夜桜舞う里

15話



“木の斗よ、護れ”

 放たれた符が拝殿の壁に貼りつき、緑の光を放った。
 広がり続けていた亀裂が緑の光に癒されるように塞がっていく対角線上で新たな亀裂が走る。

(マズイな……)

 霊符を更に放ち、望は焦りを募らせた。
 拝殿のダメージが予想よりも早い。この僅かな時間で、瑞垣も随分と萎れてしまった。
 この調子では、あと一時間ももつかどうか――。

「急がなくちゃ……」

 封印そのものに手を出すことはできない。しかし、霊符で補強くらいはできる。
 この異常事態だ。
 祖父は里に連絡を入れているだろう。里から術者が来るのか、あるいは霊山から宵闇が出撃してくるのか――、どちらにしても時間を稼ぐ必要がある。
 水の霊気を補強し、正殿そのものを強化すれば、彼らの到着まで抑えるくらいはできるはずだ。
 気持ちは逸るが、目の前では更なる問題が起きている。
 命綱ともいえる防御陣が吊り橋のように不安定に揺れている。

「どうして……」

 この正殿で異変が起きたのは千年を超える神社の歴史の中で初めてのことだ。
 一度も使われていなかったとはいえ、邪封じと防御陣のメンテナンスは毎年行われていた。そのたびに拝殿や瑞垣のみならず、砂利の穢れを祓い、術の発動を確かめてきた。今年のメンテナンスの時も問題なく陣は発動していたはずだ。

(霊気が……消耗されてる……?)

 手に取った小石からはほとんど霊気を感じない。
 この正殿の周りに敷かれている砂利は、月光と日光から霊力を補給できる石が半々で混ぜられている。砂利は霊山で術をかけられた特殊仕様で、霊力の状態は毎日チェックしている。夕方、拝殿から見た時は日光を吸収した小石が土の霊気をキラキラと放っていた。この短時間で消耗したということだ。

(それだけ荒れている霊気が強いってことか……)

 正殿に巻きつく水の霊気を抜けてきた火の霊気が爆ぜる度に頬に熱が叩きつける。
 弱まっているとはいえ防御陣の中にいるのに、だ。
 防御陣がなくなってしまったら、どれだけの衝撃が叩きつけるのか――、恐ろしい速度で萎れていく瑞垣と秒単位で亀裂が増えていく拝殿が物語っている。

 進むか、退くか――。

 この二択の答えは出ている。
 問題は、どう進むか、だ。
 この防御陣に自分の命を預けるほど望は楽観的ではない。自らも防御幕を張る他ないが、果たして、この薄い防御陣は内側からの霊力の負荷に耐えられるのか――?
 ビキリと後ろの拝殿で嫌な音がした。
 ひび割れている柱に霊符を放ち、目を凝らす。

「迷っている場合じゃないか……」

 陣の一端に自身の霊気を当ててみる。防御幕を張る域まで高める前に陣が揺らぎを生じた。
 予想通り、いや、予想以上に陣が弱体化している――。

 仕方がない――。

 霊気を全身に巡らせ、駆け出す。
 この状況では、最小限の霊力で防御しながら正殿まで辿り着くしかない。防御陣が途中で途切れるようなことがあれば、周囲に防御幕を張るまでに時差が生じてしまうのが欠点だが――。

(あと少し……!)

 強風に吹かれる吊り橋のように、陣が左右へフラフラと揺れ、向かい風のように霊圧が前方から不定期に襲ってくる。進みにくいことこの上なかった。
 僅か数メートルの距離が遠い。
 それでも、足早に進み続けると、閉ざされた正殿の扉が少しずつ近づいてくる。
 あと数歩の距離まで辿り着いた時には、陣を形作る黄は半分ほどの薄さになっていた。

 ――着いた……!

 扉へと続く数段の階段を駆け上がる。
 手が水の霊気を通り抜け、扉の取っ手に触れた。

 パリ、

 シャボン玉のような薄い黄色の道が跡形もなく消えた。
 伸ばした手が取っ手を掴む寸前で圧し戻される。
 強烈な衝撃波が正面から叩きつけた。
「うわっ!?」
 防御幕を張る間もなく、階段から足が離れた。
 咄嗟に空中で体勢を整え、砂利の上に着地した体を別の衝撃波が襲う。
「く、止ま、れ……!」
 両腕に霊力を集中してガードする。
 踏み止まった足が砂利に轍を作った。半分ほどまで押し戻される。

(あと……、少しなのに……!)

 正殿を睨み付ける。
 ほんの数分しか経っていないのに、瑞垣が随分と萎れている。破邪の陣が崩壊するのも近いだろう。
 それまでに箱の水の気を強化しなければ――。

「ッ!」

 左手の甲で霊紋が輝いた。できれば正殿まで温存したかったが、そんな場合ではないらしい。
 霊力を解放しようとした耳に、川のせせらぎのような音が聴こえた。右手に蒼い光が灯る。

「え……?」

 正殿を囲む水の霊気が形を変えた。
 蒼い光が望の周りに集まり、衝撃波がピタリと止む。
 少し離れた場所に、人が佇んでいた。

『こっちだ……』

 語りかけてくる声は夢の中で聞いたものと同じだ。
 急いでいることも忘れ、望はその姿に見入った。

「戒さん……ですか?」

 応えようともせず、戒は正殿へと向かい、飛ぶように駆けていく。
 その後を蒼い光――水の気が描く軌跡が追うが、その姿はやはりぼんやりとしていてはっきりと捉えることができない。
 正殿の前で戒は一度振り向き、消えた。
 後には蒼い光が揺れる「道」が残るのみ。
 望は地を蹴った。
 青い光の帯の中を、戒が通った道を駆ける。

(なんて強い水幕……!)

 数万個、いや、数百万個かもしれない砂利で構成された陣でさえ、あんなに不安定で瞬く間に消耗していったのに――。
 この水の気が造る道は山のように安定していて、霊圧も全く襲ってこない。
 術者本人がこの場にいないのに、これほどの防御幕を作り出すなんて――。

(この力……、本当に宵闇……?)

 望の力は宵闇匹敵と称される。天狗と隠人を比べるなんて過大評価もいいところだとは思うが、里長がそう評するということは全く及ばないというわけではないのだろう。
 しかし、望がどれだけ霊力をつぎ込んだところで、ここまで強固な防幕を作り出すことはできないだろう。そもそも、水の霊気の質が違う。術者の霊格が違いすぎるのだ。
 鞍馬にいるという大天狗直属部隊が過った。
 隠人でありながら霊獣を超えた存在――。
 正直、一真ではないが眉唾ものだと思っていた。
 その話をしたのが刃守の里長だったから、全くの嘘や冗談ではないのだろうと覚えていただけだ。
 だが、今、自分を導いてくれている霊気は、そして、正殿を囲む霊気は――、自分など足元にも及ばないほど強い。
 よくよく考えてみれば、あの霊獣の少女は戒のことを様付けしていた。望と一真を難なく放り出せるような力の持ち主が、あれほど敬意を払う相手が、ただの天狗のはずがないではないか――。
 ただし、この場合、それは物凄く良くない状況を示しているだけだった。

(もし、戒さんが宵闇以上の存在だとしたら……)

 ――封じられているのは、宵闇では手に負えないような化け物――!?
 蒼の光を抜け、正殿の入り口を閉ざす扉に霊気を込める。
 葉守神社の正殿は物理的な鍵では開かない。城田家の中でも格の高い者の霊気を鍵としている。
 開錠と共に、重い扉が内側から押されたように勢いよく開いた。
 赤い風と水の気が音を立てて吹きつける。
 吹き飛びそうになるのを扉の取っ手に掴るようにして踏み止まる。

「っ……」

 苦労して扉を半開きで固定し、望は扉にへばりつくようにして正殿に足を踏み入れた。