夜桜舞う里

23話



 玉響の中を瞬いてはどこかへと過っていく五色の光は、夜空を滑っていく流れ星のようだ。
 静かな夜の世界に浮かんで波が過ぎていく波動を聴いていると、一体化してしまいそうな気分になってくる。

 ピタリと波が止んだ。

 波が方向を変える時に、一瞬だけ訪れる凪だ。
 ガクンと後ろから小さな衝撃が伝わり、鏡の方向――、前へと流され始める。
 鏡もまた波に押し流され、距離は縮まることがない。
 頷き合い、同時に構える。

“風よ……!”

 赤と碧の風が渦巻いた。
 玉響の中で現の制限から解き放たれた霊風がオーロラのように鮮やかな光を放つ。
 二人の後ろで――。

 ごうっ

 波に風の勢いが上乗せされ、防幕ごと加速する。
 鏡がぐんぐんと近づいてくる。

「いきます」
「おう」

 打ち合わせ通り、一真は幕と壁に霊気を込めた。
 安定した防幕の中で望が畳を蹴った。

「よく視ててください」

 霊符を手に、幕から飛び出した赤い光に縁どられた影が何もない闇を軽く蹴る。

 トッ

 闇が微かに波紋のように揺らぎ、水面を蹴るような音がした。
 望の姿が幕から飛ぶように遠ざかっていく。

(一蹴りで、あんなに……)

 非現実な動きを一真は必死に目で追った。
 水面を蹴っている時と異なっているのは、そこに「地」に属するものがないことだ。
 いや、現に存在する重力も、物質も。その概念がこの場にはないのかもしれない。
 まるで風に乗っているように軽やかに駆け、瞬く間に望は鏡をも飛び越えて振り向いた。

“十二天が一、勾陣!”

 玉響の中で黄色い光が瞬いた。
 鏡の背後に防壁が生み出される。
 バチリと音がして鏡が黄色い壁にぶつかって動きを緩めた。

「一真君!」

 壁と幕を解除し、一真は畳を蹴った。
 僅かに残っていた正殿の残骸が粉々になって玉響の中に四散していく。
 望がやっていたように全身に霊気を漲らせ、闇を蹴る。

(軽い……!)

 覚醒した時よりも遙かに体が軽い。体重がなくなってしまったように、一度蹴るごとに背後の波と風を受けて加速していく。現よりも動きやすいかもしれない。
 勾陣の壁に引っかかった鏡が目前に迫った。

 ――玉響の波が背後から流れるのに乗じて鏡を破壊しましょう……。

 望はそう提案した。
 妖獣がまだ鏡から出てきていないのならば、伝令役の指示通り、鏡を破壊しようと。
 この玉響の中で破壊すれば回収は困難になってしまうが、妖獣を解き放ってしまうよりはずっといいいはずだと――。

 師匠の作戦に反対する理由などなかった。
 とはいえ、一真は玉響の中での動き方などわからない。
 自然、玉響にいくらか慣れている望が先回りして鏡を止め、一真が破壊することになった。

 木刀を構え、鏡に狙いを定める。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ」

 碧を帯びた刃が石の鏡の真ん中を目掛けて突き出す。
 吐き出された灰色の妖気に刃が突き刺さる。

「くっ、この……!」

 磁石が反発するような抵抗が切っ先を押し返してくる。
 力を入れて押しても、霊力を込めても、木刀は妖気に突き刺さったままビクともしない。
 追い風のように背後から流れていた波が緩やかになっていく。

(ヤバい……!)

 ここで流れが変わってしまえば――。

 パキッ

 乾いた音と共に抵抗が消えた。
 背後の黄色い壁から伸びた赤い光の刃が真っ直ぐに鏡の中心を貫いていた。

「先輩!」
「……もう一度!そっちからも突いてください……!」

 崩れていく勾陣の向こうで望が叫ぶ。
 刀は鏡に突き刺さってはいるが、まだ破壊には至っていない。
 一度刃を引き、霊気を込め直す。

 ――今度こそ……!

 木刀が碧に光った。

「割れ……やがれっっっ!」

 突き出した碧の刃が鏡を貫く。
 ビキリと鏡に大きな亀裂が入った。
 四方に走る亀裂から妖気が噴出する。

「なっ!?」
「え!?」

 僅かに残っていた勾陣の光も、望の姿もたちまちのうちに暗灰に呑まれていく。
 再び、視界が暗灰一色に染まった。

「一真君!大丈夫ですか!?」
「ああ!妖気で視えなくなっただけだ!」

 互いにダメージを受けた様子がないことにひとまず安堵するが、かなりマズイ状態だ。
 防壁も防幕も、妖気を遮るものは何もない。
 妖気は体と霊体を消耗させる。このままでは――。

「どうする!?風で飛ばすか!?」
「待ってください。様子が……」

 妖気の一点が色を濃くした。
 暗灰が丸く固まり、ぎょろりと動いた。
 目玉のように思えたそれは、すぐに何事もなかったかのように溶けていった。

(なんだ……?)

 どこかから見られているような気配を感じる。
 人の気配ではない。茂みから獲物を品定めするような獣の――。

‘……なんと……、懐かしい匂いがするものよ……’

 一真は周囲に視線を走らせた。
 周りは黒を増した雲が広がるばかり。誰もいない。

‘この匂い……忘れもせぬ……。千年の時を経て巡り会えようとは……。まさに、あのお方のお導きよ……’

 くぐもった男の声は妖気を伝って流れてくるが、どこから発されているのかわからない。
 真後ろのような気もするし、すぐ横にいるような気もする。
 冷たいものが背筋を走った。

(体が……?)

 重い。
 金縛りにでもあっているように動かせない。
 引っ込めようとした木刀は吸いついてしまったようにビクともしない。
 切っ先がどうなっているのか確認したいが、自分の手元さえ灰色の中に沈んでしまって視えない。

(先輩は……)

 望が発する火の赤は妖気に完全に隠れてしまっている。
 たった二メートルほどしか離れていないのに霊気を感じない。

(やられちまったりしてねェよな……?)

 不自然に途切れた言葉が気にかかる。
 呼びかけようとして、声が出ないことに気づく。

‘しかし、解せぬ……。匂いは相違ないというのに、これほどまでに幼く脆弱とは……。そなたら、いったい何者だ……?’

 ――んなこと知るか。

 言い返してやりたいが、声が出ないので仕方がない。

(ったくよ、妖獣にまで人違いされるって……勘弁してくれよ)

 霊染め桜の霊獣といい、自分達は、よほど誰かに似ているのだろうか。
 それとも、霊筋の先祖にこの件の関係者がいたとか。
 どちらにせよ、人違いに巻き込まれつつあるのは間違いない。

(あ〜〜、くそ、早く波の方向変われって……)

 もうすぐ向きが変わるはずだ。
 妖気が流されてしまえば、この金縛りも解けるかもしれない。
 波の方角を割りだそうと妖気の流れに意識を集中する。

(ん……?)

 妖気は入道雲のようにその場に重く留まっている。
 先ほどまで視えない流れが圧していた背中がやけに軽い。

(……おかしくねェか……?)

 波から生じる圧力がどこからもかかっていない。
 いや、それよりも妖気は前後左右どちらにも流れていないではないか。

(……凪ってことは……ないよな……)

 凪は数秒にも満たないはず。こんなに長い時間、妖気が塊のまま留まることなどあるのだろうか。
 暗灰が昏く光った。大きく揺れる光は、獣が笑っているようにも見えた。

(なんかヤバい……!)

 頭の中で警鐘が鳴った。
 明らかに悪いことが起きようとしている。

 ッ

 暗灰の雲が赤く染まった。
 一瞬、体が軽くなる。

‘ほう?’

 感嘆したような声が笑い声に変わった。
 体が再び重くなる。

‘やるではないか……。よかろう……’

 妖気の雲に群青の口が開いた。
 ぐんぐんと膨張し、足元も頭上も全てが群青に変わる。
 ハラハラと眼前を白いものが舞った。

「ぐぁっ!?」

 白い閃光が闇に慣れた目に突き刺さった。

 ――桜……

 意識が呑み込まれる寸前、網膜に焼きつくように一片の桜の花が舞った。