらせる霊狼の眼だ。あの日と違うのは、彼の瞳に感情はなく、どこまでも冷たい光だけが灯っている。

「そこまでですよ、壬生君……」

 静かな声音が波のように広がった。
 強烈な呪詛を浴びせられたように全身が硬直する。眼鏡に落ちた水滴が視界を曇らせても、こちらを見据える眼光は弱まることはない。

 ――これは……

 雨にぼやける視界の中で景色が変わっていく。薄暗い桜並木が消え、黒い建物が出現する。拭った眼鏡の向こうに映るのは、蔵が並ぶ旧家の屋敷だった。よく知っている場所だ。鞍の横を過ぎると庭に出て、その先に母屋がある。

 ――どうして、この景色が……今……

 じわりと熱を帯びた右肘を押さえ、半歩後ずさる。指から滑り落ちた霊符が水たまりの中に落ちた。
 雨の中に佇む少年のパーカーが揺れた。額から伝う滴を拭うこともせず、彼は笑った。怖いくらい穏やかに。
「城田……」
 勝手に唇がその音を紡いだ。数年前、まだ鎮守隊の存在すら知らなかった頃。大方のクラスメイトと同じように彼を呼んでいた音を。
 ザアザアと音を立てて降り始めた雨に悲鳴が混じる。跳ねる水滴にあの日の自分の足音が重なった。あの日、雨の中で、自分は……。
 右手の指がメキリと音を立てた。
 指に蘇る生温い感触に背筋が凍りつく。防幕が雨に流されるように消えていくのも構わず、その場に現れた「体の弱いクラスメイト」を呆然と見つめ続けていた。あの日と同じように……。
 望の唇が静かに動く。雨の中でもはっきりと聞こえる声は変わらず穏やかだ。だが、刃のような鋭さを内包している。
 ふわりと彼は顔を上げた。赤い瞳が笑んだ気がした。
 水を含んだ土を蹴り、望の姿が掻き消えた。刃が雨の中で光る。
 鮮血が散った。
「……随分……、姑息じゃないか……ッ!」
 右肘を深々と突いた刀を睨み、優音は左手で新たな霊符を握り締めた。
「ひとつ……、教えておいてあげるよ……。組長は、そんな安っぽい眼で刀を振るったりしない……!あの時も、今もね……!」
 貫通してもおかしくない刀は右肘を切っ先だけ食い込ませ、石に当たったように止まっている。溢れた温いものがブレザーに黒い染みを作り、袖から滴り落ちる水滴が赤く染まった。袖の周りで火花がパチパチと宙を舞う。

“十二天が一、玄武!”

 放たれた符が蒼い光を放った。雨の中で威力を増した水の霊符から生まれた衝撃が真正面から「望」を襲う。刀もろともに吹き飛ばされていく少年の姿を少し苦い気分で見やり、右肘に霊符を押し当てる。

(マズイな……)

 符の下で自らの霊気が蠢いている。
 厳重に封を施された右肘は常に強い防幕を張られたようなもので、多少の攻撃を受けたところでビクともしない。それをまさか、一撃で破ってくるなんて――。
 吹き飛ばされた少年はムクリと起き上がった。ぬかるんだ土の上を転がったというのに、鮮やかな空色のパーカーには全く泥がついていない。
「そんな封印をつけたままじゃ、僕達と並べないですよ……?」
 何事もなかったように立ち上がり、望と同じ声、同じ口調で少年は笑んだ。

 ――聞いてはいけない……!

 あれは望ではない。姿を真似ただけの邪だ。
 なのに――、どれだけ意識が遮断しようとしても耳が勝手に言葉を拾おうとする。
「本当は……、現の自分を棄てたいんでしょう?」
 ドクリと右肘が脈打った。水の気が雨の中で膨らむ。
「貴狼の霊筋が泣いてますよ……。本当の力を使いたい、本当の姿に戻りたいって……」
「黙れ……!」
 右手から放たれた水の気が少年を外れ、雨の向こうへ消えた。腕から立ち上る霊気は邪気を吸い込んで蒼を濁らせていく。右手で爪が音を立てて伸びた。
「解放すればいいじゃないですか……。何もかも壊し……」
 不自然に声が途切れた。少年の胸から一本の刃が突き出ている。赤い光が背後で揺れた。

「勝手に僕の姿を使わないでくださいよ……」

 炎が少年を包んだ。絶叫を上げながら崩れ落ちる自分の姿を、赤い光を纏った少年は冷たく見下ろした。特有の霊気の波動に強い炎の霊気。間違えようがなかった。

 ああ、本物だ……。

 そう思うなり、膝から力が抜けた。