追憶の夕刻

3話



 拝殿を起点に正殿を守るように囲む瑞垣が内側からの温かな波動を浴びるたびに少しずつ空を向いていく。
 葉が落ち、あるいは変色し、苗を植え直すしかないと思われた瑞垣は、僅か一週間で元の緑を取り戻しつつあった。

(これが霊獣の力か……)

 拝殿を通り、優音は足を止めた。
 正殿へと続く通路の真ん中で赤い光が揺れている。
 光の中心に一人の巫女の後ろ姿が視える。

「昼頭殿か……」

 正殿を向いたままの少女に優音は軽く頭を下げた。
 彼女は霊気の動きでこちらの動作を読み取る。
「陣の修復作業お疲れ様です、甲矢殿。邪魔でしたら下がっていますが?」
「すぐに済みます故、そのままお待ちを」
 赤い光が爆ぜた。赤い光の雨が瑞垣へと降り注ぐ。
 甲矢は瑞垣の様子を一瞥し、最後に正殿を見上げた。

(ああいう術式なのか……?)

 優音が彼女に会うのは、たいてい巡察がひと段落ついて神社にくる時刻だ。
 この時間帯、甲矢は陣の修復作業をしているが、作業の最後は決まって正殿を見つめる。
 術の仕上げなのか、他に何かの意味があるのか――、優音にはさっぱりわからないし、わかる必要もないだろう。

「お待たせした」

 霊気を収め、巫女の出で立ちをした霊獣――、荒野甲矢は振り向いた。
 柴色の髪を束ねる瑪瑙の飾りが左肩で夕陽を弾く。
 優音と同じくらいの年齢に見えるが、彼女は霊獣だ。数百年を超えていてもおかしくない。

「望殿の容態を聞きに来られたのだろう?」
「よくわかりましたね」
「貴方が私に尋ねるようなことなど、それくらいしかないからな」
 甲矢は拝殿まで来ると石段に腰を下ろした。数珠からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出す。
「少し来ぬ間に、現は随分と変わったな。こんな、匂いの異なる地の水が簡単に手に入るようになったとはな……」
「お口に合わないようなら、この地方の水を浄めたものが神社にありますが……」
「これでいい。次に人の世に来た時には、また景色を違えているだろうからな……」
 ペットボトルを傾ける仕草は、普通の女子高生とあまり変わらない。霊獣でも、神社に常備されている普通のミネラルウォーターを飲むし、人間と同じものを普通に食べる。
 霊獣を見るのは彼女らが初めてだが、ここまで人と変わらない容姿に変わらない生活をしているなんて――。
 他の隊員達も、初めて見る「霊獣」に随分と驚いていた。

(組長が同情するわけだよ……)

 望達が霊染め桜の下で会った霊獣は中学生くらいの少女で、泣き出したという。
 人の好い望が「放っておけない」などと言い出すのも無理からぬことかもしれない。だからといって、許可できるはずがないが。
「組長が明日から復帰できるかもしれない、などと言ってますが……。間違いありませんか?」
「昼頭殿は随分と疑り深いのだな」
「当たり前ですよ。妖気にやられた傷は霊獣でも癒すのに一苦労なのでしょう?組長は規格外でも、あくまで隠人なんですから」
 「隠人」という言葉を強調する。どうも、霊山も刃守の里も、望を天狗や霊獣と同じように扱っているような気がしてならない。
「ならば、隠さずに申し上げよう」
 甲矢はペットボトルの蓋を閉め、 「望殿は当初の見立てよりも遙かに早く回復している。鏡の中で施された処置がとにかく良かった。恐らく、鏡に残っていたという鞍馬の方の御力だろうが……。霊体・肉体共に妖気は残っていなかったばかりか、傷も八割がた癒えていた。枯渇寸前だった霊力も、この一週間で完全に回復されている。正確には三日で霊力は満ちていた」
「三日……?最低でも七日はかかると伺いませんでしたか?」
「そうでも言わないと、すぐに飛び出すと聞いていたのでな。ご本人のみならず、貴方がたにもそのように申していたまで。全ては里長様のご指示だ」
「里長様が、ですか?」
 意外な人物に眉を顰める。
 今回の一件は刃守の里長が指揮を執っていると聞いている。彼女も里長直属の霊術師で、長から直々に指示を受けていてもおかしくない。だが、いくら規格外でも一介の鎮守役の療養期間のような細かいことにまで口を出すなんて……。
「以前より望殿のご負担を案じておられた。今回、総矢が共に参ったのは、最低でも七日は療養してもらいたいがためだ。一真殿がいかに有能といっても、まだ経験が浅い。妖獣との戦いから帰還されたばかりの疲弊したお体で望殿の代わりまで務めるのは厳しいだろう?」
「なるほど。ご配慮、感謝しますよ」

 里が派遣してきたのは、この荒野甲矢という霊術師と、もう一人。荒野総矢という武術士で、甲矢の双子の兄だ。
  武術士というのは霊山における宵闇のような存在で、実力も同等らしい。事後処理だけならば霊術師を派遣するだけで十分なはずなのに、武術士まで来たのは、そういう事情らしい。
 ただし、総矢は完全な夜型でこの時刻は爆睡している。参加するのは夜番だけなので優音とは引継ぎの時に顔を合わせる程度。どれほどの実力者なのか、一週間経ってもよく知らない。剛士によると、「斎木がもう一人増えたみたいだ」ということなので、鎮守役の代理として実力は申し分ないのだろうけれど。

「あまり、お役に立てなかったがな。望殿は聡明な方だ。こちらの意図など最初から見抜いておられた。鎮守役主座として、『里からの使い』に譲ってくださっただけだ」

(へえ、珍しいこともあるもんだね)

 素直に驚く。今回ばかりは望の言い分が正しかったようだ。
 この様子では、明日、許可が出ると考えておいたほうがいいだろう。

「あの組長を一週間も部屋に押し込めるなんて、僕達からみれば神業ですよ。西組の補佐を代表して礼を言います」

 甲矢は少し頬を緩めた。笑ったのかもしれない。
 端正な顔立ちをしているが、彼女は表情が乏しくて口調も淡々としている。最初は霊獣だからなのだろうと思っていたが、兄の総矢は表情豊かなので関係ないのだろう。

「なあ、昼頭殿。一つ、お尋ねしてもいいか?」
「僕が答えられることでしたら」
「貴方は、望殿を怖れたことはないのか?」
 問いかけられた意味が理解できず、眉を寄せる。それほどまでに彼女の口から出るには意外な質問だった。
「どういうことです?」
 甲矢は膝を抱き、暮れゆく空を眺めた。
「望殿の霊格は隠人の域を抜けつつある。いや、既に我々に近しいだろう。紋を持つ隠人ならば、あの方の霊筋と霊格がいかに桁違いなものか――、感じているはずだ。そんな異端の存在と共にいて、貴方は怖れを抱かれぬのか?」

 ――馬鹿にするな……!

 カッと頭に血が上った。
 相手は武蔵国現衆を束ねる刃守の里の使いだ。
 昼頭として、彼女の機嫌を損ねるようなことはあってはならない。
 そんなことはわかりすぎるくらいわかっている。
 だが――!

「いくら里の霊術師殿でも、組長への侮辱はやめて頂きたいものですね」
「事実を言ったまでだが?」
 怪訝そうな黒い瞳を見据える。
 渦巻く怒りのままに口を開いた。
「勘違いしていませんか?僕達は皆、自分から入隊したんですよ。強制されたわけでもないし、頼まれたわけでもない……。組長の下でこの力を使い、戦いたいから、自分の意志で決めて入隊したんです。それを……、どうして怖がらないといけないんです?」
「驚いた……」
 少し呆気にとられた後、甲矢は目を丸くした。
「人に追われ、命からがら逃げてきた隠人を数多く見てきたのでな。時代が移ろったとはいえ、少しばかり奇異に思っただけだ……。だが……」
 立ち上がり、甲矢はこちらをヒタッと見つめた。
「やはり不思議だ。貴方は、私を前にしても全く畏れていない」
「まさか。里の霊獣とお会いするなんて、緊張しているに決まっているでしょう?」
「緊張、なあ……。面白い表現をなさるものだ。貴方は貴狼のご霊筋だろう?」
「それが何か?」
 覚醒した時に父から霊筋の話を聞いている。
 壬生家の先祖は刃守の里に住んでいた貴狼と呼ばれる霊狼だと――。
「貴狼は太狼に仕える立場。壬生家といえば、貴狼の中でも力のある家柄の一つだったと聞いている。人の血が混じる隠人となり果てたとはいえ、貴方からは強い貴狼の波動を感じる……」
 黒い瞳が細められた。
「貴狼が太狼を前にすれば、そのように泰然と構えることはできん。人の血が混じろうが、それほど強く貴狼が出ていれば反論などできんだろう。なのに、貴方は太狼である私に正面から噛みついてきた。その意味がおわかりか?」
「さあ?」
 甲矢が何を言いたいのか――、まるでわからない。
 望への侮辱だと感じたから、反論しただけだ。心から認めるリーダーを貶されて腹を立てることに貴狼も太狼も関係ないではないか。
 少女は何かを確信したように小さく頷いた。
「迷いのない眼をなさっているな。貴方の傍に私を上回る霊筋の太狼がいるということだ。貴狼を心酔させたばかりか、太狼相手に牙を剥かせるほどの、な……」
「……組長が、その太狼だと言いたいんですか?僕達の意志は、所詮、霊筋に定められたものだと?」
「そう聞こえたか?」
 夕闇の中、少女の黒い瞳が微かに赤く染まった。
 臆することなく見つめ返す。
 なるほど、彼女の言う通りかもしれない。
 相手が霊獣だろうと、この場で戦えと言われたら、自分は霊符を放つだろう。
 だが、この意志は決して霊筋だけではない。本能は相手の強さを訴え、警鐘を鳴らしている。

(霊筋なんか関係あるもんか……。これは……)

 ――僕自身の、意志だ……!

 遠くでカラスが鳴いた。
 先に目を逸らしたのは甲矢だった。

「確かに霊筋だけではないようだ……。その想い、貫かれるといい……」
 少女は寂しそうに笑った。
「いかに壬生家の末裔といっても貴方は隠人だ。いざという時は、現の尺度で以って道を決められるのだろう。だが、その尺度では我々には届かぬ。くれぐれも後悔だけはなさらぬようにな……。喪ってしまった後に嘆いても、何も戻らんのだから……」
 背を向け、霊獣の巫女は拝殿を後にした。
 それまでの憤りも吹き飛び、その後ろ姿を見送る。

(泣いていた……?)

 夕闇の中で、黒い瞳は微かに濡れていた。