春宵の邂逅

15話



穢れた気が眠りを遮断した。
(近い……)
意識を浮上させながら邪気を辿り、夢現の中で頭は分析を始める。
「……金の霊気か……。匠の結界を破ってくるなんて……」
瞼を上げ、望は重い体と痛む肩に小さく顔をしかめた。
悲鳴と何かが倒れる音がして建物が大きく揺れた。


「光咲!?どうした!?」
階段を駆け上がり、一真は息を呑んだ。
詩織の部屋の襖が全て外側に倒れ、向かいの壁際で光咲が愕然と座り込んでいる。
傍にマグカップと盆が転がり、零れたココアが血のように床に広がっていた。
「大丈夫か!?どっか痛いとこは……」
「か、一真君……!」
真っ青な顔で光咲は部屋の中を指差した。
カタカタと手が震えている。
「詩織ちゃん!詩織ちゃんが……!」
白い繊細な指が指し示す先――、薄暗い部屋の中にパジャマ姿の詩織が幽霊のように佇んでいた。
「詩織?」
片付いていたはずの部屋の中はめちゃくちゃだ。
布団は吹き飛び、勉強机はひっくり返っている。
それが、詩織を中心に外側に倒れていることに一真は気づいた。
まるで、詩織から爆風でも吹いたかのように――。
「おにい……ちゃん……」
長い前髪の下から虚ろな目が覗いた。
「こないで……。見ないで……」
詩織は右の二の腕を押さえ、訳のわからない呟きを繰り返すばかりだった。
(そういえば、腕がどうとかって言ってたっけか……)
異様な光景に立ち竦んだのは一瞬だった。
一真はいつもしているように妹に駆け寄った。
棒立ちしている詩織の正面に片膝をつき、目の高さを合わせる。
「腕が痛いのか?言ってくれねーと、わからねェだろ?」
「おにい……ちゃん……」
「ん?」
ドンッという衝撃が襲った。
腹に熱いものが走る。
「え……?」
「一真君!!」
光咲の悲鳴が遠く聞こえた。
「しお……り……?」
呆然と腹に刺さったモノと詩織を見比べる。
(いったい、何……が……)
白い――、包丁が一真の腹を深々と貫いていた。
ただし、詩織が包丁を手にしているのではない。
詩織の右手が包丁になっているのだ。
あまりにも非現実的な光景に思考が停止する。
「こないでって……いったのに……」
その眼には何の感情も浮かばず、口元だけが笑みを作った。
「なん……、で……」
「一真君!逃げてええええ!!」
マグカップが詩織の顔目掛けて飛来した。
顔色一つ変えず、詩織は一真の腹を貫いている右腕を引き抜き、マグカップを叩き落とした。
砕けたマグカップが畳の上に散乱した。
(は、離れねェ……、と……)
頭はまだ事態を理解できないまま、半ば本能で腹を押さえて後ずさる。
「っ……」
喉の奥からこみ上げてくる熱い塊を耐え切れずに吐き出す。
べしゃりと床に赤が広がり、口の中に鉄の臭いが溢れた。
手にベッタリとついた血は生温かった。
(嘘だ……ろ……?)
何もかもが信じられなかった。
ただ、じわじわとトレーナーを染めていく血と痛みで、かろうじてこれは「現実」なのだと頭のどこかでわかっている自分がいる。
「お兄ちゃん……、今までありがとう……。もう楽になっていいんだからね……」
詩織はヒタリと足を踏み出した。
割れたマグカップを踏みつけているのに、顔色一つ変えない。
「なに、言って……」
ひたひたと歩く姿は存在感がなく、幽霊が近づいてくるようだ。
目も前で止まった詩織は腹を押さえ、蹲ったままの一真を見下ろした。
その眼には何の感情も浮かんでいない。
「おやすみなさい……」
静かに伸ばした腕がビキッと音を立てて変形した。
手だけではなく腕までもが平たくなり、人の腕の形を失い――、包丁ではなく、刀のように長い刃に変わっていく。
本能が「逃げろ」と告げているが、体は重くて動かない。
血まみれの刃が振り下ろされるのがスローモーションのように見えた。

チッ

暗い部屋の中で黄色い火花が散った。
一瞬、目が眩む。
(なんだ……、今の……)
チカチカする視界の中、詩織と一真の間に七夕の短冊ほどの大きさの紙が一枚、浮かんでいた。
詩織の右腕は符に触れる寸前で止まっている。
「これって……」
それはテレビドラマや映画で陰陽師がよく使う符に酷似していた。
黄色い光を放って宙に浮かぶ符から右腕を退き、詩織は一真の後ろを眺めた。
「……そなた……、この地の鎮守か……?」
「詩織……?その声……」
妹の口から出たのは、男とも女ともつかない、濁った声音だった。
目の前にいるのは、本当に妹なのか――?
そんな疑問が頭の片隅に浮かんだ。
「ええ。わざわざ僕がいる場所で憑依するなんてね……」
背後で場違いなおっとりとした口調が答えた。
「先ぱ……」
振り向き、一真は言葉を失った。
(え……?)
刀を手にした望の輪郭が赤く光を放っていた。
あの夜、五色橋で見た少年と同じ色に。
「ごめん。僕の判断が甘かったみたいだ……」
「先輩……?」
琥珀の瞳が詩織を見据えた。
その表情は硬い。
「体の武器化か……。紋が開いた途端、ここまで格が上がるなんて……。さすが匠の血筋だな……」
鯉口を切る音と同時に赤い光が横を通り過ぎた。

ガキィッ

金属同士がぶつかり合う音が天井に響いた。
「ウソ……だろ……?」
腹の痛みも忘れ、目の前で展開される光景を呆然と眺める。
日本刀を手にした望と、右腕を刀のように変形させた詩織と。
二人は刀を合わせ、睨み合った。

“炎よ……!”

望が咆えた。
赤い光が刀に変形した腕を伝わり、パジャマの袖を燃やしながら肩口にまで届く。
甲高い奇声と共に跳び退き、詩織は自らの右腕でくすぶる赤に左手で触れた。
「この……霊気……!そなた……?」
詩織は赤い光が燻る腕を大きく振った。
畳が焦げる臭いが鼻をつく。
肩まで焦げ落ちた右袖の下――、二の腕でVのような模様が濁った光を放つ。
鼓動を打つ心臓のように明滅を繰り返す模様は生きているようにも見えた。
望が床を蹴り、突きを放つ。
詩織も右腕を構えるが、望のほうが速い。

ズッ

刀へと変化した右腕を望の刀が貫いた。

ボッ

刀を通じ、赤い光が右腕を這う。
「きゃああああああああああああああああっ!?」
口から飛び出したのは、濁った化け物の声ではなく詩織のものだった。
耳を劈くような悲鳴に咄嗟に体が動いた。
気づけば、詩織を刀から引き剥がして後ろに庇い、望の前に立ち塞がっていた。
「一真君……」
「な、なにやってんだよ!?日本刀なんか振り回して……!殺す気かよ!?」
柔和な顔に少しの戸惑いが浮かんだが、すぐに消えた。
「どいてくれる?」
「先輩いィ!」
背後から忍び笑いが聞こえた。
「つくづく、人間は愚かよのう……。これしきの声真似でほだされるとは……」
「詩織!?」
白が灯る瞳は暗がりではっきりわかるほど嘲笑っていた。
ウサギ柄のパジャマの胸元に腕と同じ色の光が雨雲のように集まり、人の顔を形作った。
しかし、顔には目と鼻がなく、口だけがニュウッと開いた。
「ありがとうね、お兄ちゃん。もう用済みだから死んじゃっていいよ」
開いた口から詩織の声と、詩織の口調が滑り出した。
ゾッとするのを抑え、妹に手を伸ばした。
何故、そんなことをしたのかわからない。
一真を振り払うように詩織の右手が大きく横に薙いだ。
「いけない!離れて!!」
後ろから誰かが腕を掴み、詩織から引き離した。
両手にピリリッとした痛みが走る。

グワッ

「ぐっ」
灰色の霧が吹きつけた。
息がつまり、喉がピリリと痛む。
霧の中から蛇のようなものが飛び出し、大きく口を開けた。
(あーー、これが……)
――噂の「蛇」か……
ぬらりと光る牙を見て思ったのは、それだけだった。

“十二天が一、勾陣!”

庇うように前に出た望が黄色く光る符を手にしている。
次々に起こる非現実すぎる展開に頭がついていかない。
(しお……り……)

刺された傷の痛みと息苦しさに意識がどんどん遠のいていった。