春宵の邂逅

18話



誰もいない部屋の隅に蹲り、光咲は金平糖を口に含んだ。
コリコリと噛んでみても、重く沈んでしまった心は浮上しない。
ぼんやりと眺めていた部屋の隅に見覚えのあるものを見つけ、引き寄せられるように、のろのろと立ち上がった。
「これ……」
無造作に置かれたスポーツバッグにぶらさがっていたのは、四年前、転校前日の一真に渡したお守りだ。
「まだ持っててくれたんだ……」
随分と汚れているが【災難避け】の文字はちゃんと読み取れる。
思わず手に取ったお守りがぼやけた。
「一真君……、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
半分ほどになった金平糖が音を立てて潰れた。
――こんなことになるなんて……
お守りを離し、目を閉じた。
光咲に覚醒の兆が表れたのは、一年前――、新学期が始まって間もない頃のことだった。



「昨日、一組の林君が『蛇』に追い回されたらしいよ」
「えーー、怖〜い!」
「ねえねぇ、光咲のお父さん、何か言ってないの?刑事でしょ?」
「ごめん、そういうことは何にも聞いてないから……」
中学生になってから、「鎮守様」や「蛇」に出会ったという噂話が話題になることはあった。
だけど、それはあくまで「噂話」だった。
「鎮守様」のことは、浅城町の住民なら、皆が知っていた。
だけど、「鎮守様」は「七不思議」の中の話――、馴染みがあって、皆が知っているけれど、自分達とは関係のない、遠い世界の話だった。
鎮守様の話をしていても、すぐに話題は次に移り、誰もそれ以上を深く考えたりしない。
「蛇に襲われた林君」が、襲われた後、どうなったかなど――、気に留めたりしなかった。
それもそのはずで、蛇に襲われたという人達は、数日休んだ後、平然と登校してきて言うのだ。
「風邪を引いただけ。蛇?そんなの噂だよ」と――。

そんなある日、光咲に異変が起きた。
右手が急に熱くなり、手の平にホクロのようなものが円を描いて点滅し――、目に映る景色がガラリと変わった。
それまで普通に歩いていた歩道を人に混じって浮遊する灰色の影が視えるようになった。
誰もいない教室や、日が暮れていく校庭やグラウンドにぽっかりと浮かぶ、人形やお面が視えた。
最初は疲れているのだろうと思っていた。
二年生になり後輩ができて、部活をはりきりすぎたのだろう、と――。
だが、ある夕暮れ――、グラウンドで練習する野球部の傍で浮かんでいたソレと目が合った。
視線を逸らせずにいると、ニュウッと笑みを作ったソレは骸骨のように笑った。
‘おうおう、可愛いお嬢ちゃん。ワシが視えとるのかのう?どれ、もうちょっと格が高くなったら、遊ぼうなぁ……’
カチカチと歯が噛み合う音が耳元で聞こえたような気がした。
背筋を悪寒が走り、頭が真っ白になった。
足が震え、その場を離れることもできず、立ち尽くした。

カキンッ

野球部のノックの音に弾かれたように我に返り、前だけを見て駆け出していた。
(逃げなくちゃ……!逃げなくちゃ……!!)
追いかけてきているような気がして、下校中の小学生の足音さえ怖かった。
(どうしよう……!どうしよう……!!)
いつの間にか葉守神社の境内にいた。
悪霊(らしいもの)=神社でお祓い、という単純な発想だったように思う。
(誰か……!神主さんは……)
神社は静かで誰もいない。
思えば、祭りや正月の賑わっている時にしか来たことはない。
遠くでカラスが鳴いた。
夕暮れ境内に不気味に響いた。
(ど、どうしよう……!そ、そだ、お守り売ってるところがあったっけ……!)
三年前、一真にお守りを買った日を思い出す。
あの時は年末が近かったせいか、人がいっぱいいて、聞いたら社務所まで連れて行ってくれた。
記憶を頼りに社務所に着いたが、受付には誰もおらず、窓も閉まっている。
呼び鈴を押そうとした指が止まった。
(……なんて言えばいいんだろ……?)
「悪霊が見えるようになって、話しかけられた」とでも言えばいいのだろうか。
そんなことを言っても笑われるだけではないのだろうか。
いや、笑われるだけならばいい。
頭がおかしいと思われて、学校や家に連絡でも入れられたら……。

「ご用ですか?」

「きゃああああああああああああっ!?」
横手からかけられた声に跳び上がらんばかりに驚き、鞄を落としたことにも気づかないでへたり込んだ。
「大丈夫?……あーあ、鞄の中ぶちまけちゃったなぁ……」
竹箒を手にした袴姿の少年は砂利の上に散らばった教科書やポーチを集め始めた。
両手の甲を隠す黒い手袋が白い袴に少々浮いている。
(神社の人……?)
同世代で葉守神社にいるということは、この少年が噂の「城田先輩」なのだろうか。
体が弱く体育は全て見学しているとか、あの番長と仲が良いとか、巫女と間違われて酔っぱらいに襲われたとか、公園で雀と語り合っていたとか、夜中に屋根の上を走っていたとか、とにかく妙な噂が多い人だ。
(この人……、ちょっと一真君に似てる……)
顔つきは全然違う。
同じ茶系の髪だが、硬い髪質の一真とは対照的だ。
だが、雰囲気のようなものがどこか似ている。
(一真君……。一真君なら、あの悪霊の話、聞いてくれるかな……)
三年前に引っ越していった幼馴染に急に会いたくなった。
彼はどんな馬鹿らしい話も笑わないで聞いてくれた。
転校してからも何度か手紙を送ったが、彼は元々筆マメではない。
文通は一年ほどで途絶えてしまった。
妹達の方はといえば、筆不精の若菜が原因で途絶えたようだった。
メールアドレスも何度か書いたが、大雑把な一真は気づかなかったのだろう。
本文だけを読んで遊びに行く姿が目に浮かぶようだったので、諦めた。
そもそも、電波が不安定なこの町では、携帯端末からのメールよりも手紙のほうが確かなので、一真が気づいていたとしても意味がなかったのかもしれないが。
黙々と散らばったものを集めていた少年は、投げ出されたままの鞄に荷物を詰め直して笑った。
「これで全部だと思うんだけど……、立てる?」
「あ、ありがとうございます……」
自分がへたり込んだままたったことに気づき、慌てて立ち上がる。
「ご用は?相談なら、社務所の中で伺いますけど……」
「え?あ、い、いいです!大丈夫ですから……!!」
咄嗟に断ってしまってから「しまった」と思ったが、言い直す勇気はない。
「……そう?暗くなってきてるから気をつけて……」
少年は腑に落ちない顔で鞄を差し出した。
(ど、どうしよう……、今なら……)
優しそうな人だ。
真面目に聞いてくれるかもしれない。
だが、初対面の相手が霊を見たとか言ったところで、信じてくれるのだろうか。
頭がおかしい子だと思われるだけではないのだろうか。

――話す、話さないで帰る、話す、話さないで帰る、話す、話さないで帰る、話す……

「……あ、……ありがとうございます」
葛藤も空しく、最後まで勇気は出なかった。
鞄を受け取ろうと差し出した手に少年の目つきが変わった。
「ちょっと待って!」
「え……」
「その手の平!見せて!」
右手首を掴み、少年は点滅するホクロを凝視した。
「左手も……見せてくれる?」
「え?は、はい……」
勢いに押され、左手を開く。
琥珀の瞳が両の手の平と光咲の顔を順に眺めた。
「珍しいタイプだな……。格も肉体も全く変化してないのに霊紋だけが開こうとしてるなんて……。だから、あんなに怯えてたのか……」
「ちもん……?」
「そのまま、手を開いてて」
宥めるように言い、少年は鞄をそっと地面に置き、光咲の右手の平に自らの右手を重ねて瞼を閉じた。
(温かい……)
手袋に覆われた手に赤い光が灯る。
手が離れた時にはホクロは消えていた。
「怖かったでしょう?もう大丈夫ですよ」
少年は社務所のドアを開けた。
「あの……」
「あ、ごめん、僕は城田望。表向きは、この神社の見習いです」
「表向き?」
「詳しいことは中でお話ししますよ。隠人の仲間として」

それが、この町の鎮守様との出会いだった。