夜桜舞う里

34話 



 暗灰の靄に血の匂いが混じる。
 太刀を握り締めた手からボタボタと血が滴り落ちた。

「……いい加減にしとけよ……、おっさん……」

 投げ捨てるように刃を離し、少し高い位置にある顔を睨み付けた。
「貴殿……?」
 赤い眼が驚愕に見開かれた。
 慌てたように間合いを取る顔は幽霊でも視ているかのようだ。
「一真君……?」
 呆けたように呟き、望は咳き込んだ。
 咳くたびに鉄の臭いが増す。

(間に合ったか……)

 とても無事と言える状態ではないが。
 背中越しでも、かなり妖気に浸蝕されているのがわかる。
 霊力も消耗しているし、霊気も不安定だ。
 妖気が肉体を通り越して霊体にまで達しているのだろう。

「下がっててくれ……」

「なに言ってるんです……!妖気が込められた太刀を素手で掴むなんて……!指はちゃんと……っ」
「ついてるぜ」
 碧に光る手の平を開いて見せる。息を呑む気配がした。
「どうして……」
 ばっさりと切れていたはずの手の傷はもう跡形もない。
 振り向くと、紅い瞳が揺れた。
「その目……」

 ――脇腹と鳩尾に一太刀ずつ……。鳩尾は貫通してるな……

 霊力はまだ枯渇していない。
 もっとも、それは望だからであって、通常の鎮守役ならば妖気で斬られた時点で息絶えているだろうが――。

「……聞きたいこととか、あると思うんだけどよ……」

 傍にしゃがむと、望はジッと顔を見つめた。
 理由はわかっている。
 一真の眼が碧に光っているのだろう。望のものよりも雄緋のものに近い光の強さは、さぞや異様に見えていることだろう。

「悪い。ちょっと寝ててくれ」
「え……?」

 軽く肩を小突くとガクリと体から力が抜け、瞼が下りた。
 霊力を瞬時に流し込み意識を封鎖する――、自分より遙かに格下の相手を無傷で眠らせるのによく使う手だ。
 相手がこちらに警戒心を抱いていない場合は、望のように霊格が高くてもあっさりとかかってしまう。

(信用してくれてんだな……)

 少しの罪悪感が襲う。
 自分も、根本的なところは雄緋と同じかもしれないのに……。

“十二天が一、六合”

 紙の符が透けて碧の光の符に変わり、取り出した別の霊符に重なった。

“十二天が一、天一”

 傷口に貼りついた三枚の霊符が同時に光を放つ。
 望の霊力ならば、霊符の力を借りればすぐに癒えるだろう。
 眠っていれば、体は傷を癒やそうと勝手に霊力を治癒に当てる。
 重傷を負っている時は意識が覚醒しているよりも効率よく霊力が治療に回るのだ。

 体内に六合の光が入り込んだのを確認し、立ち上がる。

「んじゃ、始めるとするか……」

 望の周りに防幕を張り、抑えていた霊力を解放する。

(ここからは……、隠人が目にしちゃいけねェ領域だからな……)

 右手が熱を帯び、碧の光が炎のように燃え立つ。
 立ち込めていた暗灰が吹き込む碧の風に喰われるように殺がれていく。

 ――懐かしい感覚だ……

 この力を解放するのは千年ぶりだ。

「なんと雄々しくも強大な風か……!」
 雄緋は太刀を構えた。
「この恐ろしいまでの碧風……、覚えがある……。我が元を訪ねてきたことがおありであろう?」
「さあ、どうだったっけな……」
 一真もまたへし折れた木刀を構えた。
「……邪魔をなさるな……。私はただ、主の行方を捜しているだけだ……」
「そりゃ奇遇だな……」
 笑みを浮かべる。
「オレも探してんだ。たぶん、アンタと同じ人をな……」
「ならば、我らは同志ではないか!何故、邪魔をなさるのだ!?その少年の魂を使えば、あの方の行方を探せるやもしれぬのだぞ!?」
「そのために、テメエの主君の身内かもしれねェヤツを潰すってか?血迷ってんじゃねェよ」
 雄緋は不服そうに頬を歪めた。
「……貴殿とて、そう思ったからこそ、あの少年の傍にいたのでろう?わざわざ記憶を封じ、ただの隠人のふりをし……、人の世から切り離す機会を窺っておられたのではないのか?」
 一真は鼻を鳴らした。
「一緒にすんじゃねェよ。言っておくが、オレが知る限り、あの人はそういうやり方を一番嫌う。主君だの忠義だの口走るわりに、何もわかってねェんだな……」

 自分が探している人物は……、とてつもなく強いが、無邪気で優しかった。
 そんな人だったから、仲間達からも信頼されていた。
 だが――、それが仇になったのかもしれない……。

「知っているとも……」
 妖獣は自嘲気味に笑った。
「だが、もはやこうする他に手がないのだ……!我々がこの地で安穏としている間にも、お館様は……!」
 妖獣の眼から刹那、赤が消えた。
「かの戦場で……戦っておられるのだ……!」

 ――そうか、この忠臣は……

 少しの憐れみが過る。

 ――何も知らないのか……

 自分の主君が、まだ、あの戦場にいると信じているのだ。

(……知らねェままのほうがいいな……)

 ここまで魂に穢れを取り込んでしまったのでは、「真実」には耐えられまい……。

「仮にそうだとしても、自分とこの霊筋の奴を何人も犠牲にして駆けつけたところで、褒めてもらえねェぜ?怒り狂うのが関の山ってとこだ」
「構わぬ……!」
 眼が赤く燃えた。
「例え、お館様の逆鱗に触れ、首を刎ねられようとも……!」
 獣のように猛然と地を蹴り、雄緋は太刀を振りかぶった。
「あのお方の元へ、はせ参じることこそが大事……!」
「そーいうのを自己満足っていうんだよ!」
 一真も床を蹴った。
 ビキビキと左手で木が軋む音が上がる。
 碧が伸びた。

 ガキィイッ

 再生を遂げた木刀と太刀が正面からぶつかりあった。
 鬩ぎ合う妖気と霊気で屋敷が跡形もなく吹き飛ぶ。
 後には一真と雄緋、横たわる望が残るのみ。

 ピシリと背後から小さな音が聴こえた。

(時間か……)

 鏡に限界が訪れようとしている。
 元より、長引かせるつもりはない。

“宿りし木霊よ……!刃となれ……!”

 木刀が碧の刀へと変貌する。
 太刀に碧の亀裂が走った。

「この御力……!やはり、貴殿は……!」
 太刀が砕け、雄緋が大きく跳び退いた。
「碧風を従えた強力な木属性を持つ狼となれば……、かの風狼斎殿しかおらぬ……!この地に流れ着いた霊狼達の頂に立つとまで称されるお方が……!何故、非力な隠人に身をやつし、人の世などに潜んでおられるのだ……!?貴殿のご命令とあらば、我が里さえも従わざるをえぬというのに……!」
「……だからだよ……。テメーの眼で視なきゃ、わからねェこともあるんでな……」

 静かに右手を突き出した。
 霊域を吹く風が碧に染まる。
 暗灰の世界が碧に塗り替えられた。

「逆上せすぎだ、刃守の里長殿。目覚めが早すぎたとみえる。今一度、眠りにつかれよ」
「風狼斎殿のご裁断となれば、聞かぬわけにいかぬな……。だが……」
 血が伝う手を押さえ、妖獣は笑みを浮かべた。
 それは狂気を孕んだものではなく、純粋な強い意志が宿るものだった。
「私は諦めぬ……!」
 一真も笑んだ。
「その心意気は買うぜ。次はあの人が喜ぶようなやり方を探しな……!」

“風よ……”

 風が、いや、霊域全てが応えた。
 碧風が吹き渡るこの霊域は、既に一真の領域だ。
 この霊域の全てが視え、全てが理解できる――。

“撃て……!風撃!!”


 ドグオオオオオッ


 碧が空気を振動させ、颶風が髪を揺らす。
 台風を凝縮したような風の砲弾が妖獣を呑み込む。
 社が、家々が、里を構成する全てが碧の風に呑まれ粉々に砕けていく。

 ンンン――――、

 碧の風が収まった後には、瓦解した里が残った。
 現に留まる者には見られてはいけない――、霊獣を超えた者の力だった。





 凄まじい霊気が感覚を揺さぶった。

(……あれ……?どうして、僕……)

 寝てるんだろ……?

 頬の下のチクチクする感触にぼんやりと瞼を開ける。
 荒れ放題の畳が碧のドームで遮られている。
 ドームの向こうに目を凝らしても、屋敷はなく、あんなに濃かった暗灰もない。
 代わりに、空も地も、全てを碧が支配していた。
(一真君……?)
 碧の光を全身から立ち上らせる後ろ姿が見える。
 碧に光る風が周囲で羽のように渦巻く姿は巨大な翼をもつ風神のようだ。
(あの姿……)

 ――どこかで見た気がする……。

(いつ見たんだっけ……?)

 思い出そうとしても、倦怠感と睡魔で頭がまともに働いていない。

 ――あたたかい、なあ……

 体を巡る霊気に望は瞼を下ろした。





「……七割ってとこか……」
 むき出しの地面に佇み、一真は自らの紋を見つめた。
 戒はああ言いながら、体への負担が最小限で済むように封印を調整したのだろう。
 七割程度の出力で雄緋を蹴散らせると踏んで――

(とりあえず、鎮まったか……)

 妖気は沈黙している。
 加減したので生きているだろうが当面は動けないだろう。
 自らの霊力を宥めながら息を整える。
 大天狗が施した封印が徐々に力と記憶を封じていく。
 もうすぐ、戦いの記憶も、力も、なにもかも記憶の海に沈む。
 残るのは現で生きてきた今生の記憶と、せいぜい並の宵闇程度の力――。

 それでいい……。

 現で生きるには、記憶は邪魔だ。桁を違えた力も。
 正体を隠して周りを欺き続けられるほど自分は器用ではない。
 だから――、いっそのこと、記憶も力もない一人の隠人として人の世へ降りては――?
 いや、人の世の前、生まれ出る前の輪廻の輪の中から霊気を探し出し、魂を追って現に降りればいいのではないか――?
 そう思い、長期の離脱を願い出たのが千年前だった。

(ったくよ、もう少しで何もかもぶち壊しになるとこだったぜ……)

 防幕を解除し、倒れている望の容態を視る。
 肉体の傷はほぼ癒えたようだ。霊気も安定している。
 命に関わるような危険な状態は過ぎたようだ。

(勘付いたまでは、さすがってとこだけどな……。妖獣化したら、なんだって、ああも短絡的になるんだか……)

 輪廻の輪の中で見つけた霊気の持ち主が、この城田望という少年だった。
 彼が探し求めていた太狼一門の嫡流の霊筋であることは間違いない。
 封印が綻び、本体の記憶が顔を出したのはそのためだ。
 ――いや、もしかしたら、それ以上の……。
 この少年だけではない。あの町も、町に住む人々も、何かと記憶に触れる。
 前に訪れた時は、ここまでの反応はなかったはず。
 それを引き起こしたのが、この少年の存在なのか、他の要因があるのか、そこまではわからないが――。

「しっかし、問題ありすぎだろ……」

 雄緋が千年ぶりに妖獣として目覚めたことも不可解だ。
 それに……、浅瀬橋で感じた、あの気配……。

(里帰りが早まるかもな……)

 今回で随分と負荷がかかってしまった。
 封印を施す時に転生後の器の補強も施したが、こんなに霊格を上下させていれば、さほど意味がない。
 この隠人の体は、あとどれだけ耐えられるのだろう――?
 あるいは、封印が完全に解けるのが先か……。
 一度、ここまで緩んでしまえば、本来の意志は軽々と表に出てしまう。
 切り離されていた「隠人としての自分」が本体と融合してしまった時、封印は解けるのだろう。
 どちらに転んでも、現にいられる時間はそう長くない……。

「ま、いっか……」

 ただの隠人として生きるのは、思っていたよりも悪くない。
 霊符にしろ、玉響にしろ、息をするように扱ったり触れたりしてきたモノが、あんなに新鮮に感じるなんて――、長らく忘れていた感覚ばかりで退屈しない。
 封印の眠りの中から眺める現は穢れてはいるが、楽しいものも多い。

 この狼の霊筋が住まう地で、もう暫く「斎木一真」という隠人として――。

 眼から碧が消え、霊紋が落ち着きを取り戻していく。
 風から色が消え、碧一色の霊域が色を取り戻していく――。
 この霊域の出入り口を探して、望を連れて脱出するくらいならば、封印下の自分でも問題ないだろう。
 息を整え、瞼を下ろした。

 ――眠るか……

 意識が魂の底へと沈んでいく。

 ピシッ

 ガラスにヒビが入るような音が静かな世界に響いた。

「……え……?あれ?……何があったんだ……?」

 風が通り過ぎた時、そこにいたのは武蔵国現衆西組の鎮守役見習い・斎木一真だった。