追憶の夕刻

15話



(まだ邪霊にはなっていない……)

 黄色い光が揺れる結界を優音は素早く見渡した。澱んでいたのは小道の三分の一ほど。全て隔離したが「邪霊」の姿はない。

(不気味だな……)

 勾陣によって更に隔離された多面体の黄の光の中で蠢く靄は一見すると邪霊になる直前の邪念の塊のように視えなくもない。巡察で見かけたとしても、邪念が集まっていると判断する補佐が大半だろう。しかし、邪避けを破ったばかりか、隠人に襲いかかったという事実が、ただの邪念ではないことを証明している。少なくとも一般の邪霊以上の力を持っているはずだ。

(濃くなっていく……?)

 勾陣は大人五人ほどが入る空間を囲んでいる。光咲を襲っていた靄はせいぜい人間一人分ほどの大きさだったはず。拡散したとすれば薄くなるはずだ。外から邪念が集まってくるならばともかく、二重に隔離された結界の中で邪気が濃くなるなどと、ありえない。

(まさか……?)

 神社で見たばかりの石の破片が過った。
 あれが自ら現へ来たというならば、いつ後続が漂着してきてもおかしくない。その場所が槻宮学園に近い、この桜並木道だとしても何らおかしくないのだ。

“火の依よ、護れ”

 火を帯びた十干の霊符が赤く光り勾陣を補強する。
 一真の家は町の外れだ。いくら紋付隠人は人間よりも身体能力が高いといっても、初級講習レベルの光咲は運動神経のいい人間と変わらない。走っても二十分はかかるだろう。望達がすぐに出てきたとしても、昼間は屋根の上を走るわけにいかないし、走る速度も人間のレベルまで落とさなければならない。

(最短で三十、いや、四十分か……)

 通常の邪霊ならば難なく抑えられる時間だ。だが、これが例の妖獣絡みだとすれば二十分でも厳しいだろう。

(今日の巡察ルートだと、隊は浅瀬橋あたり……)

 補佐達がここに来ることはほぼないだろう。
 補佐頭を含め、補佐から鎮守役に連絡するのは厳しい。連絡することを禁止されているわけではない。丁以上の霊格に調整された鎮守印に補佐の格に調整された隊員証で呼びかけても弾かれてしまうのだ。そのため、補佐からの連絡事項は言伝を飛ばすことになっている。補佐が必ずと言っていいほど班単位で行動するのは、今回のような事態に出くわした場合、誰かが抑え、誰かが鎮守役に言伝を飛ばす為なのだ。

(迂闊だったかな……)

 小さく自嘲する。
 優音自身、どうして巡察中に単独行動をとったのかわからない。通常ならば間違えてもやらない軽率な行動だ。理由があるとすれば、「呼ばれたような気がした」。それだけだ。
 何かが呼んだような気がして誘われるように小道を覗いてみたら、光咲が襲われている現場に出くわした――。
 黄色い光の中で靄が動き方を変えた。濃淡を変えながら絡み合うそれは巨大な猿のような姿を取った。顔の部分に大きな目玉が開く。鏡のように光る眼が優音を映した。

 ――違う……!

 直感が叫んだ。
 放った符が結界をさらに重ねたが、足りずに大きく後ろに飛び退く。大量の汗が伝った。

(あれは邪なんかじゃない……!)

 ポケットから取り出した白紙をクシャリと握り締める。四重に張った結界が揺れた。大きな黒い手が結界の内側をベタベタと触れる。
 結界の強度を測っているかのような動きに、また勾陣の符を取り出す。
 あれが破片なのかどうかはわからない。だが、自分の格で手に負える相手でないことだけは、はっきりとわかる。
 光咲が一真の家に到着するまでの時間すら持ちこたえられるかどうか――。
 一瞬だけでも結界を解き、言伝を飛ばせば――。
 結界の中で黒いものが動いた。
 内側から殴られたガラスのように結界が揺れた。結界に押し当てられた手は人間の数倍は大きく、獣のものだった。結界に手が叩きつけられるたびに、多面体が軋み、火がついたように右肘が熱を帯びていく。

 ――いけない!

 靄の周りで結界に大きな亀裂が走った。霊符がビリビリと音を立てて破れる。
 黄色の光が飛び散り、灰色の煙が噴出した。




「光咲?」

 前方から聞こえた自分を呼ぶ声に光咲はビクリと体を震わせて立ち止まった。
「どうしたんだよ?そんな固まって……」
 硬直してしまった光咲に怪訝な顔をし、彼は何かに気づいたように顔を強張らせた。
「お、おい、それって……!」
 ブレザーではなくシャツの上からジャケットを羽織った私服姿の一真は地面を跳ぶように駆けてきて光咲が手に握り締めているものをマジマジと見つめた。輪郭をなぞるように揺らめく碧の陽炎は、人の目には映らない彼の霊気だ。
「やっぱ邪避けの護りが破れてるじゃねェか!お前も霊気が濁ってるし……!何があったんだ!?」
 警戒も露わに油断なく周りを見渡す横顔は子供の頃からいつも見てきたものと同じだった。鋭くて、どこまでも真摯な眼差しも。

 ――ああ、一真君だ……

 安堵すると彼の顔がぼやけた。
「一真君?光咲さんがどうかしたんですか……?」
 おっとりとした声と共に後ろから望が顔を出した。何故、鎮守役の二人がこんなところにいるのか?光咲には見当もつかない。
「先輩!光咲の邪避けが破れてんだ!これって、そんな簡単に壊れねェよな!?」
「邪避けが?」
 表情を険しくした望は光咲と握り締めたままの御守りと霊符を順に眺め、霊符に手を伸ばした。
「ちょっと見せてください。ああ、やっぱり、壬生君の霊気ですね」
「てことは、昼番が抑えに入ってるってことか……」
 二人は頷き合い、並木道の方向を見やった。
「この澱んだ気……。やっぱりただ事じゃなさそうですね……。怪我はありませんか?」
「霊気も弱まってんな……。悪寒とかはねェか?」
 もう大丈夫だと思うなり大切なことを思い出した。早く伝えなければ……!
「さ、桜並木……!壬生先輩が、ひ、一人で……!は、早く……!」
 言葉が上手く出てこない。言われるままに逃げてきたが、あの黒い靄が何だったのか、わからない。これからアレと戦うだろう彼らの為にも少しでも多くの情報を伝えないといけないのに……!それが、現衆に所属する隠人の役目。守ってもらうしかできない自分の役目なのに……!
「わかった」
 肩を軽く叩き、一真が顔を覗き込んだ。
「壬生先輩が桜並木で邪避けを破った奴と戦ってんだな?」
 何度も頷いた。こんな時、上手く伝えられない言葉の先を、一真はいつも察してくれる。幼い頃からずっと。だけど今は……、心強いよりも申し訳ない気持ちしか生まれてこない。
「一真君、光咲さんを送ってあげてください。そんなに霊気が濁った状態で逢魔が刻に独りになるのは危険です。精神ショックも激しいみたいですし。邪気を祓って、少し休んでもらったほうがいいでしょう」
「わかった。神社でいいんだよな?」
「ここからなら、一真君の家のほうが近いですね。匠なら邪気を祓う方法を知っているはずです。ひとまず一真君の家で待ってもらったほうがいいでしょう。昼番の皆の指揮ですけど……」
「今って夜頭が屯所にいるよな。オレから昼番の指揮頼んどく」
「お願いします。伝令役と甲矢殿にも、この件を伝えてもらってください。総矢殿は……、まだ寝てるかな……」
「甲矢に言っときゃ問題ねェって」

 ――ああ、遠いなあ……

 自分とは住む世界が違うと思っていた「鎮守様」。いくら鎮守役になったといっても、一真は一真だと思っていた。
 だけど……、目の前で望と話す一真はどこまでも「鎮守様」だ。自分達と接する時の口調も眼差しも、昔と変わらないのに――。彼の力は、もう光咲達姉妹や詩織を護るだけのものではなく、武蔵国一帯を護る「鎮守様」としてのものなのだ……。
「先に行っています」
「オレもすぐ追っかける」
 頷き、望は駆け出した。空色のパーカーがどんどん小さくなっていく。
「大丈夫か、光咲?」
「うん……。一真君達に会えてよかった……。家にいるって思ってたから……」
「変な風がこっちから吹いてきてたからさ。夕飯ができるまでもうちょい時間あるから見に来たんだ。こんな大ごとになってるなんて思わなかったけどさ」
「そうなんだ……」
 二人になれたのに嬉しい気持ちはなかった。一真はすぐにでも優音の救援に行きたいはずだ。望を見送った彼の表情を見ていればわかる。

(私……、一真君の足を引っ張っちゃってるんだ……)

 「私は大丈夫だから」、「心配しないで。先輩の後を追って」そう言えたら、どれだけいいだろう。

 ――なんで……、こんなに弱いんだろう……?

 自分の非力さが情けなくて悔しくて地面が滲んだ。
「光咲!?どうした!?」
 慌てた声に顔を上げることもできずにいると、御守りの布袋にポタポタと染みができた。

 ――力が……、ほしいよ……

 詩織のように、彼と一緒にいたいなんて贅沢は言わない。若菜のように鎮守隊に入ろうなんて、大それたことは思っていない。ただ、自分の身を守れるだけでいい。彼の邪魔にならないで済む程度の力でいいから……。

「な、泣くなって!変な奴が追っかけて来ても、オレが叩きのめしてやるからさ!な?」
 頷くと、また涙が溢れた。

 ――ごめんね、一真君……。ごめん……ね……