夜桜舞う里

30話 血染めの忠義



 風に澱んだ気が混じった。

 鏡のように枝垂れ桜を映す池の水面が波立つ。
 使用人が出してくれた茶を啜りながら様子を窺っていた一真と望は湯呑を置き、同時に立ち上がった。

「先輩!」
「いよいよ仕掛けて来たみたいですね」

 屋敷から妖気が溢れた。
 暗灰の巨大な塊が積乱雲のように立ち上り、四方に広がっていく。
 美しい夜の庭園が暗灰に呑まれ、墓場のような陰気さだ。

「逃げろ!」

 使用人達が口々に叫びながら飛び出してくる。
 妖気が屋敷の外に流れ出たのだろう。
 塀の外で悲鳴と怒号が飛び交っている。

 刀を手に頷き合う。

「通してください!」
「悪い!ちょっと道空けてくれ!」

 逃げてくる人々をかき分けるようにして、逆の方向――、屋敷へと駆け出す。

「さっきも言ったけれど、倒すのが目的じゃありません」
「ここから脱出するのが最優先、だろ?わかってるって」

 靴も脱がずに屋敷へ踏み込んだ。

(うわ……)

 まるで火事現場のように奥からもうもうと灰色の塊が押し寄せてくる。
 玉響の時と同様、雨雲の中に飛び込んだように視界は最悪だ。

「どっち行きゃいいんだよ!?」
「とりあえず、妖気が流れてきている方を目指しましょう。どこから襲ってくるかわかりません。油断しないで……」

 足音に同時に身構える。

「た、助け……!」

 灰色の中から飛び出してきた使用人の少女が、柱にもたれて咳き込んだ。

 ビュッ

 赤い光が一閃し、灰色の靄を焼いた。

“十二天が一、勾陣!”

 望が放った霊符が廊下と部屋の間に黄色い壁を造りだす。
 塊の妖気が壁に遮られ、僅かに灰色が薄くなる。

「一真君!」
「おう!」

“風よ!我が意に従え!!”

 呼びかけに応じて碧の風が部屋の中を吹き渡った。
 暗灰の雲が薄まり、部屋に敷かれた畳が雲間に透ける。

「なっ」

 同時に顔を強張らせた。
 部屋の中に人影が見える。
 動いている者はなく、皆、倒れ伏している。

「一真君は、その人を診ててください」

 望が倒れている人影へと走る。屈みこんで何事か呼びかけているようだが、返事が返っている気配はない。

「大丈夫か!?」
 霊気を込めた手で背中をさすってやると、少女は咳きながら顔を上げた。
「あなた達は……、弥生様のお客人……」
「アンタ……」
 知っている顔だ。さっき、茶を運んできてくれた。
「もう一人の方は……?」
「先輩なら……」

「僕は大丈夫です。でも、そこで倒れている人達は……」
 望が沈痛な顔をした。それが意味していることを察し、少女は涙ぐんだ。
「何があったんです?」
 少女は顔を歪め、言いづらそうに告げた。

「里長様が……ご乱心です……!」

「は?なんで……?」
「里長様が……?」

 意外な「犯人」に思考が一瞬停止する。

(どういうことだ……?)

 この妖気は妖獣が発しているはずだ。
 それなのに、何故、この刃守の里を統べる里長の名が出てくるのだろう……?

(まさか……里長が妖獣……?)

 この少女の言葉が真実ならば、そういうことになる。
 それとも、妖獣がとり憑いてでもいるのだろうか――?
 いや、もっと重要なことが――。

「二人とも里長に会いに行ってるんだよな……?」
「……ええ……」

 望の表情も硬い。
 彼もまた最悪の事態を想像しているのだろう。

「早く……、逃げてください……!」

 覚えのある声が壁の向こうから聞こえた。
 着物を引きずるような音と血の匂いが漂う。

「紡さん!?」
「無事だったんだな!」

 望が勾陣を解除し、道を開ける。

「お二人も……ご無事、で……」

 部屋に雪崩れ込んできた暗灰の塊の中から袴姿の青年が姿を現した。
 青白い顔で息を切らせている青年の顔は血に汚れている。

「どうしたんだよ、その血!?」
「私では……ありません……」

 天一の霊符を取り出して駆け寄り、一真は息を呑んだ。
 部屋の中に拡散して妖気が薄まるにつれ、紡の両腕がかかえている人物が露わになる。

「弥生……?」

 ぐったりとした少女は蒼白の顔で自らの着物を鮮血に染めていた。
 止まらない赤が紡の長着と袴を染め、畳に染みを作る。

「弥生様!?」
 腰を抜かさんばかりに驚いている少女に紡は毅然と告げた。
「社に行き、宮司様にこのことを伝えてください。皆を里から逃がし、急ぎ、清山様に使いを。戻ってはなりませんと……!」
「は、はいっ」
 少女は目を擦りながら屋敷を飛び出していった。
「貴方達も……」
 「逃げろ」と言いかけたのだろう口から咳が飛び出した。
 力尽きたように紡はその場に膝をついた。
 望が部屋と廊下の間に新たな防壁を造りだす。
「診せてくれ!血ィ止めねェと……!」
 符に霊力を込めて戸惑う。
 重傷とはいえ、服を脱がせていいものか……。
 紡の背後で妖気を散らしていた望が察して声をかけた。
「服の上からでも応急処置程度の力はあります!急いで!」
「お、おう!」
 血で濡れた背中に霊符を貼ろうとして一真は一瞬、顔を強張らせた。

(これ……、ヤバいんじゃ……?)

 逃げようとしたところを斬られたのだろう。
 肩から腰にかけて、バッサリとやられている。
 いくら霊獣でも、致命傷になりうるような重傷だろうことは簡単に想像がつく。

 青白い光が傷を包むが、血は止まらない。
 もう一枚、二枚と天一を増やしていくが、効果が視えない。

「先輩!天一があんま効いてねェ!」
「代わってください」

 望が自らも符を取り出し、一真の霊符に補強していく。
 少しずつ血は止まっていくが、蒼白の顔に精気が戻ることはなかった。

「しっかり!傷口に霊力を集中させてください!」

「どう……して……?にい……さま……」

 掠れた声が色を失くした唇から洩れた。
 虚ろな瞳は天井を眺めたままだ。何の反応も返さない。

「里長様に斬られたことで、取り乱され、てッ……」

 紡がまた咳き込んだ。唇の端から血が伝う。
 妖気が恐ろしいとされるのは、霊力を浸食し、肉体だけでなく霊体をも消耗させるからだ。この妖気の塊の中、弥生を抱えて逃げてきた紡の消耗は、それは大きいものだろう。
 直接斬りつけられた弥生に霊符が効きづらいのも、恐らく妖気の影響だ。

「彼女を連れて里の外へ!僕が食い止めます」
 望はこちらを見た。
「一真君は紡殿と一緒に行ってください。安全なところまで退いて、弥生様の治療をお願いします」
「何言ってんだよ!?オレも戦うって!」
「この混乱じゃ、妖気から逃げても、まともな手当てを受けられるかわかりません。妖気のダメージがない人がついていないと……」
「だったら、オレが足止めするぜ!治術とかはアンタのほうが慣れてんだからさ」
 咳き込みながら、紡が立ち上がった。
「お二人とも、何を言っておられるのです!?早く逃げ……」

「その必要はない……」

 静かな男の声がした。
 背後で防壁が砕け、視界が暗灰に染まる。

 ――来たか……!

 紡達を庇うように左右に並んで立つ。


 妖気の中にうっすらと影が浮かんだ。