追憶の夕刻





 春の陽が揺れる長閑な大通り。人っ子一人いない、そこは静まり返っていた。
 静止した世界でヒラリ、と花びらが落ちた。

 「そこか!」

 振り向き、一真は思いきり桜の木に向かって木刀を振るった。

 キキキキキキーーーーーーーーーーー!!

 耳障りな音を立てて黒い一つ目猿が跳躍する。

 ――こ、この猿……!

 キキキキッ!

 「避けてんじゃねェっっっっっ!」

 ドガッ

 回し蹴りが牙を生やした大口に直撃した。
 邪霊がべしゃりと霧散する。
 霊符によって造り出された疑似世界で、見頃を過ぎた桜の木から残っていた花びらが舞った。

 「チ、手こずらせやがって……」

 木刀に霊気を込め、結界内を確認する。
 あれが最後の一体だったようだ。

 「ったく、昼飯時に出てきやがって……。オレのカツ丼、沖野に食われちまったじゃねェか……」

 制服の上着をはたきながらぼやく。
 包囲網完成の言伝が来たのは、よりによって学食で並んでいた時――、注文していたカツ丼ができる直前だった。
 あまりにも嫌なタイミングだが、無視するわけにいかないので、横で何を食べようかと迷っていた彰二に押し付けてきてしまった。少々、悪い気がしないでもなかったが、出来上がりつつあるカツ丼を見て、「僕もカツ丼にしようかな」などと言っていたので問題ないだろう。鎮守役の緊急出動絡みなので、カツ丼代は隊の活動費から出してもらえるし。

 「はあ、カツ丼……」

 何故か、今日は無性にカツ丼が食べたい気分だった。
 昨日の夜、巡察に出る前に何気なく見ていたテレビのグルメレポがカツ丼だったからかもしれない。今朝、登校中に光咲と若菜がカツ丼の話をしていたからかもしれない。
 腕時計の時刻は昼休み終了まで残り十分だ。
 大急ぎで学校に戻っても、学食に行っている時間はないだろう。

 「マジかよ……。昼休み中走り回って昼飯抜きって……、キツすぎだろ……」

 木刀を振り、がっくりと肩を落とす。
 西組主戦力の鎮守役主座は戦線離脱中だ。
 里から助っ人が来たとはいえ、諸々の事情で昼間は一真が担当しなければならない。

 「先輩じゃねェし……。オレは飯食わねェと動けねェって……」

 朝も昼も夜も食事を抜いても、邪気への興奮だけで走り回れる師匠の境地には、まだまだ至っていないし、できれば、そこまでいきたくはない。人として。
 凹んでいても仕方がないので、一真は鎮守印を手に取った。

 「斎木ッス。ここは終わったぜ」

 『了解。少し、待っててくれるかい』

 落ち着いた声が水晶に灯った蒼い光から聞こえた。

 (昼間って、けっこう面倒なんだよな……)

 夜間は邪の出没が多い反面、人に目撃される確率が低い。多少のことを目撃されても、見間違いで済むことがほとんどだ。逆に、昼間は邪の出没が少ない代わりに、目撃される確率が高い。
 昼番の隊員は邪だけでなく、周りの一般人の動きを常に注意しなければならないのだという。それは鎮守役にとっても同じで、夜のように無警戒に包囲網から出るわけにはいかず、外にいる昼番の隊員達に人がいないタイミングを見計らって結界を解除してもらわなければいけない。

 一分ほど待っていると、黄の光が揺らめいた。耳に雑音が戻ってくる。
 少し離れた所に立っていた制服姿の優音が腕時計を確認しながら近づいてきた。他の昼番は他の邪霊を追いかけているのだろう。

 「お疲れ。見事なもんだね。巡察に出て、まだ一週間ほどだなんて思えないよ」
 「そうでもねェって。包囲網を開けるの、まだ慣れてねェし」

 二度ほど包囲網を壊しかけたのを思い出し、少し苦い気分になる。
 細かい作業はどうにも苦手だ。

 「謙遜しなくていいよ。妖獣の件だって、君が一緒に行っていなかったらどうなっていたか……」

 眼鏡の奥の目が憂鬱に染まった。
 西組だけでなく、刃守の里、信濃の霊山、更には南組も一名巻き込んだ「妖獣事件」は武蔵国現衆だけでなく、全国の現衆を震撼させたと聞いている。組長が動けず、伝令役が事後処理に飛び回っていた間、西組を纏めていたのは、この昼頭だ。

 「ところで、」

 優音は眼鏡を直した。

 「午前中と数が同じなのに少し時間がかかったのは、空腹が原因かい?」
 「う……、当たりッス……」

 ――鋭いぜ……、昼頭……

 この西組のトップをも黙らせる昼頭には当面、勝てそうにない。
 優音は軽く頷いた。

 「じゃあ、五限目はサボりなよ」
 「へ?い、いいのか?」

 意外すぎる言葉に思わず目を点にする。
 入学式で知ったが、優音は槻宮学園高等部の生徒会長だったりする。
 まさか、「真面目」「優等生」の代名詞の生徒会長からサボりを推奨されるなんて……。

 「先生達には僕達の出動は連絡が入ってるから問題ないさ。奥の赤レンガの食堂で何か食べて待機しといてくれるかい?何かあったら言伝を送るから」
 「あそこって、寮生専用じゃねェの?」

 学園の奥にこじんまりと立つ食堂は、他の食堂に比べると閉鎖的な雰囲気を放っていて、なんとなく入りづらい。「寮生専用」と聞いているが、その寮生でも入りづらいらしい。

 「表向きだけだよ。あそこは現衆が経営してる、鎮守隊と対策室専用の食堂なんだ。鎮守印を見せれば全メニュー半額以下だし、奥の仮眠室も使わせてもらえるよ」
 「マジ!?」

 この日、この時、一真は槻宮学園に入学できたことを心の底から感謝したのだった。