春宵の邂逅

22話



星が瞬く空、黒い川面、暗く沈んだ橋……。
結界の中はそれまでと全く同じ景色が広がっていた。
「……オレ、ホントに結界破ったんだよな……?」
あの手応えは現実だった。
熱さも、痛みも、包帯や袖が焦げる臭いも、肉が焼けていく嫌な臭いも。
(手……、スゲエことになってんだろな……)
手の平がヒリヒリと痛む。
気が進まないが詩織を探す前に火傷の具合を確認しておかないとならないだろう。
恐る恐る両手を開いてみる。
「え……」
手の平の包帯はほとんど焦げ、隙間から覗く手は真っ赤。
それだけだ。
覚悟していたような大火傷には程遠い。
(ウソだろ!?ヤバい臭いしてたのに……ん?)
手の周りに青白い光の粒が舞っている。
火傷に光が触れるたびに痛みが治まり、皮膚が基の色に戻っていく。
光の出所を辿れば、シャツの裏側で青い光を灯す一枚の符に辿り着いた。
冶黒にもらった霊符だ。
(スゲエ……!あのオッサン、やるじゃねェか……!)
せっかくもらったからと半信半疑で貼ってみたが、予想を超えている。
「さて、詩織を探して……、その前に先輩探さなくちゃな……。あれ?そーいえば、先輩にもう一コ聞くことあったような……?」
何かが引っかかった。
詩織がとり憑かれた時、何かを見た。
望に関係があることだったような気がするが、あの時は頭が真っ白で、詩織の豹変以外はほとんど覚えていない。
緊急性は低いが、重要なことだったような――?
「……まあ、いっか。先輩に会ったら思い出すかもしれねーし……うをを!?」
自分の足元を凝視した。
立っている場所は川原ではなく、川の上だった。
「これって、浮いてんのか……?」
足がうっすらとした緑色の光を纏っている。
歩けるのだろうかと足を踏み出してみる。

音も立てず、左足は川面を踏んだ。
地面と同じように。
屈みこんで触れてみた手は水面を抜け、パチャッと音を立てて水に濡れた。
「す、スゲエ!川の上歩いてるじゃねェか!結界の中ってスゲェんだな……!」
「……結界は関係ありません。君が自分の霊気を紡いで現の制限を断ち切っているんですよ……」
「え?」
聞き覚えのある声に振り向くなり、ガクッと足元が抜けた。
「な、何イイイイイイ!?」
まるで落とし穴に引っかかったように、重力に引っ張られる。
「ど、わあああああああああああああああっ!?」
水しぶきと共に屈んだ姿勢のまま川にドボンと落ちる。
「浅瀬橋」と言うわりに、川の真ん中が深いのを思い出したのは、ぐっしょりと頭の先まで春の冷たい水に浸かった後だった。



「北嶺さん、こっちだよ!」
「うん……!」
大通りを並んで走りながら、彰二は頭を抱えた。
「まさか、鎮守様のお守りを持ってなかったなんて〜〜!滅茶苦茶だよ、斎木君……!」
「このお守り、そんなに大事なの?」
光咲はポケットの中の木符を確かめた。
「大事っていうか……、それがないと斎木君が危険っていうか……」
曲がり角で彰二は立ち止まった。
差し出した指にモンシロチョウが舞い降りる。
チョウは溶けるように姿を変え、一枚の紙切れになった。
鎮守隊の連絡手段らしく、傍で見ているよりも使い勝手がいいらしい。
金平糖をもらいに行った時に、望が使っていた。
「北嶺さんは霊体と肉体のズレを予め調整してたから、そんなに違和感なかっただろうけど……。覚醒が始まると、人によっては霊体が急成長するんだ。一時的に肉体からはみ出ることもあって、邪につけこまれることもあるんだ。霊体の急成長は格が高い霊筋の家系ほど多くて、今回の詩織ちゃんは典型的な覚醒トラブルだよ。あそこまで格が急激に高まるのは珍しいんだけどね……。組長は自分の判断ミスだって言ってたけど……、あそこまでの急上昇は二十年に一度、あるかないかくらいらしいんだ……」
「そう……」
「詩織ちゃんより格が高い斎木君が呼応して急覚醒したら、バランスが崩れるどころじゃないかもしれないんだ。ただでさえ、邪に攻撃されて霊体が眠りから覚めようとしてるんだから……。霊体が肉体を喰い始めるかもしれないし、強力な邪を呼び込みかねない。それを抑えるための札だったんだけど……。あ、いたいた」
彰二は塀の上に向かい、袖を捲った。
手首で水晶をあしらったブレスレットが光る。
「邪の追跡中なんだ。協力をお願いできる?」
塀の上にいた猫が小さく鳴いて立ち上がった。
二つに分かれた尻尾が白く光る。
猫はトコトコと塀の上を歩いて行ってしまった。
「あの猫ちゃん、尻尾が……」
「このあたりを縄張りにしてる猫又だよ。あいつに話を通しておくと、ここらの猫を避難させてくれるんだ」
「鎮守隊って、戦ってばっかりだって思ってた……」
「直接戦うのは鎮守役だけだよ。僕達、補佐は邪を探して追い詰めたり、巻き込まれた一般人の誘導とかが仕事なんだ。そりゃ、危険っていえば危険だけど、鎮守役に比べたら何倍も安全だよ。急ごっか」
彰二はまた走り出した。
光咲も慌てて続く。
「どこに行くの?」
「浅瀬橋。さっき連絡が来たんだ。鎮守補佐の先輩達が包囲網を張ってる。結界の中に入れば、斎木君の居場所を探してもらえるから!」



「ゲホ、あ〜〜、クソ!熱いと思ったら次は冷てェし……」
乾いた砂利に染みが広がった。
スニーカーがぐしょぐしょして気持ち悪い。
「なんだってんだよ、ったく」
髪から流れる水を指で払い、シャツの裾を絞る。
ボトボトと大粒の水滴が落ちた。
いっそのこと脱いで絞りたいところだが、そんなことをしている時間はない。
砂利を踏みしめる音がした。
「全身に霊力を巡らせれば、水の上に立つくらい簡単ですよ……。
業もなしにやってのける人なんて初めて見ました。僕の他にね……」
「先輩……」
貸したトレーナーではなく、黒いシャツの上に空色のパーカーを纏った望は寂しそうな顔をした。
「自分では普通にできることだったから、周りが驚くのが不思議だったけど……。術も何も知らない、覚醒しているかもわからない人が、鎮守補佐レベルのことを平然とやってのけるのって……、こうして他人がやってるのを目にすると怖いものですね。化け物って陰口叩かれても仕方ないなぁ……」
「先輩も……?」
微かに笑った望の輪郭を赤い光が縁取った。
「え……」
一真は眼を見張った。
パーカーが赤い光で薄紫に染まり、赤が髪を深める。
それは、あの夜に橋の上から見た少年に酷似していた。
いや、似ているどころではない。
(思い出したぜ……)
詩織の部屋に入ってきた望が赤い光を纏っていたことを。
五色橋で邪に襲われていた少年とよく似ていたことを。
「……そっか。五色橋にいた鎮守はアンタだったってことか……。なんか会ったことあるような気がしてたのは、そーいうことか……」
望は困ったように笑った。
「隠すつもりはありませんでしたよ。まだこちら側に来ていなかった人間に名乗るわけにはいかなかった……、それだけです」
赤が揺れる瞳が真っ直ぐにこちらを射た。
「武蔵国現衆西組組長にして、西組鎮守役主座・城田望――。鎮守役の名において本件の関係者である君を保護します」
「なに?」
「覚醒したばかりの不安定な隠人を、邪に近づけるわけにはいきません。それに、その霊気……、君は木の属性で、邪は金の属性。相性は最悪です。水の上にもまともに立っていられないようじゃ、ついてきても殺されるだけですよ。僕達を信じて、ここで待っていてもらえませんか?」
予想していたが、面と向かって断られると穏やかではいられなかった。
思わず拳を握りしめる。
「……ここまで来て引き下がるって思ってんのか?」
「いいえ」
望はパチリと指を鳴らした。
川原と川を覆うドームが赤く浮かび上がった。
「ここは僕が張った結界。妹さんは橋の向こうに潜んでいます。見つかるのも時間の問題でしょう。それまでに、」
琥珀の瞳から笑みが消えた。
「僕を倒せますか?」
「はぁ!?何言ってんだよ?アンタしか邪を鎮められねェんだろ!?あんな怪我してたのに、また怪我しちまったら……!」
「僕の怪我より、自分の体を心配した方がいいですよ」
「なに?」
望は嘲るように笑った。
心底馬鹿にしたような目は、それまでと別人のようだ。
「……そういえば、僕のことを随分心配してくれてましたね。邪に殺されてしまったんじゃないかって……」
「んだよ、心配しちゃいけねェのかよ?」
望は冷たく笑った。
「ええ、迷惑ですよ。自分の身も護れない一般人に正義面で助けに入られても、邪魔なだけです。だいたい、怪我なんて数時間もあれば治るんですよ。それを何週間も引きずった挙句に、覚醒もしていないのに鎮守隊に入ろうだなんて……、とんだ自己満足ですね。戦力の足しにもならない荷物を置く余裕なんて、僕達にはないっていうのに」
「んだと!?」
カッと頭に血が上った。
あの夜――、傍観するだけで終わってしまったことを、どれだけ悔いたかわからない。

目の前で危険に陥っていた人を見捨ててしまったことになるのではないか――?
何かできたのではないか――?

そんな後悔がわだかまっていたからこそ、彼らの役に立ちたいと思ったのに――
(よりによって、アンタが否定すんのかよ……!)
怒りと空しさが入り混じった感情がグルグルと回った。
「試してみますか?」
不敵に笑い、軽く構えたその手には何も持っていない。
「……丸腰でいいのかよ?アンタ、刀使うんだろ?」
「いりませんよ。覚醒したばかりの隠人なんて素手で十分です。刀も持っていない僕に手も足も出なかったら、いくら君でも諦めるでしょう?」
ブツッと何かが音を立てて切れた。
「い、言いやがったな……!後悔すんぜ……!」