夜桜舞う里

33話 



「痛ぅ……」

 水面に浮かびながら水を掻き、浅いところまで移動する。
 ズキズキと痛む腕に力を入れ、なんとか上半身を起こす。
 髪からボタボタと水が滴り落ちた。
 ぼやけた視界に暗灰が立ち込める庭園が映る。

(庭の池か……?)

 どうやら、屋敷から池まで吹っ飛ばされたらしい。
 握り締めたままの木刀は三分の一ほどを残して吹き飛んでいる。

(……何が……起きた……?)

 至近距離から霊風を叩きつけてやろうとしたはずだ。
 風は応えていたし、集ってもいた。
 術の不発でないとなれば――。

(マジかよ……)

 一真が放とうとした風を力技で押し返したのだろう。

(これが妖獣の力……!)

 霊風を破られたのは初めてだ。
 剣技ではとてもではないが敵わない以上、風だけが頼みの綱だったのだが――。
 刃がぶつかり合う音に我に返る。
 高まる火の霊気に目を向けると、屋敷の中で刃を交える望と雄緋が視える。

「早く……加勢しねェと……!」

 少し離れてみるとよくわかる。
 剣の腕は互角でも、二人から放出される気の強さが違いすぎる。
 妖獣と隠人の霊格の差なのだろう。

「痛っっ」

 立ち上がろうとすると腕だけでなく胸と足にも激しい痛みが走った。
 天一を貼りつけた右手で青い光が灯っている。
 左手は腫れ上がり、胸にじわりと温いものが染みる。
 ジャケットとシャツの胸元がカッターナイフで切り裂いたようにビリビリに裂けている。
 返されたのは風撃だけではないだろう。

「ちくしょ……」
 霊符を使うのももどかしくて、霊気を痛む場所に集中させる。
 傷が塞がると、他の場所がズキズキと痛んだ。よほど強い衝撃だったらしい。
 立ち上がった脚がよろめいた。
「クソ……」
 霊気を込め、戦場を睨み付ける。

 ――行かねェと……

 踏み出そうとして池の底に膝をつく。
 肘まで裂けた袖口が水に浸かって重い。
 いつもならば、もう回復しているはずだが痛みが消えない。
 妖気にやられたからだろう。
 先ほどの弥生の傷と同じだ。

(早く……)

 睨み付けた十メートルほどの距離が遠く感じた。


「戊の穣か……」


 不意に横手から声がした。
 見上げると、一人の少年が枝垂れ桜にもたれかかるようにしてこちらを眺めていた。

「あちらの御仁も同じくらいか……。現に籍を置いている以上、この霊域でもそのくらいが限界かな……。だけど、雄緋殿は己の京だ。戊と己の差があるんじゃ厳しい……」

「アンタ……」

 青みがかった黒い髪に海のような不可思議な色の瞳。
 時代劇で牛若丸が着ているような衣装を纏っている。ただし、その色は黒だ。首元を隠すように巻かれた白い布が風に揺れた。

 ――知ってる……

 激しい既視感に襲われる。
 望と初めて会った時と同じだ。

「会ったことあるよな……?」
 少年は困ったように笑った。
「その問いには答えられないんだ……。叱られる……」

 池の水がざわめいた。
 少年の水の霊気に反応しているのだ。

「この霊気……」

 ここに来るまでも、来てからも。
 幾度となく感じた水の霊気だ。
 この気を持っているということは――。

「アンタが……戒か……?」
 少年は肯定とも否定とも取れないような曖昧な笑みを浮かべた。
「まさか、お前が巻き込まれてるなんて思わなかったよ。雄緋殿は本気だ。主君の手がかりとなれば、相手が赤ん坊でも容赦しないだろうな」
「んだよ、それ……!マジで狂ってるじゃねェか……」
「妖獣は、そういうものなんだ……。狙われたら最後、現の果てまで追ってくる……」
「げ……」
「それより、ここに長居しちゃいけない。亀裂がどんどん大きくなっているんだ。あと半刻ももたない。ずっと雄緋殿とここで暮らすの、嫌だろ?」
「あ、当たり前だ!つか、アンタ、戦うためにそこにいるんじゃねェのかよ!?突っ立ってないで何とかしてくれよ!」
「残念だけど、これは思念体なんだ。戦うことはできない……。その代わり、」

 水が蒼く光った。
 痛みが急速に消えていく。

「一人だけだったら、オレの力で外に出せるけど……」
「はあ!?何言ってんだよ!?仲間置いて逃げられるわけねェだろ!?」
 即答に少年は笑った。
「変わってなくて安心したよ。もし、自分だけ逃げるって言ったら殴ってるとこだった」
「……テメ、からかってんのか?」
 不機嫌に呟くと、親しげな笑みが返ってきた。
「心配しただけだよ。昔だったら、間違えてもオレに『何とかしてくれ』なんて言わなかったからさ。現暮らしで腑抜けてしまってるようなら、活を入れなくちゃいけないかなあって」
「……どーいう意味だよ?」
「そのままの意味だよ」
 少年は表情を改めた。
「本題に入ろう。今の霊格じゃ、雄緋殿には絶対に勝てない」
「断言すんなよ……。ちょっと、厳しいかなとは思ってるけどさ……」
 少年は屋敷で対峙する望を見つめた。
「あの御仁も強いけど、隠人の域で戦っている以上は無理だ」
 言葉が出てこなかった。
 自分達ではこの場を切り抜けられないだろうことを、うっすらと感じ始めていたのだから。
「だから……、オレの名において一時的にお前の封印を緩めようと思う……。それでいいか?」
「封印……?何の……?」
 そんなものをかけられた記憶はない。
 以前に宗則から聞いた言葉が過った。
 天狗の転生体でもないのに霊風を操れる自分達は……、化け物の依り代かもしれないのだ、と――。
「……オレの中に化け物が封印されてる……とか……?」
「化け物か……。ある意味、そうかもしれないな」
「え……?」
 ぎょっとすると、少年は可笑しそうに自身を指した。
「そういう意味じゃ、オレも化け物だよ。オレ達は化け物じみた力を持っているって仲間内からも怖がられてるんだからさ……」
 寂しいことを言っているが、その瞳は明るく孤独の影は全くない。

(ああ、こいつは……)

 ――いろんなものを超えてきたんだな……

 自分と同じ年くらいの少年が大きく見えた。

「そういう封印じゃないよ。お前が自分で望んだんだ……。千年前に……」
「オレが……?」

 ドクリ、と鼓動が跳ねた。
 記憶の底に沈んでいた何かが色を帯びた気がした。

「なんで、そんなことを……?」
「……オレからは言えないよ……。そういう約束だったからな……」

 「誰と?」と聞こうとしてやめる。
 千年前の一真がそういう約束をしたのだろう。

「封印を緩めれば、一時的に本来の力を出すことができる。雄緋殿と互角以上に戦えるけど……」
「ホントか!?それ、頼むぜ!!」
「その前に……」
 澄んだ瞳が真剣な色を帯びた。
「封印はもう綻び始めている。一気に解けないのは、本来の記憶と力が急激に戻れば、肉体にも霊体にも強い負荷がかかるからなんだ。緩めるのは一時的だけど、肉体が浸食されるかもしれない。蝕を迎えたら、現にはいられなくなるけれど……」
「構わねェよ!死んじまったら、そんなもん関係ねェじゃねーか!」
「もう一つ」
 少し迷い、彼は口を開いた。
「オレが介入すれば、封印が急激に解け始めて本体の眠りが浅くなるんだ。完全に本体が目覚めた時が、現と別れを告げる時になる……。肉体が無事だとしても、お前自身が耐えられないだろうからな……」
「え……?」
 その言葉が心の奥に突き刺さった。





 薄暗い霧の中で紅と暗灰の火花が散った。
 間合いをとり、望は呻いた。

(強い……!)

 剣の腕は負けているつもりはないが、霊格の差が大きすぎる。
 各上の相手と対する場合、防御に回す霊力も通常の倍以上が必要だ。
 まして、相手から放たれるのは妖気。
 近づくだけで霊気を浸食される。
 刃を交える度に攻撃だけでなく、自身の防御も行わなければならない。
 霊力が急激に消費されていく――。
 嫌な考えを振り払い、刀に霊力を込める。

(一真君は……)

 返された霊風に剣圧が加算されていた。見えた限りでは直撃だった。
 致命傷までいかなかったとしても、相当なダメージを負ったはず。この場にまだ戻ってこないのが、その証拠だ。

(一真君の霊気が返されたから、妖気はまだ少なかったはずだけど……)

 それでも、霊気での治癒には時間がかかる。
 安否が気になるが、確認するほどの余裕はない。

「さすが、ご一門の流れを汲む者よ……。その程度の霊格で、ここまで戦われるとは……」

 赤い眼が靄の向こうで光った。

 ――来る……!

 瞬く間に迫る紺の影から太刀が振り下ろされる。

 ガッ

 受け止めた刀身から紅い火花が飛び散った。

「くっ……」

 ――重い……!

 刀だけではない。全身が重い。
 体を守る霊力が弱まっている――。

「案じられるな。その魂、お館様の為に役立ててみせよう……」
 狂喜が宿る赤い眼が見下ろした。
「ご一門の者として、これ以上の幸福はあるまい……!」
 太刀が暗灰を濃くした。靄の中で見失った刹那、脇腹に痛みが走った。
「かわしたか……」
 背筋に悪寒が走った。

 ――いけない……!

 直感で体を捻る。

 ドッ

 鳩尾に重い衝撃が走った。

「ぐ……」
 雄緋の手から伸びた太刀が貫いていた。
 胸だけでなく。背中にも生温いものが染みていく。

(マズイ……!)

 妖気を太刀に込められたら終わりだ。肉体が死滅してしまう。

「こ、の……!」

 渾身の力を振り絞り、自らも刀を突き出す。
 刀身が紅く燃えた。

“撃て……!焔弾!!”

 吐き出された燃え盛る炎の弾丸を妖獣の顔面に襲いかかる。

「なにっ!?」

 炎を振り切るように雄緋が太刀と共に下がる。
 しかし、望も無事ではなかった。

「ぐ……、げほっ」

 喉の奥からこみ上げてくる鉄の臭いの塊を吐き出す。
 荒れた畳に赤がべしゃりと広がった。
 脚から力が抜けていく。

(立たなくちゃ……)

 あの程度で雄緋が倒れるはずがない。
 早く次の攻撃に備えなければ――。
 靄の中で紺の狩衣が動いた。すぐ目の前で――。

「お覚悟……」

 刀に霊気を込め、太刀の軌跡を目で追う。
 口の中でまた血の味が広がった。

 ――ああ、間に合わないな……

 迷いなく振り下ろされる太刀に、そんなことをぼんやりと思った。

 鮮血が畳に散った。