夜桜舞う里

20話 葉守の鏡 U



 周囲が暗く沈み、妙な浮遊感が襲った。
 何かがぶつかったように壁がビリビリと震動し、強い力が圧した。

「痛……」
 右手の甲の霊紋にガラスで切ったような痛みが走った。
 防壁を支える両手が痺れる。
(なん……だ……、これ……!?)
 前かがみになり防壁を前に押し返そうとしても、まるで巨大な岩がのしかかっているように重い。
 ズズっとスニーカーが畳をする音がした。じりじりと後ろに圧されていく。
「の、ヤロ……!」
 つま先を立てて畳にのめり込ませ、両手に霊力を集中する。
「一真君!大丈夫ですか!?」
「なんとか……!」
 横を見る余裕はないが、声と霊気から望も無事らしい。
「バラバラに押しても消耗するだけです。同時に霊力を込めないと……!」
「わかった……!」
 望の左手の甲で赤が、一真の右手の甲で碧が輝いた。
 合図は要らなかった。
 互いの霊気の波動を合わせ、同時に霊力を防壁に注ぐ。
 赤が強まり、後退が止まった。
(いったい……、何が起きたってんだ……)
 顔を上げ、愕然とする。

「な……」


 赤い防壁の向こうに黄昏時の影のような灰色が広がっていた。
 先ほどまでいた正殿の景色はどこにもない。
 防壁の内側、太常が包む足元にその名残の畳が残っているだけだ。
 直前まで守ってくれていた勾陣の防壁は跡形もなく、いつ砕けたのかもわからない。

「なんだよ……これ……」

 オレンジの防幕の外側は――、ごうごうと灰色の雲が音を立てて通り過ぎていくだけだ。
 後ろは灰色で何も視えない。夜に雨雲の中にでもいるような気分だった。
「解けたんですよ……」
 硬い声で望が呟いた。
 ただ事でないことが、その硬い表情とこめかみを伝っていく汗が語っている。
「さっきオレ達が張ったヤツか?」
「……全部、かな……」
「ぜんぶ……?」
 何を言っているのかわからなかった。
 考えることを頭が拒否しているのかもしれない。
「先輩……?全部って……?」
「……それは……」
 何事か言いかけて望は黙った。
 沈黙がとてつもなく長く感じる。
 気を紛らわせるように両手に霊力を集中させる。
(痛てーと思ったら……)
 右手の甲――、霊紋付近が裂け、血が出ている。

「よく聞いてください……」

 ややあって、望は口を開いた。
 笑みが完全に消え、真剣な色だけを宿した赤い瞳がこちらを見つめる。
 既視感が襲った。

(あの時と……、同じだ……)

 浅瀬橋の上で鏡面と戦った夜――、自分が抑えると言った時と。
 あの時、望は霊力を消耗し、肩を負傷していた。本調子に程遠い状態で「鎮守狩り」の異名を持つ強敵と戦わなければならない、ギリギリの状況だった。
 しかし今、望は無傷で、霊力にも余裕があるはず。それが意味するのは……。

(滅茶苦茶、悪いことが起きてるってことだよな……)

 この状況で好転していると考えられるはずもないが。

「解けたのは、僕達が箱に張った結界と、僕が正殿に張った結界……、あと、鏡に施されていた封印……」

 告げられた内容を整理するのに数秒かかった。
 箱に張った結界が解けたのは、まあ予想していた通りだ。
 望が正殿に張った結界が解けたのは……、正殿が消し飛んでいるので、間違いないだろう。なんとなく、そんな気もしていた。
 で、鏡――。
 化け物が封印されているという鏡の……、封印が……解けた……?

「なにいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっっ!?」

 ようやく事の深刻さを理解した。

「結界はともかく、封印まで解けてるって……!マジかよ!?」
「……たぶん……」
 一真に比べるとかなり冷静な口調で望は壁の向こうの暗灰の雲を目で指した。
「あれがあるってことは、封印が解けたっていうことじゃないかな……」
「……そういや、変な色してんな……。邪気ってヤツか?」

 邪気とは穢れた霊気のことだ。
 まだ純粋な邪気というものに出くわしたことはないが、濁って澱んでいるのですぐにわかるらしい。あの雲は濁って澱んでいるというよりは、薄い墨汁でも垂らしたような色だが。

「邪気だったらよかったなあ……」
 望はふうっとため息を吐いた。
「邪気はどれだけ濁っていても属性は残っています。あそこまで属性が消えて潰れてしまっているのは……、妖気ですよ」
「げ!妖気っ!?」

 妖気とは霊獣が穢れを取り込んでいくところまでいってしまった霊気で、邪気を数倍強烈にしたものだ。
 ただし、現で妖気の持ち主に出会うことはまずないとされている。
 理由は簡単だ。
 妖気を放つのは妖獣のみ。人や邪霊の霊気が多少穢れようが、妖気には至らない。
 つまり、妖獣とは霊獣が穢れを取り込み、自身ではどうにもできない状態にまで至ってしまった者達のことだ。
 隠れ里内で暴れているだけならばまだしも、妖獣が現に出てこようものならば、その地域は邪霊が跋扈する魔境と化す。そのため、霊山は昼夜を問わず、常に妖気に目を光らせている。
 妖気を僅かでも察知すれば、宵闇が出撃して現に影響を及ぼす前に隔離して鎮める。
 そもそも妖獣の出現は邪に比べて圧倒的に少なく、霊山が最優先で処理に当たるので、鎮守役が出くわすことはまずない――、と、修業の合間に伝令役が世間話のついでに教えてくれた。

「あれ?一真君、妖気なんて知ってたの?まだ教えてなかったと思うんだけど……」
「え?あ、ああ……、ジイちゃん情報っていうか……」

 この場合の「ジイちゃん」は一真ではなく望のジイちゃんだが。
 伝令役こと望の祖父曰く、「孫(望)は多少の難問も自力で調べるし、強敵だろうと霊力に物を言わせて解決してしまうんだ……。主座としてはとても優秀なんだがね……。先代としては、もう少し頼ってくれてもいいと思うんだがねえ……」と、寂しそうに差し入れの煎餅を齧っていた。
 この祖父と孫の間にも深い溝や高い壁があるのだろうかと疑ったのは、さておき。

「ああ、匠からですか」
 件の孫はというと、「ジイちゃん」の単語に一真の祖父を連想したようだ。元鎮守役の祖父を持っていると、こういう時にごまかしやすい。
「じゃあ、妖獣のことも、ある程度は知ってるってことですね」
「あんま詳しくねェけど……」
「僕も同じですよ。まさか、妖獣と戦うことになるなんて……」

 赤い瞳が防壁の向こうを睨んだ。
 暗灰の雲が蠢くたびに防壁に重圧がかかり、後ろへ流されているようだ。
 不意に一真はあることが気になった。

「……正殿の結界が解けたって言ったよな……。じゃあ、ここって……」
「玉響です」

 予想通り過ぎる答えだった。
 わかってはいたが、できれば別の答えを聞きたかった。
「もう少し踏ん張ってください。向こうから圧す力が軽くなってきてるから、あと少しで波の向きが変わるはずです」
「波?玉響にそんなのがあるのか?」
 陣の外は灰色一色だ。玉響がどういう場所なのかもわからない。
「玉響は僕達が住んでいる現だけじゃなく、他の時空からの干渉も受けているんです。時空同士の揺らぎが波みたいに打ち寄せていて、波の方向も一定じゃありません。今は僕達の前から打ち寄せてきているから、向こうの妖気が全部こちらに来てますけど」
「待ってくれよ!それって、オレ達は今、海の上に浮かんで波に流されてるってことか!?」
「そんな感じですね」
「お、大ごとじゃねェか!ここって、時空の狭間なんだろ!?どこに運ばれるかわからねェってことじゃん!!」
「だから、宵闇でも探すのが大変なんですよ」

 望は頭上を見上げた。
 頭の上でも変わらない暗灰の雲が覆っている。

「波って呼ばれてるけど、どちらかというと、潮の流れって考えたほうがわかりやすいんじゃないかな。潮流って時間や場所によって変わるでしょ?あれが不規則に予測不可能な方向に流れてて、どこに着くかわからない状態が近いんじゃないかな……」
「それって、変な流れに乗っちまったら……」
「時空の狭間を永遠に漂流することになるそうです。ここは時間とも切り離されてる場所だから、年もとらないし、飲まず食わずでも衰弱することはありません。でも、そう長い間、肉体はこの空間の波に耐えられませんから、霊力が尽きたらアウトです。最終的には体が千切られて四散して、魂だけが彷徨うことに……。大丈夫?顔が引きつってるけど……」
「先輩って……、スゲエ怖いこと、さらっと言うよな……」
「そう?先に知っておいたほうがよくない?」
 下手な怪談よりもよほど怖かったが、望はけろりとしている。
 長年、鎮守役をやっていると、感覚が麻痺するのかもしれない。
「そりゃそうだけどさ……」
 もう少し、ソフトな言い方をしてほしかった。
 言い方がどうであれ、この場所で漂流すれば、最終的には望が言ったような運命が待っているのだろうけれど。
「霊力が切れてしまった時の最悪の場合ですよ。霊力や霊符で防幕を張っていれば、肉体へのダメージはありませんし」
「霊符で!?」
「今もやってますよ。この太常の霊符の他にも、勾陣や天后とかも有効です。防御幕を張っておくと、潜水艦で海に潜ってるみたいなものだから、その間、波にやられることはありません。霊力の幕でも同じですけど、霊符のほうが霊力の消耗を抑えられます」
(マジでスゲエじゃねェか……、この符……!)
 自分達の間で光っている一枚の霊符がとてつもなく偉大なモノに思えた。
「だから、霊符は大切に使ってください。流されてしまっても、防御幕さえ張っていれば、助けを待つことができるし、運が良ければ現に押し出されたり、霊山や隠れ里に漂着するかもしれません」

 ――ああ、そっか……。

 望が霊符を温存しようとしている理由がわかった。
 わざわざ玉響のことを細かに説明している理由も。
 彼は最悪の事態を想定しているのだ。
 玉響の知識が全くない一真が一人、流されてどこかへ漂流するという事態を。

「霊符なら補充したとこだから問題ないって。オレより、先輩のほうが少ないんじゃねェの?分けようか?」
「大丈夫ですよ。ちゃんと予備を持ってますから」
 少し笑い、望は押し寄せ続ける妖気を壁越しに見つめた。
「おかしいなあ……」
「何が……?」
 何度目かの問いかけを口にする。
 この異常な状況では「普通」こそが「おかしい」かもしれない。
「静かすぎます……」
 望は防壁に額を当て、瞼を閉じた。何かを測っているようだ。
「やっぱり、おかしい……」
 瞼を上げ、また呟く。
 よくわからないが、あそこまで気にするということはよほどのことのはずだ。
「静かっていっても、こんなに妖気が流れてきてんだぜ?壁だってまだ重いのに……」
「だから、おかしいんですよ」
 赤い瞳が灰色の向こうを睨んだ。
 流れが変わりつつあるのか、腕が随分と楽になった。視界が悪いのは変わらないが、灰色が少し薄まったようだ。
「刃守の里が移転しなきゃいけない原因を作ったような妖獣が、こんな程度のはずがありません。さっき結界が解けた時に吹き飛ばされていてもおかしくなかったのに……」
「え……?」
 さっきの衝撃でもかなりキツかったのだが。
 望はさらに続けた。
「なにより、僕達がまだこうやって無事でいることがおかしいんですよ」
「どういうことだよ……?」
 それ以上は聞きたくなかったが、聞かないで済む話ではない。
 望は雲を眺めた。
「妖獣や宵闇は玉響の波の中でも自由に動けます。封印が解けたのなら、とっくに襲いかかってきてるんじゃないかな……」
「それって……、オレ達がめちゃくちゃ不利ってことじゃねェか……!」
「宵闇ほどじゃないけど、僕達もできますよ。霊力を全身に行き渡らせて、臨戦態勢をとれば玉響の中を走ったり跳んだりできます。現とは勝手が違うから、慣れるまでちょっと時間かかりますけど……」
「じゃあ、ここでも戦えるってことか」
「消耗は大きいから、あんまりおすすめしませんけどね。でも、なんとかここで足止めしないと……。見失ってしまったら……、玉響のどこかから現に戻ってしまうかもしれませんから……」
「それ、超大ごとじゃねェか……!」
「ええ……。正殿が吹き飛ぶ程度じゃ済まないですね……」
 望は霊符を取り出し、壁から手を離した。
「ちょ、先輩?いきなり手ェ離さないでくれよ……あれ?」
 壁が驚くほど軽い。先ほどまでの押し潰されそうなプレッシャーはどこへ行ったのだろう。
「波が変わります。一真君は、このまま壁を押さえててください。幕の補強は僕がやりますから」
 放たれた霊符が黄色く光った。
「波が変わるって……!一人で大丈夫なのかよ!?」
「さっきの衝撃は結界と封印が解けて、それまで抑えられていた妖気が一気に波に乗って叩きつけられてきたからです。波だけならそれほど強い衝撃じゃありません」
 手にほとんど重みがなくなった。ガクンと右側から何かがぶつかってきたような衝撃があったが、それだけだった。
「ね?波だけだったら大したことないでしょう?」
 流れを変えた波が暗灰の雲を視界から押し流し始めた。
「何があるかわかりません。今のうちに霊紋に天一の霊符を貼って、絆創膏と包帯で押さえておいてください」
「天一を?」
「霊紋が痛んだら力を出しづらいでしょ?妖獣との戦いになったら霊力を回復に回せる余裕があるかどうかわからないですから……」

 言い終えるよりも先に、望は手袋を取り、自らの霊紋に霊符を貼った。