春宵の邂逅

21話



裏口の鍵をかけ、光咲は小さく息をついた。
(ごめんなさい、若先生……)
忙しい中、診察に来てくれる気真面目な先生の顔を思い浮かべると申し訳なかったが、仕方がない。
留守だとわかれば病院に戻るだろう。
電話をかけても良かったが、一真の邪魔になるかもしれないのでやめておいた。
松本医院の本当の姿は鎮守隊や隠人専門の病院だ。
病院専用の緊急連絡回線もあると聞いている。
下手に連絡すると一真の行動が鎮守隊に筒抜けになってしまいかねない。
敷地の外に出ようとすると足が勝手に震えた。
(怖くない……!怖くないんだから……!!)
自分に言い聞かせ、大きく深呼吸する。
外に出れば、そこはもう一年前に視た世界。
人ではなく、隠人が視る世界なのだ。
(よかった……。何にもいない……)
通りをきょろきょろと確認し、とりあえず安堵する。
「どっちに行ったんだろう……」
詩織が窓を飛び出ていくのは見ていたが、どこへ向かったかまではわからない。
とりあえず、大通りに出てみようと数歩歩いた時だった。

ズズッ

何かを啜る音が横手から聞こえた。
邪は霊力を喰らう――。
葉守神社で聞いた邪の特徴がサッと頭の中に浮かんだ。
きっと、これは霊気を啜っている音に違いない――!
弾かれたように目をこらすと、茂みが動き、何かがもそもそとしている。
一年前の恐怖が瞬く間に蘇り、光咲は万一に備えて一真の家から拝借してきた庭掃除用の箒を振り上げた。
(私、頑張るからね、一真君……!)
恐怖を押し殺す為に目を閉じ、大体の見当で振り下ろす。
「えーーーーいっ!」

ガッ

箒が何かに挟まった。
恐怖で一瞬、体が強張る。
「い、一年前の私とは違うんだからっっ!」
恐怖を打消し、光咲は箒から手を離し、同じく一真の家から拝借してきた防犯用の蛍光塗料入りボールを取り出し――、
「あ、悪霊退散ーーーーーーっっっっ」
「うわああああああ!?き、北嶺さんっっ!!僕だよおお!」
「え?」
恐る恐る目を開けると――、茂みの中から上半身を出した沖野彰二が真剣白刃取りのように箒を両手で挟み、ダラダラと冷や汗を流していた。




(南西の橋っていったら……、浅瀬橋だよな……)
角を曲がり、住宅地を走りながら、頭の中で記憶を手繰り寄せる。
町には橋が三つある。
大通りにかかる五色橋、葉守神社前の帆屋橋、そして、町の外れの浅瀬橋である。
冶黒が言った「金の気」の意味は分からないが、他に橋はないはずだ。
この四年の間に新しく造られていなければの話だが。
何度か角を曲がり、川原に下りる。
さらさらと流れていく川の上に闇に沈んだ橋がかかっている。
道路になっている橋はかなり大きく、川原から見上げるとかなり威圧感がある。
(誰もいねェ……)
息を整え、周囲に視線を走らせる。
昼間でも人があまり通らない町外れである。
日が暮れてからは余計に人も通らない。
橋の上を車が通っていくくらいだ。
(ピリピリしてやがるな……)
まるで剣道の試合会場のような緊迫した空気が川原に立ち込めている。
誰かがいるという証拠に違いない。
「……こーやってたっけ……」
冶黒がしていたように、目を閉じてみる。
それで何かできると思ったわけではないが、他のやり方を知らないので仕方がない。
五秒が経ち、十秒が経った。
目を開け、はあっと肩を落とす。
「……やっぱダメか……」
真っ暗になった視界に何かが視えるわけでもなく、ただ川を流れる水の音と橋の上から聞こえる車のエンジン音、ごうごうという風の音が聞こえただけだった。
(……五色橋の時は足音が聞こえて、空気が揺れたっけ……)
耳を澄ましても足音らしいものは聞こえない。
暗闇に目を凝らしてみても、手を伸ばしてみても、あの日のように何かに触れることはなかった。
(チクショ、ここまで来て……!)
こんなことならば、冶黒に結界に入る方法を聞いておけばよかった。
彼らの姿が普通に視えたので、なんとなく結界も視えるのだろうと思っていたが、甘かったらしい。
「クソ、沖野の札みてーに光ってくれりゃわかりやすいのによ……」
頬に触れる空気は痛いほどだ。
ここで何かが起きているのは間違いない。
そして、その中心に詩織がいる――。
『心を研ぎ澄まして風を聴き、内なる意志を高め、己の内なる獣を呼び起こすのじゃ。全身に気を巡らせ魂と肉体を一体化させることで、霊獣の力を発現させることができる』
冶黒のアドバイスを思い起こしてみるが、拳に気合を入れて拳を突き出してみても、スカスカと空気を殴るだけだ。
「あ〜〜〜、クソ……!!」
砂利の上にどっかりと胡坐をかく。
(どうする?沖野を探して聞き出すか、冶黒を探して聞き出すしかねェけど、戻って探してる時間なんてねェ……)
彰二が先回りをして結界の内側に入っていてもおかしくない。
冶黒がどこに行こうとしていたのかもわからない。
奴らはカラスだ。
山に帰っていてもおかしくない。
八方ふさがりだった。
(こーしてる間にも、先輩が詩織を見つけてるかもしれねェってのに……!)
詩織を見つければ、望はまた日本刀を抜くのだろう。
わかっている。
それは邪を退治する為にやむを得ないことだ。
五色橋にいた黒い手のようなものが邪ならば、刀くらいは必要だろう。
だが、今回は違う。
鎮守が刀を向ける先にいるのは詩織だ。
彼らが退治する邪には、詩織のような、とり憑かれた人間も含まれる――。
(詩織が見つかる前に、先輩に会わねェと……!)

光咲が言っていた「退治」の意味――。
詩織の邪を追い出せるのか――?
詩織は無事に戻ってくるのか――?

どうしても確かめておきたかった。
彰二を信じていないわけではない。
だが――、巣食われている詩織の兄として、刀を振るう鎮守本人に直接問いたい。
彼の口から答えを聞きたい。
身内ゆえの我儘だということくらいわかっている。
だが、どうしても退くわけにいかない。
(どうする……!?沖野か冶黒を探すか、それとも、他の鎮守らしい奴を探すか……!?どれが一番、早く見つかる……!?)
気持ちは焦るのに時間だけが過ぎていく。
数分後、頭を悩ませるのに疲れた一真は立ち上がった。
「ったく、『心を研ぎ澄まして』つったって……、やり方わからねェし。アドバイスなら、もっとわかりやすく言ってくれってんだよ」
結局、この場で結界を探すのが一番手っ取り早いという結論に達した一真は、冶黒の「心を研ぎ澄まして」のくだりを実践してみることにした。
(もっかい目ェ閉じるてみるか……)
光咲が時々やるように深呼吸をして目を閉じてみる。
やはり、何も見えなくなっただけで変わらない。
聞こえるものといえば、水が流れていく音と、橋の上を行きかう車のエンジン音、少し大きいのは大型トラックが通って行ったのだろう。
あとはごうごうという風の音――。
(待てよ、風!?)
眼を開け、土手を見上げた。
「やっぱ、吹いてねェ」
土手に生えた雑草は静かだ。
背の高い草も生えているが、時折、小さく先端が揺れる程度――、唸っているような激しい風は吹いていない。
再び眼を閉じる。
(あの音が……!)
冶黒の言っていた「風」ではないだろうか。
川の音、車のエンジン……、全てを無視して風の音だけを追う。
(聴こえる……)
音はどこかから吹いてきているようだ。

ぅ、うううぅぅぅぅうううううぅぅぅぅぅううううう……

眼を閉じたまま、音が大きくなる方向へと歩き出す。
スニーカーの下の感触が硬い凸凹から滑らかなものに変わった。

うううぅぅぅぅうううううぅぅぅぅぅううううう……

「そこだ!!」
眼を開ける。
正面の空間に揺らぎが生じた。
突き出した手に硬い感触が触れる。
「ぐ……、重て……」
五色橋で触れたものよりもずっと硬くて重い。
あっちが開閉可能な窓ガラスだとすれば、こっちは強化ガラスの板だ。
「開きやが……れ……!」
両の手の平で思い切り揺らぎを押す。
揺らぎが赤く光った。

バリッ

「あ、熱っ」
手の平と揺らぎの間で火花が散った。
思わず手を離す。
「げ……」
手の平を覆う包帯が茶色く焦げている。
あのまま押していれば、手がどうなっていたか――考えるだけでもゾッとした。
「これ以上近づくな」――、そう言われたような気がした。
「へ、面白ェじゃねーか……」
沸々と湧き上がってくる熱い何かに笑みを浮かべる。
「絶対!こじ開けてやるぜ!!」
まだ残る揺らぎに勢いをつけて両手を押しあてる。
包帯から煙が上がり、ジュウっと肉が焦げるにおいが鼻をついた。
揺らぎを染める赤が熱した墨のように熱を放ち、押し当てている手は熱いのか痛いのかすらわからない。
「開……けつってんんだ!このヤロおォオオオオオオォオオオオオオ!」
何かが体の奥で弾けた。
両手が碧の光を放つ。

バリッバリバリバリバリ……

火花が川面に散った。
宙にヒビが入り、ガラスのような音を立てて割れていく。
硬い壁のような感触がぐにゃりとゼリーのように柔らかくなり、手ごたえが消えた。
「うを!?」
手に全体重をかけて押していた一真は思いきり前に倒れ込んだ。
慌ててバランスを取り、数歩たたらを踏んで何とか転倒を免れる。
「なんだ!?」
振り向いた先では、ぐにゃぐにゃと夜色のゼリーが閉じていくところだった。
「結界突破、ってことだよな……」
すっかり色の変わってしまった袖口で額の汗を拭う。
焦げた布がボロッと落ちた。