春暁の前に

11話



「光咲!」
「一真君?」
 バス停で道路の向こうを眺めていた光咲が目を丸くした。
「どうしたの?」
 光咲のすぐ後ろに黒い影が現れた。
 澱んだ霊気が春の陽気の中でくっきりと浮かび上がった。
「どけ!そこから離れろ!!」
「え??」
 光咲の斜め後ろを指して怒鳴る。
「後ろ……!」
「後ろ?」
 振り向き、光咲は声にならない悲鳴を上げた。
 黒い影が光咲に跳びかかり――、
「チ!」
 足元の小石を投げつける。
 邪の爪を掠ったそれはダメージを与えることなく、バス停のベンチにぶつかって地面に転がった。
 邪が奇声を上げて、こちらに狙いを定める。
「食らえ!」
 飛びかかってくる黒い影に拳を繰り出す。
 碧を帯びた拳が胴の真ん中をぶち抜いた。
「なにっ!?」
 拳は影をすり抜けただけだった。
 何事もなかったように地面に着地した影は、黒い猿のような姿をしていた。ただし、顔には大きな目が一つだけ。口や鼻はなく、輪郭も砂嵐のようにちらついていてはっきりしない。腕が異様に長く、猿から蜘蛛の足が生えているようだ。
「怪我は!?」
 光咲を背中に庇い、問いかける。
 怯えたように頷き、光咲は邪を恐々と覗いた。
「な、なに、あれ!?」
「たぶん……、邪だと思う……」
「邪!?さ、猿のお化けじゃないの!?」
 邪が跳躍した。
 スピードはさほどない。だが、透明な壁でもあるように、宙を蹴っては不規則な動きで加速していく。
(読みづらいな……)
 身構える一真の前で、その姿が消えた。
「え?え??どこか行っちゃった?」
「チ、どこ行った……」
 逃げたのならばいいが、周囲の空気はまだ澱んでいる。
このバス停のどこかに潜んでいるのだろう。
「一真君!」
 背後で邪気が強まった。
 膝ほどの高さで目玉がぎょろりと動いた。
「だ、ダメ……!!」
「光咲!?」
 あろうことか、光咲は背後から邪を両手でガシリと掴んだ。
「バカ!離せ!光咲!!」
「逃げて、一真君……きゃっ」
 暴れる邪を思わず離し、光咲はペタンと尻餅をついた。
 毛を逆立て、邪が振り向く。黒い腹の真ん中で牙の生えた口が開いた。
「ヤロ……!」
左ストレートが邪の後頭部に炸裂する。
拳が碧に光り、邪を形作る黒い靄が吹き飛んだ。
 キイイイイイイイイイイイ!
 ダメージがあったのか、ガラスを引っ掻いたような耳障りな声を上げ、邪が一真目掛けて跳躍する。
「吹っ飛ばしてやる……!」
 右手の甲で碧の光が燃える。
 ザワリッと周囲で風が染まった。

「ダメ、カズ兄!結界も張らずに何やってんのさ!?」

 怒鳴り声と共にひらりと符が舞った。
「な……」
 霊符が黄色い光を放つ。

“十二天が一、太常!”

 牙をむき出しにして迫っていた邪の姿が黄の幕に阻まれ、見えなくなる。
「消えた……?」
 先ほどとは異なり、姿だけでなく澱みまでもが消えた。
「ううん、結界を張っただけ。向こうからはこっちが消えたように見えてるよ」
 先ほどと同じ声に振り向く。
「あ……!」
 光咲が嬉しそうに顔を綻ばせた。
 ショートヘアに勝ち気な瞳をした少女が立っていた。パーカーとホットパンツが更に活発な印象を与える。すぐ横にパンパンに詰まったスポーツバッグが置かれていた。
「若菜?」
 ニカッと笑うその表情は四年前と全く変わっていない。
「久しぶり!相変わらずカズ兄は滅茶苦茶だよ。邪が出たら、とりあえず結界張らなきゃ!周りの人に、『自分は人間じゃありません』って宣言してどうするのさ?」
「う、うるせェ……」
 再会するなりの無遠慮なダメ出しに、こういうヤツだったと思い出す。
「若菜ったら……、バス乗らなかったんだ……」
 少しよろめきながら光咲は立ち上がった。
「大丈夫か!?無茶しすぎだぜ……!!」
「そうだよ!邪を素手で掴んで抑えようって、なにカズ兄みたいなバカやってんのさ!らしくないよ、姉ちゃん!」
 容赦ない妹の説教に光咲は力なく笑った。
「あはは、ホントだね……。無茶したなあ、私。なんか怖くなってきちゃった……」
 ほっそりとした手が微かに震えている。覚醒をあんなに怯えていた彼女が、よく邪を抑えようなどと思ったものである。
 若菜はスポーツバッグを下げ、頬を膨らませた。
「あーあ、カズ兄も覚醒しちゃってたんだ。せっかく驚かしてやろうと思ってたのにさ……。あたしより格高いってムカつくーー」
「テメ、会うなりそれか。四年前より根性座ったじゃねェか……」
「カズ兄だって、人のこと言えないっしょ。邪に素手で立ち向かうって、バカすぎだよ」
 互いにニヤリと笑った。
「おうよ、元気そうじゃねェか、若菜!」
「お帰り、カズ兄!」
 こちらを見上げ、若菜は少し悔しそうな顔をした。
 互いに背が伸びたのだろう。目線の位置は四年前とあまり変わっていない。
「いきなり霊符使いやがって……!やるじゃねェか!」
「まあね〜〜。カズ兄はまだ使えないんだ?教えてあげよっか?」
「け、すぐに抜かしてやるぜ」
「ムリムリ!カズ兄、大雑把だもん!」
「んだと、コラ」
 ふと、若菜は結界の中を見渡した。
「それより、詩織ちゃんは?一緒じゃないの?」
「ん、ああ……。詩織は学園で……」
 視界の隅で笑みを浮かべていた光咲がよろめいた。
「光咲!?どうした!?」
 慌てて受け止めた光咲の顔は蒼白だった。
「姉ちゃん!?時差ありすぎだよ!!」
「ん……、なんだか……、気持ち悪いの……。貧血かな……?」
 額を軽く抑えた手の平に一真は眉を顰めた。
(なんだ……?)
 白い手の平に浮かんだ円のような霊紋。その真ん中にプツプつと針で刺したような跡がいくつもついている。
「これ……」
 若菜が真剣な表情になり、光咲の手をとった。
「わ、若菜?痛いよ……」
 姉の抗議をスルーして、若菜は光咲の手の平を凝視し、何やら考え込んだ。
「若菜ってば!」
「黙ってて、姉ちゃん!」
 一喝し、若菜は自分の手の平をかぶせ、瞼を閉じた。
 ぼうっと蒼い光が灯り、手の平のプツプツから線香の煙のような細い灰色が染みてくる。
「なんだ、これ……」
「さっきので傷口に邪がついたんだよ!まっずいな、六合持ってないのに……!」
「六合……?」
 昨日、彰二が説明していた。
 確か、補佐の必須習得の霊符の一つで治療用の――。
「葉守神社!早く神社に行って治療しなくちゃ!姉ちゃん!お守り持ってる!?修業初日にもらったでしょ!?」
「こ、これ?」
 光咲がポケットから小さなお守りを引っ張り出した。
「それを右手で握ってて!」
「え、う、うん……」
 勢いに押されたように光咲はお守りを握り締めた。
「カズ兄!運べる!?」
「任しとけ。詩織が学園の中で待ってんだ。若菜、呼んできてくれねェか!?」
「了解!姉ちゃんを頼んだ!結界を解いたら、すぐに神社に走って!」
「おう!」
「え?え?ちょ、ちょっと??運ぶって……」
 事態について行けていないらしい光咲が一真と若菜をオロオロと見比べた。
「つかまってろよ、光咲!」
「え?ちょ、ちょっと!?一真君!?いいよ、自分で歩くよ。私、結構重いし……!!」
「オレより重いってことはねェだろ!?問題ねェ!!」
 抱き上げようと膝の下に腕を伸ばすと、光咲がワタワタと手を振った。
「そ、その運び方は……、は、恥ずかしいよぉ……」
 結界を解こうと壁に触れていた若菜がクルリと振り向いた。
「姉ちゃん!恥ずかしがってる場合!?邪が回ったらヤバいんだってば!担架に乗ってると思えばいいじゃん!!」
「待てコラ。オレは担架なのか!?」
「例えだよ!ちゃんと運んでよね!」
「当ったり前だ!救急講習会常連のオレをなめんじゃねェ!!」
 言い合っている間も、光咲は気分が悪いことを忘れたように真剣な顔で悩んでいる。
「とにかく行くぞ、光咲」
 しかし、この期に及んで光咲は粘った。
「ま、待って……!神社に行くまでに誰かに見られちゃったら……!」
「んなこと言ってる場合じゃねェだろが!いいから、つかまれ!!」
「ぅう……」
 光咲は顔を真っ赤にして、
「……お、おんぶじゃ……ダメ……?顔、隠せるし……」
 聞き取れないような小声で呟いた。