春宵の邂逅

16話



奥の部屋から詩織の楽しそうな声がした。
学校から帰った一真は首を傾げた。
「詩織?」
両親は上司の親が亡くなったとかで葬式の手伝いに行っている。
今日は夜遅くまで帰ってこないはずだ。
その証拠に、テーブルの上に二人分の夕食と母からのメモ書きが置かれている。
鞄を置き、奥へ向かう。
(やっぱ誰か来てる……)
話し声は詩織のものだけだが、時折、笑い声が聞こえる。
誰かいるのだろう。
ようやくできた友達が引っ越してしまってからというもの、また学校を休みがちになってしまった妹をクラスメイトが訪ねてきてくれたのならば大歓迎だ。
おやつでも用意してやろう。
「詩織?誰か来てんのか?」
半分開いていたドアから部屋を覗き――、一真は硬直した。
夕陽が差し込む茜色の部屋の中で詩織が楽しそうに笑っていた。
しかし、部屋にいたのは詩織だけだ。
パジャマ姿で床に座り込み、詩織は俯きがちにクスクスと笑った。
カーペットの上に並べられた金属製の置物――、ネズミや牛、馬、羊、蛇……、十二支を象った十センチほどの動物達に向かって。
「あ、お兄ちゃん!」
入り口で立ち尽くす一真に詩織は無邪気に微笑んだ。
「見て!この子達、詩織とお話ができるんだよ!お兄ちゃんにも紹介するね!」
羊の置物を手に取り、詩織は屈託なく笑った。
「この子がね、メリーさんっていって……」
「詩織っっ!」
思わず細い両肩を掴んだ。
羊がコロコロと転がった。
「お兄ちゃん……?」
「それは置物だ!しっかりしろ!!」
「ふぇ?でも、お話しできるよ……?」
大きな瞳を覗き込む。
「オレが遊んでやるから!話したいことがあるんなら聞いてやるから!いくら寂しいからって、そーいうのと話してちゃダメだ!!いいな!?ダメだからな!?」
「?……う、うん……。わかった……」
両親から槻宮学園の受験を頼まれたのは、その一週間後の事だった。


やや黄ばんだ蛍光灯の光が目に飛び込んだ。
(眩しっ)
寝返りを打とうとして腹に痛みが走る。
一気に意識が覚醒した。
「詩織は!?」
ズキズキとする腹を押さえて飛び起き、見慣れた自分の部屋を見回す。
「一真君!よかったぁ……!」
布団の傍にヘタッと座り込み、光咲は涙ぐんだ。
「すっごい血が出てて、どうしようって思ったんだから……!」
「それより詩織は!?どーなったんだ!?」
「詩織ちゃんは……」
部屋には他に誰もいない。
「そうだ、先輩は!?まだうちにいるのか!?」
身を乗り出すと、両手に巻かれた包帯が目に入った。
「ちょ、ちょっと落ち着いて!ね?」
「オレは落ち着いてる!」
「じゃあ、少しだけ待って!」
光咲は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
それでも落ち着かなかったのか、ポケットから金平糖を取り出して口に含んだ。
「……詩織ちゃんは……、窓から外に飛び出していったの。城田先輩達が追いかけてる」
「じゃあ、先輩はもう行っちまったのか?」
「一真君の手当てして部屋に運んでくれて……、すぐに行っちゃった。起きたら、これを渡してって……」
白い手に乗っていたのは、ストラップほどの大きさの木の札だった。
葉守神社の名と読み方の見当もつかないような文字が墨で書かれている。
受け取った左手がチリチリと熱くなった。
「鎮守様のお守り。邪を退けてくれるんだって……。詩織ちゃんの覚醒に呼応して、一真君もいつ覚醒するかわからないから、これを持って家で大人しく寝ててって……。鎮守隊から松本医院に連絡を入れておくから、松本先生が来たら怪我を診てもらって、って言ってた……」
「光咲?」
隠人や鎮守を知っているような口ぶりに違和感を覚える。
一真の手当てと詩織の追跡をしなければならなかった望がゆっくりと光咲に自分達の事を説明する時間があったはずがない。
光咲が鎮守の話を聞いたとすれば――。
「もしかして知ってたのか?先輩が鎮守だってこと……」
数秒の沈黙の後、光咲は観念したように頷いた。
「私……、隠人なんだって……」
右手は握り締められている。
だが、あのホクロがまた点滅しているような気がした。
「そっか……」
普通の声が出た。
自分でも意外なほど頭は冷静だった。
「驚かないんだね……」
「いや、驚いてるけど……」
自分達の家系のことは望から聞いていたから、邪にとり憑かれたことも含めて詩織のことはどこかで受け入れている。
だが、光咲はそういうモノとは無関係だと、どこかで思っていた。
否、そう願っていただけかもしれない。
この町に住んでいる以上、彼女だって隠人である可能性は十分にあったのだから。
「詩織が強烈過ぎたっていうか……。光咲は、いつから知ってたんだ?」
光咲はポケットから金平糖を取り出し、口に含んだ。
「一年くらい前から。兆が出て、葉守神社に相談したの……。私は潜在的な隠人で、兆が表れてるって……。その時は、まだ兆も弱くて覚醒するかどうかわからなくて、術で抑えてきたんだけどね……。どんどん術が効かなくなってきてるんだ……。この調子だと、あと三ヶ月……、夏までには覚醒しちゃうかもって……」
まるでこの世の終わりみたいな口調で光咲は息をついた。
「別にいーじゃん、覚醒したって……。隠人って超能力者だろ?」
セピアの瞳がキッと睨んだ。
「違うよ……!隠人っていうのは、ただの超能力者じゃないの!」
「え……?」
いつになく激しい口調に呆気にとられる。
光咲がこんなに感情を露わにしたのは初めてかもしれない。
「隠人っていうのはね、霊獣の眷属……、霊獣の血を隠し持っている人のことなの!その血のおかげで超能力を使えるけど、覚醒しちゃうと……、力に呑まれちゃったり、さっきの詩織ちゃんみたいに邪を呼び寄せて巣食われちゃうんだって……!人によっては霊獣としての自我が出てきて二度と戻れなくなっちゃう……!化け物の予備軍なんだよ……!!鎮守様が毎晩、退治してる邪の中には巣食われた隠人もいるって……!」
光咲は両手で顔を覆った。
肩が小刻みに震えている。
「私も、覚醒したらさっきの詩織ちゃんみたいになっちゃうのかな……?あんな気持ち悪い悪霊にとり憑かれて……。一真君やお母さんやお父さん、若菜のこともわからなくなって、皆を殺そうとして……、鎮守様に退治されちゃうのかな……!?」
「……それは……」
何かを言わなければと思った。
だが、何を言っても気休めにしかならない。
隠人のことは、自分よりも光咲のほうがきっと詳しいし、あの詩織を目にして落ち着いていろと言うほうが無理だ。
正直なところ、一真だって、かなり堪えているのだから――。
俯いてしまった光咲の頭をポンポンと叩いた。
昔、癖の強い髪をからかわれて泣いていた時に、よくそうしたみたいに。
ただ、言葉は出てこなくても心は決まっていた。

――詩織を探さなければ……

脚に力を入れた。
目を覚ました時ほどの痛みもダルさもない。
「一真君!?何やってるの!?」
光咲が慌てて止めた。
「寝てないと!血は止まってるけど、絶対安静だって!お医者さんにちゃんと診てもらわないと……!」
「悪い、先生が来たら謝っといてくれ。
それと、これ」
光咲は戸惑いを露わにした。
「鎮守様のお守り……?どうして……?」
「光咲が持ってろよ。オレは護られなくても大丈夫だからさ」
「……どこに……行くの?」
「詩織を探しに」
光咲が身を乗り出した。
「だ、ダメだよ!そんなことしたら……!」
俯き、絞り出すように呟いた。
「今度こそ、一真君……、殺されちゃうかもしれないよ……?」
「殺される」――、その言葉が重く響いた。

『ありがとうね、お兄ちゃん。もう用済みだから死んじゃっていいよ』

先ほどの詩織の言葉が耳の奥に蘇った。
あの時、望がいなければ、きっと、自分も光咲も殺されていただろう。
「詩織」の言葉通りに――。
胸の前に浮き出ていた不気味なモノが邪だということはわかる。
だが、どうすれば詩織の体から追い出せるかなんてわからない。
光咲の言う通り、鎮守に任せるが正しいのだってわかっている。
だが――、
「ああ、そうかもな……」
「『そうかもな』って……、怖くないの……?」
瞳は涙で潤んでいた。
「怖くないわけじゃねェけど……、オレは……。オレがいない場所で、詩織が誰かを殺しちまうかもしれねェってことのほうが、ずっと怖いから……」

兄として――、詩織を守らなければならない。これまでも。これからも。
隠人として――、たぶん、自分は鎮守隊に関わらなければならない。望に会った時から、そんな予感がしていた。

詩織が覚醒し、光咲も覚醒する危険があるのならば、何も迷うことなどない。
「隠人が霊獣だろーが関係ねェよ。霊獣でも人間でも、光咲は光咲だし、詩織は詩織だろ?もちろん、」
先ほどから怪我もしていないのに熱くなっていく両の拳を握りしめる。
これが「兆」なのかもしれない。
「オレはオレだ。これからどうなるのかわからねェけど……、覚醒したとこで何にも変わらねェし、んなもんで変わってたまるか!ってな」
「一真君……」
ジャケットを羽織り、光咲の横を通り過ぎる。
「光咲はここで待っててくれ。嫌だったら家に帰っててもいいから」
座り込んだまま光咲は振り向いたが、ただストラップを握り締めているだけだった。
(遠い……)
初めて、光咲との間に距離を感じた。
彼女の瞳には恐怖が浮かんでいた。
それは詩織に対するものなのか、彼女の中に潜む霊獣の血に対するものなのか、一真に対するものなのか――、わからない。
ただ、あんな怯えた目で自分を見る光咲は知らない。

「……詩織を迎えに行ってくる……」

それだけを告げて襖を閉めた。
光咲は何も言わなかった。