春暁の前に

10話



「お兄ちゃん!」
 光咲がバス停に向かってから二分ほど後。
校舎から飛び出してきた小さな影が子犬のようにパタパタと駆け寄ってきた。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
「いーって。
迷子にならなかったか?」
「ちょっとなっちゃった」
 詩織はぺロっと舌を出した。
「でも!すっごく綺麗なお姉さんが玄関まで連れて行ってくれたの!」
「ほ〜〜、先生か?」
「ううん、生徒!制服着てたもん!」
「生徒?」
 よほど美人だったのか、詩織は興奮気味に一真を見上げた。
「黒い髪がサラサラ〜〜ってしてて、平安時代のお姫様みたいだったんだよ〜〜!!十二単とか、似合いそう!」
「へー、中等部のヤツか?先輩に聞いてみよーかな……」
 乗り気になると、詩織が急に慌てた。
「あ!で、でも!浮気はダメだよ、お兄ちゃん!」
「は?浮気??」
 意味がわからず、目を丸くして妹を見つめる。そもそも、一真には彼女がいないので「浮気」をしたくてもできないのだが。
「お兄ちゃんには光咲お姉ちゃんがいるんだからね!」
「は……?」
 思考が数秒停止した。
 遅れて、一真は直前の妹の言葉を何度も反芻した。
(落ちつけ、落ちつくんだ、オレ……!い、今、詩織の奴、何て……!?恋愛系の話題を口走ったのか!?そうなのか!?)
 光咲が、というくだりよりも、詩織の口から、その方面の単語が出たことのほうが、兄として衝撃だった。
「お兄ちゃん、お顔が怖いよ?どうしたの?」
「……大丈夫だ。それより、詩織……。お前、まさか、好きなヤツがいるんじゃねェだろな……?」
 詩織は慌てたように両手をパタパタと振った。
「い、いないよぉ。お兄ちゃん、もしかして心配してるの?」
「あ、当たり前だろ!?お前に手ェ出すってんなら、まずオレを倒してからだ!」
「……お兄ちゃんを倒せる人なんて、ほとんどいないと思うけど……」
「安心しろ。強さじゃなくて、気迫で判断するつもりだ」
 真面目に言うと、詩織は無邪気に微笑んだ。
「今は詩織のことより、お兄ちゃんだよ。光咲お姉ちゃんと付き合ってるんだよね?」
「…………この話題は今度な……」
「え〜〜〜?」
 詩織は不満そうな顔をしたが、仕方がない。
(……そーいえば、光咲はどう思ってんだ……?)
 小さい頃から傍にいるのが当たり前すぎて、自分でもよくわからない。
 しかし、詩織がそう思っているということは、他人からもそう思われているのだろうか。
 彼女の様子から、嫌われていることはないだろうが、それが好意からなのかは、今一つわからない。かといって、今更、本人に聞く度胸はない。
 聞いてしまうと、この関係が終わるような気がする。
(ん……?)
 感覚に澱んだ気配が引っかかった。
「お兄ちゃん……」
 先ほどまではしゃいでいた詩織が不安げにこちらを見上げていた。
「……詩織も感じるのか?」
「うん……、向こうから気持ち悪い音がする……」
 一真は無言で「向こう」
を見やった。
 光咲が向かった正門の方向――、門の向こうから澱んだ気配が風に運ばれてくる。
 紙袋を地面に置いた。
「詩織はここで待ってろ」
「お兄ちゃん!?」
「制服、見張っといてくれ。オレが強いの知ってんだろ?」

 力強く頷いて見せ、一真は正門に向かって走り出した。