春宵の邂逅

30話



そこには誰の姿もなく、ただ金の邪気だけが漂っていた。
橋の欄干は白の、道路部分は黄の、ぼうっとした光を放っている。
「いるんでしょう?」
欄干に向けて呼びかけた。
白く光る欄干の一角が人の形にニュウッと浮き上がる。
ピンク色のパジャマを来た詩織が生気のない目でこちらを見た。
手には額から顎までをすっぽり覆い隠せるような仮面を持っている。
「さきほどの鎮守か……。随分と遅い到着だのう。せっかく邪魔者を遠ざけて待っておったというのに」
「その仮面……」
磨かれた鏡を思わせる冷たい光沢には目や口といった顔のパーツはない。
ただ、顔の真ん中――、本来ならば鼻がある位置に瑪瑙のような石が埋め込まれている。
(中央に赤い石がついた鏡のような仮面……?)
スゥっと冷たいものが背筋を走った。
「……まさか、【鏡面】?こっちに来ていたなんて……」
後半は独り言のようになった。
南組が担当する地区で鎮守役のみを狙って襲いかかるという邪物。
強力な金の邪気を持ち、出現してからの半年で数多くの鎮守役が襲われている。
通称、「鎮守狩りの鏡面」。 その目的は一切不明。
鎮守役とみれば一方的に襲いかかり、戦っているうちに興味を失くし、自ら退くというが、遭遇して無事で済んだ者はいない。
強い者ほど執拗に攻撃する異常な性質だが、他の邪物のように人にとり憑いたり、相手の霊力を喰うことはない。
武蔵で最も多くの鎮守役を抱える南組でも手に負えず、この半年で動ける鎮守役が半数にまで落ち込んだと聞いている。
緊急事態と判断した南組の組長が霊山に宵闇の出撃を要請し、近いうちに宵闇が動くと霊山から返事が来ていたはずだ。
「妾を知っておるのか?」
刀のように冷たい女の声が肯定した。
詩織の意志は全く感じられない。
(霊体は眠ったみたいだな……)
邪を引き剥がせば、巣食われた隠人にも記憶や精神にダメージが残る。
最小で済ませるには、邪が入り込んですぐに引き剥がすのが最も有効だ。
それが叶わないならば、次に仕掛けるのは霊体が邪と完全に分離した時。
霊体が邪を自力で追い出すことを諦め、全霊力を防御幕に回して内側に籠った状態――、「籠眠」に入っている間だ。
霊力が尽き、幕が破られると霊体が浸食されて邪と一体化してしまう。
一真の「説得」に時間を割くことができたのも、詩織の霊体が籠眠に入るまでにいくらか時間があったからだ。
霊体が邪に抵抗している間は、こちらが干渉することで霊体を傷つけてしまう危険が高い。
「有名ですよ。『鎮守狩りの鏡面』ってね……」
刀に霊気を通し、状態を確かめる。
まさか、あの大物がこの町に潜りこんでいたとは。
南組を騒がせる邪物を対岸の火事だと思っていたわけではない。
ただ、あまりにも予想外すぎた。
南組と西組の間には東組の担当地区があるのだ。
鎮守役を狙う邪物が、優秀な鎮守役が集まる東組を無視して、こんな、鎮守役過疎エリアに来るなんて――。
「あいつは邪に穢れながらも、確固とした意志を持っているようだ」、そう話したのは南組の主座だったか。
『あれは邪物ではなく、鬼女といったほうが正しいのかもしれんな。何か、妄執のようなものに突き動かされている――、そんな気がしてならんかった』
鏡面を取り逃がした彼は、「何かを探しているようにも見えた」と付け加えた。
(なるほど……。すごい存在感だ)
まるで、「鏡面」という名の人が目の前にいるようだ。
人間にとり憑いていても、籠眠中は存在感が希薄になる。
こんなに強い意志を感じる邪物は初めてだ。
(それにしても、妙だな……)
待っていたというくらいだから、標的は望で間違いないだろう。
それは好都合だ。
最悪、逃がしてしまったとしても、他の誰かが襲われることはない。
ならば、何故――。
「腑に落ちないな。あなたは人に巣食わないって聞いていたけれど……。どうして、その子にとり憑いたんです?」
「そなたが知る必要はない……」
詩織はそっと仮面をつけた。
磨き上げられた仮面の表面が、その名のごとく鏡のように景色を映す。
「妾はただ、狩るのみ……」
右腕の肘から下が硬化し、刀へと姿を変えていく。
ゆらりっと詩織の輪郭が陽炎のように揺れた。

ギッ

空中から襲いかかる白刀を赤光を帯びた刀身が受け止めた。

“炎よ!”

呼びかけに応え、刀身の赤が燃え上る。

バシュッ

大きく距離を跳んで離れたのは望のほうだった。
「ほう、避けたか……」
熊が爪を横薙ぎにしたようにパーカーがざっくりと裂けている。
「へェ、左手も武器化できるんだ……」
横手から襲ってきたもの――、詩織の左手を睨む。
いつの間に変形させたのか、左手からは大型のカッターナイフを伸ばしたような鉤爪が生えていた。
気づくのがあと少し遅れていたら、腹と胸を抉られていただろう。
(マズイな……)
相手はただの邪物ではない。
南組の戦力を半減させるほどの大物だ。
万全な状態ならばともかく、霊力が弱まっている今、戦いを長引かせるのは避けたい。
左肩の傷だって刀を振り続ければ、また開いてしまうだろう。
下に置いてきた一真も、いつ乗り込んでくるかわからない。
一真の力は並の邪相手ならば十分に助けになるだろう。
だが、今回は相手が悪い。
望一人でも厳しいのに、一真まで守ることは不可能に近い。
(もっと早くに気づいていれば……)
巣食われたばかりの時に鏡面の存在に気づいていれば。
いや、もっと早くに詩織に会っていれば――!
疲労していたから、鎮守役が自分一人だから、というのは言い訳でしかない。
この力を持っている以上、自分が鎮めなければならない。
穢れをまき散らして浮遊する邪を、霊気を穢されて本来の姿を失った邪物を。
鎮守役が自分一人しかいない以上、自分が助けなければならない。
邪に巣食われてしまった隠人達を。
――化け物が人と共存するには、「無害」だと認めてもらうしかないのだから……
鏡面を睨みつける。
鏡面の霊気は金属性、望は火属性だ。
五行相克では火は金に打ち克つ。
木属性の一真が金属性を苦手とするように、金属性の鏡面にとって、火属性の望の霊気は苦手なはず――。
(一気にカタをつけるしかないか――)
地を蹴ると同時に刀を繰り出す。
真っ直ぐに突き出された刀が深紅の炎を帯びる。
「くっ」
避けきれないと判断したか、鏡面は後ろに跳んだ。

ボシュッ

切っ先から伸びた赤い閃光が夜の空気を焼いた。
閃光は僅かに鏡面に届かない。
鏡面が右手の刃を振り上げ――、

ボシュッ

「なにっ!?」
右手の刃の三分の一が蒸発した。
望が続けざまに放った二度目の突きから生じた閃光が鏡面の刃を捉えていた。
鏡面が後ろに地を蹴った時には、望の刃は再び繰り出されていた。

ジュゥゥウッ

焦げた鉄の臭いが鼻をついた。
三度目の突きは鏡面を貫く手前で止まっていた。
鉤爪が生えた左手を貫通して。
「さすがですね。僕の閃紅牙を止められたのは初めてですよ……」
感情のこもらない声で呟き、望は刀に霊気を込めた。

ボッ

刃を中心に炎が渦巻き、左手を焼く。
鉤爪がドロリと溶け、刀身を伝った。
霊力を注ぎ霊刀と化した刀は霊体だけを斬り、巣食われた者の肉体を傷つけることはない。
今、炎が焼いているのは鏡面そのものだ。
「この霊力……、そなた、まことに鎮守か……?」
「ええ。見ての通り、ただの鎮守役ですよ」
「……わが身を焼くこの炎……、現の者が宿すべきものではない……。この匂い……やはり貴き狼のもの……」
――おかしい……
違和感を抱く。
右手の刀は先端が溶け落ち、左手は貫いた刃が発する炎で燃え盛っている。
鏡面から放たれていた邪気は弱まり、間違いなく力は殺がれている。
詩織の体を支配できなくなるのも時間の問題のはずだ。
なのに、鏡面の声には全くといっていいほど苦痛の色がない。
顔のパーツがないので表情がわからないのもあるだろう。
だが――、この得体のしれない不気味さは何なのだろう。

メギッ

金属が捻じれるような音が鏡面の左手と、望の手元からあがった。
「な……」
信じられない光景に言葉を失う。
炎で溶けだした鏡面の左手から流れた鉄が刀を包み、同化を始めていた。
炎が鏡面の金の邪気に反応した刀の金の気に抑えられていく。
メキ、メキキ、 同化した刀の鉄が望の両手を包み込み、蛇のように絡みついた。
(う、嘘だ……!こんなこと、邪物にできるはずが……!)
己の金の気を媒介に刀の金の気と同調し、己の武器と化す――。
理論上は可能だが、それには相当な霊力と技術が必要だ。
グンッと刀が引っ張られた。
「ぅわっ!?」
思いもしていなかった反撃に前につんのめる。
左肩に鋭い痛みが走った。
「ぐ……」
右腕が長さはそのままに刃を再生し、左肩を貫いていた。
じわじわと生温いものが肩に広がっていく。
「おお、おおお……、感じる……!感じるぞおおおおおおおおおおおお!高貴なる狼の血じゃ!」
女の声が急に熱を帯びた。
「一門の者じゃ……!見つけた!見つけたぞぉオオ!」
至近距離から浴びせられる、狂ったような笑い声に、肩よりも耳が痛くなる。
(何を言って……)
意味がまるでわからなかった。
自分が狼の霊筋だということは聞いている。
それというのも、大昔、この一帯は狼の霊獣の隠れ里が点在していて、狼の霊筋が多いというだけの話だ。
浅葱町の隠人のほとんどは狼の霊筋だし、武蔵の現衆も大半は狼の霊筋。
なにも、望だけが特殊なわけではない。
のっぺらぼうが眼前に迫った。
眼がないはずなのに、ぎょろりと目玉が動いた気がした。
「その霊筋、天の者か、地の者か、それとも幻の者か……。あのお方がご所望されているのは、さて、どの霊筋であったかのう……」
鏡のような面にゾッとしたような自分の顔が映る。
「さあ、見せておくれ……。その器の奥に潜む真の姿を……」
子守唄でも歌っているような優しげな声が脳に語りかける。
(いけない……!早く離れないと……!!)
頭の中で警鐘が鳴り響く。
上手く霊力を集中できないのは、肩の負傷だけが原因ではない。
「怖れることはない……。真実を知るだけじゃ……」
ドクリッと心臓が跳ねた。

――見てはいけない。
――見なければいけない。

吸い寄せられているように鏡面から目が離せない。
黒く染まった面の中央――、石を中心に光が生まれ――

「何やってんだ、詩織ィっっ!!」

橋の隅々まで響く怒声に鏡面の意識が反れた。
同時に両手の拘束が緩む。
手首に霊力を集中し、鉄を焼き切り、大きく後ろに退く。
大量の汗がこめかみを伝い、流れ落ちた。
貫かれた左肩と鉄に絡みつかれた両手が今更のようにズキズキと痛んだ。
「一真君……」

振り向くと、橋の入り口に軽く息を切らせた一真が立っていた。