夜桜舞う里

21話



 視界を覆っていた暗灰の雲が左手に押し流されていく。
 徐々に「玉響」が姿を現した。

(夜空みてーだな……)

 妖気の晴れ間から闇夜のような黒が覗き広がっていく様は、夜空を厚い雲が風に押し流されていくようにも見える。
 ただし、こちらは前後左右どころか、足元も一面の闇。闇の中をオレンジの幕の中に入って漂っている。
 足元に畳の残骸が残っているから「立っている」が、何も術を施さずに放り出されたら天地の別もわからないだろう。
 行ったことはないが、宇宙空間というのはこんな感じなのかもしれない。

「気をつけてください」

 望が刀を抜いた。
「あの向こうで何が起きているかわかりません……。即、戦いになるかも……」
「へっ。上等じゃねェか」
 木刀を手に、一真も妖気の切れ目に目を凝らす。
「ここまで来たら、妖獣でも何でもきやがれってな」
 声が勝手に弾んだ。
 とんでもない化け物がそこにいることはわかっている。
 勝ち目がないほどの強敵だということも。下手をすれば死ぬということも。
 だが、それにもまして全力をぶつけられる相手がそこにいることへの高揚感が高まっていく。
「一真君って、本当に狼の霊筋が強いよね……」
 やや呆れたような口調の師匠に唇を尖らせる。
「先輩だって、なんのかんの言って、さっきから楽しそうだぜ?玉響に来ちまったあたりから、吹っ切れた感じするし」
 望は少し黙り、クスリと笑った。
「バレた?」
「そんなに霊気が昂ってりゃわかるって……」
「僕も狼の霊筋ですから」
 赤い瞳が楽しげに笑んだ。
「こうなっちゃったら、戦うしかないもの。今日はちゃんと寝てたから霊力も余裕があるし、怪我もしてないし。ここだったら現に影響ないから周りを気にしなくてもいいし、助けないといけない人もいないから気楽だし……。なかなか、こんな風に遠慮なく戦うようなことってないんですよ」
「……ストレス溜まってんだな……」

 気持ちはわかる。

 邪霊では全力で戦うには相手不足だし、現では常に人の目や包囲網の強度を注意しながらの戦いだ。
 鏡面の時のように邪が人にとり憑いている場合に至っては、人質を取られているようなもので迂闊に斬りかかれないことも多いらしい。とり憑かれている人の安全を最優先にしなければならないので、術を使うにしても細心の注意が必要だという。

「妖獣っていうくらいだから、閃紅牙で斬りかかっても問題ないもの。一度、周りのことも相手のことも気にしないで思い切りやってみたかったんですよね」

 望は小さな子供のようにわくわくとしている。こんなに楽しそうにしているのを見るのは初めてだ。
 邪気を感じれば寝食を忘れて飛んで行ってしまうのもわかる気がする。

(狼の霊筋の奴は好戦的だっていうけどさ……)

 敵味方問わず、狼の霊筋が強いと言われてきたが、こうしてみると望もかなり狼が強い。中性的な外見と温厚な性格のおかげで見た目は狼らしくないが、本当は一真よりもよっぽど強いのではなかろうか。

「……オレのこと言えねェじゃん……」
「あはは、そうですね。でも、妖獣相手に半端な攻撃は効きません。一真君も思いきりやっちゃってください。それでも効くかどうかわからないんだから」

 ふと、望は笑いを収めた。

「晴れてきましたよ」

 巨大な積乱雲の中にでもいるかのようだった視界に闇色が広がっていく。
 時折、赤、黄、蒼、白、緑の光がどこからともなくやってきては不規則に横切っていく。ひっきりなしに光が流れてくるので、この暗い空間でも光源に困ることはない。
 波がひときわ大きな暗灰の塊を押し流した。

「え?」
「何だ、ありゃ?」

 妖気の後ろから現れた物に二人して目を丸くする。
 黒い空間には、「妖獣」の名を冠するような者の姿はなかった。
 代わりに浮かんでいたのは、手の平に収まるほどの大きさの平らな石の皿――。

「鏡が残ってる……?」
「鏡って……、あれが!?」

 目を凝らしても、マグカップの直径サイズの黒い丸皿にしか見えない。
 下側の縁に取っ手なのか装飾なのかわからない出っ張りがついている他は、何の変哲もない皿だ。

「……顔映すとこねェじゃん……。割れちまったのか……?」
 「鏡」というから、なんとなく詩織が持っているようなファンシーな手鏡を想像していた。妹が愛用しているような可愛らしいピンクの鏡に凶暴な妖獣が封じられていても別の意味で戸惑うが。
「……最初からあんな感じだった気がするけど……」
「見たことあんのか?」
「ええ……。あれ……?」
 望は額を抑えた。
「そういえば、どうして僕、あれを見たんだろう……?」
「え……?」
「百年に一度、里から術者が箱の封印についてしまった邪気を祓いに来るんですけど……、あの時にも、鏡なんて取り出してないはずなのに……」
「……何か、他のもんと見間違えてんじゃねェの?葉守神社って、変わったもんあるじゃん」

 修業中に宗則に頼まれて邪物の祓いを手伝ったが、一室に並んだ箱の中に古めかしい皿やら鏡やら布やらが納められていた。
 定期的に強い破邪を浴びせないとならないとかで、鎮守役が巡察の合間に行っているらしい。
 一真が参加するまでは望が一人でやっていたのだから、似た物を見ていたとしても不思議はない。

「そうですよね……」
 まだ腑に落ちない表情だったが、望は自分を納得させるように頷いた。
「でもさ、あれ、ホントに鏡なのか?なんかイメージと全然違うけど……」
「銅鏡っていう感じじゃないなあ……。石でできてるみたいだし……」
「どうきょう?」
「日本史で出て来たでしょ?青銅の表面を磨いて鏡みたいにするの……」
「お〜〜!あった、あった!!」
 頷きながら、日本史と古典の必要性を初めて感じる。
 霊域への途中で聞いた時は半信半疑だったが、まさか、そんな大昔の物が繋がってくるなんて。
「じゃあ、あれもその類だってことか……?」
「そうだと思うんですけど……。妖獣がどこにもいないんですよね……。封印鏡が割れていないっていうことは、外に出てきてるはずなんですけど……」
「どっか行っちまった後とか……」
「……それはちょっと困るなあ……。僕達じゃ、玉響の中を探すのは無理だし、どこから襲われるかわからないし……」
「ちょっと困る、どころじゃねェって……」

 不意に黒い鏡の表面に灰色が集まった。
 空気砲のように吐き出された暗灰の塊が左手へと流れていく。
 二人は息を詰めて鏡と、どこか平和に流れていく塊を凝視した。

「…………妖気吐いたよな……」
「吐きましたね……」

 望は鏡を凝視した。
「まさか、妖獣がまだ中に封じられてるってことじゃ……」
「え?」
 また吐き出された暗灰が風に流される雲のように流されていった。
「間違いありません。まだ、鏡の中にいます……!」
「どうして出てこねェんだ!?封印が解けたんだったら、出てこれるんだろ!?」
「よく視て」
 望が鏡の下部のでっぱりを指した。
「あそこに水の気が残っています。きっと、あの鏡に二重に封印を施していたんですよ」
 言われてみれば、鏡の周囲で微かに蒼い気が瞬いている。
「鏡の中に妖獣本体を封じた上に更に封をして、漏れてくる妖気を箱と紐で浄化して霊気に換えて放出していたんでしょう……」
「妖気を封印で浄化って……!んなこと、できるもんなのか!?」
「宵闇の中でも、相当な実力者でないと無理でしょうね……」

 一人の天狗の名が過った。
 里を襲った妖獣を封じたばかりか、千年を超える封を施した「戒」という天狗は、本当に隠人出身なのだろうか。

(天狗って……、宵闇って……、何なんだろな……)

 彼らのことを知れば知るほど、わからなくなっていく。
 いつか、自分も蝕を迎えて霊山へ行けば、わかるのだろうか。

「また波が変わろうとしていますね……」
 望が右側で光る符を見やった。
 右手からの流れが緩やかになり始めている。
 同時に、鏡から吐き出された妖気が横だけではなく、鏡の後方へも流れていく。
「この感じだと、今度は後ろから波が来るってことだよな……。てことは、あいつに近づくから……回収できるんじゃねェか?」
「……厳しいですね……」
 赤い瞳が鏡を睨んだ。
「玉響の中で波が妖気を流してくれているから、あんまり感じませんけど、妖気が表に出ている封印鏡は僕達の手に負えるモノじゃありません……。あの封印だって、いつ破れるか……」
 何事か思案していた望が、こちらを振り向いた。

「……一真君。相談があるんだけど……」