春宵の邂逅

24話



トンッ

水面を蹴った音が耳に届いた時には赤い光が迫っていた。
(速っ)
赤い光の中で影が動いた。

ドッ

反応する間もなく鳩尾に痛みが走る。
蹴りにしては衝撃が軽いので、恐らく拳が入ったのだろう。
「が、あ……」
膝をつくと胸元まで水に浸かった。
「……水の中にいる以上、勝ち目はありませんよ。続けたいなら、最低でも同じ場所に立ってください」
「んなこと、言われなくったってなぁ……!」
できるならば、とっくにやっている。
さっきから何とかしようとしているが、足は水底を蹴ることはできても水面まで上がることはできない。
「……さっきのはまぐれだったってことか……」
「う、うるせェ!」
繰り出した拳を軽くかわし、望は手首を掴んだ。
「少し頭を冷やしてください」
「なっ!?」
恐ろしい力で引っ張られ体が川から宙へ躍り出た。
視界がぐるりと回転する。
一瞬、見下ろした望の姿がぐんぐん遠ざかり、暗い川面が眼前に迫る。
何が起きたのかを理解した時には水面に体を打ち付け、水の中に沈んでいた。
(片手で投げた!?)
体の痛みよりも、あの細い腕で軽々と投げ飛ばされたことのほうが衝撃だった。
真っ暗な視界の中を僅かに光る大きな気泡が上がっていく。
(これが鎮守役……)
喧嘩で、部活で、いろんな奴と戦ってきたが、ここまでこてんぱに叩きのめされたのは初めてだ。
立ち上がる気力も湧かず、ぼんやりと水面に浮かんで空を見上げる。
少し顔を上げると、暗く沈む橋とその手前に揺らめく赤が見える。
僅か数十メートルの距離がとてつもなく遠くに思えた。
(詩織……。怖い思いしてんだろーな……)
あんな不気味な奴にとり憑かれて。
知らない奴らに取り囲まれて。
きっと泣いている。
妹が大変な時に、こんなところで、自分は何をやっているのだろう?
(早く行ってやらねェと……)
だが、どうやって?
どうやって、望を突破する?
あんな反則のような化け物をどうやって……?
弱点らしいものはない。
一度だけ拳が当たったのだって、相手が油断していたからで――。
(あれ……?そーいえば、なんか変じゃねェか……?)
一真はあることに気づいた。
停止していた思考が急速に復活する。
だらりと浮かべていた腕を水中に伸ばす。
予想通り、流れは緩い。
(待てよ、あの時……)
自分の左腕をさすり、確信する。
もしも、この考えが当たっているならば――。
(急がねェと……!)
どのみち、確かめたければ自分も霊力を使うしかない。
この結界に入り込んだ時のように。
(入ってきた時は、確か、目を閉じて……、オッサンが言った通りに)
眼を閉じ、冶黒の言葉を反芻する。

『全身に気を巡らせ魂と肉体を一体化させることで、霊獣の力を発現させることができる』
『全身に霊力を巡らせれば、水の上に立つくらい簡単ですよ』

冶黒の言葉に望の言葉が重なった。
(風……、風の音は……)
川の流れの中に微かな風音が混じっている。
耳に全神経を集中し、風の音だけを追う。
風音が変化し、耳の奥で渦巻いていく。

――聴こえる……

魂の声が。
内に住まう獣の唸りが。
脳裏に碧の光が溢れた。
非現実はその景色は、夢を見ているようだ。
光りの中心で碧の眼と目が合った。

‘どうする?’

光が問うた。

‘封を解くか?’

心の奥底から湧き上がった碧の破片が過っていく。
曇りガラスに映ったように霞んだそれは酷く懐かしかった。

――ああ、いかなくちゃな……

夢現の中で応える。

‘輪廻に加わり、現に堕ち、ただ人として、時を待つのではなかったのか……?’

――風が呼んでる……。時が来たんだろうぜ……

碧の眼が笑った。
頷いたようにも見えた。

‘ゆくか……’

碧が弾けた。
重りを外すように体が軽くなっていく。
意識は夢現の中から目覚め、現へと戻っていく。

(これで……)

――もう後戻りはできねェな……

自分の声が心の奥底で呟いた。




冶黒はふと箸を止めた。
談笑していた宗則が不思議そうな顔をした。
「冶黒様?如何なされましたかな?」
「これは失敬。今宵は随分面白い風が吹きおると思ったまでじゃ。それにしても、望殿はなかなか、情の深い御方じゃのう……」
「申し訳ございません。どうも巡察が長引いているようで……」
冶黒の隣に置かれた座布団は空いたままだ。
霊山の重鎮をもてなすのは、当代の主座の役目のはずだった。
もっとも、未成年の望が酒席につくわけにいかないので、どのみち、宗則と冶黒の談笑が主になっただろうが。
「お気になさいますな。お勤めを優先されるのは主座として当然じゃ。鎮守役の現状を考えれば無理もなかろうて。まして、今宵の邪は強烈な邪気を放つ大物……。宵闇が出撃しても手こずるやもしれぬ……。宵闇匹敵と名高い望殿のお手並みを拝見する、またとない機会に恵まれたものじゃ」
「勿体なきお言葉でございます。霊山は孫を高く評価してくださっておりますが……、腕は立っても、まだまだ全てにおいて幼い未熟者にございます。とても、宵闇の方々と比べて頂けるほどでは……」
「ほっほっほ。先代の主座殿は随分と手厳しいのう。宵闇とて、若い者は似たようなものじゃ。やれ精鋭じゃ、やれ高位の天狗じゃと言うたところで、霊格が高いだけの幼子よ。皆、それぞれに取るに足りぬことで悩んでおりまするぞ。望殿とさほど変わらん。それとも、何か御心配事でもおありかな?」
「冶黒様のお耳に入れるほどでは……」
「どれほど些細なことでもお話しくだされ。ご本人の前では口に出来ぬこともおありじゃろう。格が高い者の扱いは、ワシらのほうが慣れておりますからの」
少しの躊躇いの後、宗則は「では、」と口を開いた。
「……ご存じの通り、孫は物心ついた時から頭抜けた霊格の高さで、教わりもせずに神通力すら操ることができました。我々も、あの桁違いの霊格にどう接して良いものかわからず、必要以上に気を遣ってきたのが悪かったのでしょう……。あの子は他人に心を開くのがどうにも苦手でしてな……。主座となった今も、独りで戦うことしか知りませぬ……。隣に立てる者がおらぬ故と目を瞑ってまいりましたが……、人を率いる身でありながら、いつまでもあれでは……」
冶黒は頷いた。
「格が高い者、特に宵闇となりうる者は、その傾向が強いものじゃ。人の世で向けられた奇異の目に耐えられず、心を閉ざして入山してくる者も多い……。それでも、同じ力を持つ者達と共に在るうちに変わってゆくものじゃが……。望殿は可哀想じゃの。既に宵闇の域じゃというのに、まだ半覚醒ゆえ霊山にも入れぬ。人の世でお辛いことも多かろう。
周りに本心を晒せぬのも仕方あるまいて……」
黒い瞳が障子を見やった。
「望殿のご不調は、お疲れだけが原因ではないのやもしれぬな……。霊力は魂の力、心の深淵より湧き上がる願う力じゃ……。人の世に希望を見いだせず、孤独の中で邪と戦うだけの日々では魂も翳ってしまうからのう……」
宗則は不安を隠さず、冶黒を窺った。
「……冶黒様は、望が人の世で生きていくのは難しいとお考えですか……?」
「さて、それを判ずるには望殿にお会いせんといかんのう。じゃが、そう結論を急ぐ必要もないじゃろう……」
信濃の霊山の重鎮は笑みを浮かべて盃を手に取った。

「炎は風に煽られて勢いを増す。霊山まで行かずとも、この町には良い風が吹いておる。いずれ、遙かなる高みへ運んでくれる風がのう……」