夜桜舞う里

35話 



 池のほうから何かが割れるような音がした。

「なんだ、今の!?」

 よくわからないが、悪い兆候だということだけはわかる。
 背後で気配が動いた。
 そこだけ切り取られたように残る畳の上で望が蹲るように倒れている。

「先輩!?だ、大丈夫かよ!?」

 慌てて駆け寄り、言葉を失う。
 空色のパーカーが真っ赤だ。横たわっている畳に血が染みている。
 吐血でもしたのか、血だまりのようなものまである。
 殺人現場のような惨状にサアッと血の気が引いた。

「ちょ、生きてるか!?」

 ゆすろうとして手を止める。
 鳩尾と脇腹で天一の符が青い光を放っている。
 背中にも蒼がパーカーごしに光る。天一だろう。

(気絶してるだけ……か?)

 一呼吸して落ち着いて観察してみる。
 呼吸は規則正しいし、表情も穏やかだ。
 もう少し、このままにしておいたほうが良さそうだ。
 これ以上の治療も必要ない様子なので、一真は周りをゆっくりと見渡した。

「……何もかも吹っ飛んじまってる……」

 血まみれで倒れている望。
 巨大竜巻が何度も繰り返し通った後のような破壊され尽くした里。
 原型を留めていない屋敷の傍らで、庭の一角だけが竜巻の進路から外れたように無事だ。
 雄緋の姿はどこにもないし、妖気も感じない。
 この様子では、いくら妖獣でも無事ではないだろう。

「……あいつがやったのか……?」

 池に吹き飛ばされて、誰かに声をかけられたところまでは覚えている。
 ただ、その姿はぼんやりと霞んでいて、黒い服を着た水属性の少年だったということしか覚えていない。

「あれ……?あいつと何話したっけ……?」

 言葉を交わしたことは覚えている。
 だが、その内容は記憶から抜け落ちたように思い出せない。
 どうして、瓦礫の中に自分が突っ立っていたのかも……。

 身じろぐ気配がした。

「かずま……くん……?」
「先輩!大丈夫か!?つか、何があったんだ!?」

「え……?」

 驚いたように望はこちらを見上げ、身を起こそうとして顔をしかめた。
 どこか痛んだのだろう。

「まだ起きねェほうが……って、何してんだよ!?」
「触診です」
 そろそろと手が傷口らしいところに触れると、乾いていない血で指がべっとりと濡れる。
 手袋をしていなければ、もう少し凄惨な光景だっただろう。
「……それ、見てるほうが痛ェんスけど……」
 一真の苦情に構わず、望は最後に天一にペタペタと触れ、「ふむ……」と頷いた。
「傷は塞がってるみたいですね……」
「……ホントか?」
「ええ。ほら、血も止まっています」
 自力で起き上がり、血がべっとりついたパーカーに眉を顰めた。
 服の汚れを気にできるほど余裕があるようだ。深刻な状態ではないのだろう。
「……なんだか、景色が変わってませんか……?」
「そーいうレベルの話じゃねェけどな……」
 望はぼんやりとした表情で周りを眺めていたが、だんだんとその表情を強張らせた。
「里が壊滅してる……?」
「そう!スゲエことになってんだ!先輩がやったり……とかはねェよな……」
 驚いたように望は振り向いた。
「まさか。どちらかっていうと、一真君ですよ」
「はああ!?なんで、オレが!?」
 琥珀の瞳が顔を凝視した。
「……もしかして、また覚えてないの……?」
「う……」
 図星だった。
 池からついさっきまでの間が空白だ。
 いや、空白というよりも全てがうす雲の向こうにあるように霞んでいる。
 ガクッと肩を落とす。
「……また異常覚醒しちまったってことか……。オレ、そろそろヤバいかもな……」
「さっきのは異常覚醒っていうよりも……」
 何事か言いかけ、望は息を吐いた。
「霊格は安定しています。蝕の心配はなさそうですね」
「そ、そっか……」
 安堵した耳に、また何かが割れる音が届いた。
 望がサッと表情を変えた。
「急いで出口を探しましょう。鏡が砕けようとしています」



 瓦礫と化した里長の邸宅の中で、池と周りの桜だけが何事もなかったように残っていた。

「誰かがここにいたのは間違いないですね……」
 池のほとりであたりを見渡し、望は呟いた。
「ここだけが無事なのも、その人の霊気が守ったからでしょう……」
 池の向こうにあったはずの塀も吹き飛んでいる。
 誰かがこの場所に防幕でも張っていなかった限り、桜の木が花も散らさずに残っていることはありえないだろう。
「やっぱ……、戒かな……?」
 池で誰かに会った話をするなり、望はその場所を見たいと言った。
 やはりというか、誰もいないが――。
「たぶん……。この霊域を造ったのが戒さんなら、思念体となってここに留まっていたとしても不思議はありません……」
 ガラスがひび割れるような不気味な音は聴こえるたびに大きくなっていく。
 それは、鏡――出入り口が砕ける時が近いことを示している。

「早く、出入り口を見つけなくちゃ……」

 望は小さく咳き込んだ。
 傷が塞がったといっても、妖気を込められた太刀が鳩尾を貫通したのだ。
 当面は安静にしていなければいけないはずだ。

「ちょっと周り視てくるからさ。先輩はこの辺り探しててくれよ」

 亀裂の音からしてこのあたりにあるはずだ。
 それでも見つからなければ――。

(最悪、紡の家の傍まで戻るしかねェな……)

 迷い込んで最初に辿り着いたのが、あの桜並木だ。
 この場になければ、あの付近にある可能性が高い。
 それまで間に合うかどうか――。

「一真君!!」

 振り返ると、望は池の一点を指した。

「あれを!」

 池の水面に蒼い光が灯り、広がっていく。
 まるで、水面に映る月のように揺れるそれから水の霊気が立ち上った。
 正殿で、この霊域で、幾度となく現れた霊気だった。

「戒さんのものと似ていますね……」
「それじゃ……」
「きっと、あれが出入り口ですよ」
 望は光に筋のように走る模様を指した。
「蒼い光に亀裂みたいな模様があります。僕達が鏡を突いた時、あんな感じにヒビが入っていませんでしたか?」
「そーいえば、あんな感じだっけか……」

 光の中の不自然な模様は、鏡に走った亀裂と似ている。
 ただし、記憶よりも亀裂は大きくなっているし、細かな亀裂が増えている。

「戒さんは水の霊気の持ち主……、霊域の出入り口みたいに大事なものを作るなら、自分と同じ属性のものを基盤にするはずです……」
「そっか……。だから、ここに……」

 池の周りの桜が無事ということも、池に強い霊力が込められているからだとすれば納得がいく。
 あの蒼い光が出入り口である可能性は限りなく高い。

 しかし――。

 青白い横顔を窺う。
 傷口が塞がったといっても、かなりの血を失っている。
 戦いで消耗した霊力は大きかったはず。ほとんど残っていない霊力も自らの治癒の為に消費され続けているのだ。
 こうして立ち上がり、話をしているだけでも辛いはずだ。
 そんな体で霊域との境目を超えられるのか?
 下手をすれば玉響を漂流することになるかもしれない。
 せめて、もう少し時間があれば……。

「僕のことなら、気にしないでください」

 一真の視線に気づき、望は笑った。
 天一の符を取り出して自分で補強を始める。

「ここに取り残されるより、玉響を漂流するほうが、よっぽどマシだもの」

 ビキッと大きな音がした。
 蒼が大きく揺れる。光の中の模様が大きく裂け、水面が大きく波打った。

「時間がありません。行きましょう……!」

 一真は霊符を取り出した。

「防幕はオレが」
「お願いします」

 周りに幾重にも防幕を張り巡らせ、蒼い光へと飛び込む。
 これで、玉響の中に放り出されても散り散りになることはないはずだ。
 蒼い光が伸び、景色が変わり始めた。
 バキリと硬いものが砕ける音がすぐ近くで聞こえた。

(あ……)


 振り向いた先で石の鏡が砕け、玉響の中を流れて行った。