春宵の邂逅

14話



「消えない……、これ、消えないよぉ…」
夕闇が満ち始めた部屋の中にすすり泣く声が響いた。
「どうしよう……」
詩織はパジャマの袖を捲り上げ、しゃっくりあげた。
昨日の夜から表れた「これ」は消えるどころか濃くなっていく。
痣やホクロの類でないのは形と色から明らかだ。
「紋様」、「文字」――、そんな言葉がぴったりするかもしれない。
「どうしよう……、変な病気になっちゃったのかも……」
紋様はドクドクと脈打ち、熱を帯びている。
脈打つたびに、目に映る世界が変わっていく。
自分が自分でなくなっていくような感覚にフルフルと頭を振った。
(お兄ちゃん……)
いくら兄でも、こんなものが腕に表れた自分を見れば気持ち悪いと思うだろうか。
いや、そんなはずはない。
そんなはずはないと思いたい――!
(お兄ちゃん……!)
もしも――、気持ち悪いと思われたら?
兄は詩織の前では何でもないように振舞うだろう。
傷つけまいとしてくれるだろう。
だが――、きっと、わかってしまう。
ずっと一緒にいたのだから。
「ダメェ……!言えないよぉ……!!」
新しい学校に馴染めなかった自分と違い、兄は大坂という土地にすぐに順応し、友達も沢山いた。
高校だって、推薦の話が来ていたのを断って詩織の為に槻宮学園を受験してくれたのだ。
本当ならば今頃、ゴミ屋敷の掃除も金物屋の店番もする必要などなく、大坂で春休みを満喫していたはずだった。
それを台無しにしてしまったのは詩織だ。
何も言わないが、きっと無理をしている。
これ以上、迷惑などかけられるはずがない。
いや、今度こそ嫌われてしまうかもしれない。
「どうしよう……」
光咲の顔が浮かんだ。
いつも優しい光咲ならば、相談しても大丈夫だろうか。
光咲は、前から詩織が腕を気にしているのを知っていた。
もしかしたら――。
「やっぱり、ムリだよぉ……」
あの時は、腕がムズムズするくらいで、こんなものは出ていなかった。
なによりも、この腕を誰かに見せることが怖くて仕方なかった。

コンコン、

誰かが窓を叩いた。

‘なにを泣いている……?’

聞いたことのない女の人の声が頭に響く。
不気味だとは思わなかった。
それほどに声は優しく、脳に染みた。
「消えないの……。変な模様が腕に浮かんで、消えないの……!」
どうして、兄にも光咲にも話せないようなことを見ず知らずの相手に話してしまったのか、わからない。
口が勝手に答えていた。

‘それはかわいそうにのう……。どれ、妾が消してしんぜよう……’

「本当?消せるの?」
藁にもすがる思いで窓の向こうに問いかける。
カーテンの隙間から覗くガラスに映る自分の目が淡く光った。
まるで、夜の中で光る獣の瞳のように――。

‘うむ……。開けてくれたらのう……’

催眠術にかかったようにフラフラと立ち上がる。
(よかったぁ……)
――お兄ちゃんや光咲お姉ちゃんにバレないで済むんだ……!
それだけが頭を支配していた。
カーテンを引くと、窓の向こうに顔があった。
顔の部分がつるっとしていて、目も鼻も口もない。
体は――、闇に同化しているのか、元からないのかわからない。
まさに「化け物」と呼べる風貌だが、気に留めることもなく詩織は小首を傾げた。
「約束したからね……!」
化け物はベタリと窓ガラスに顔をくっつけた。

‘おぉ、おぉ……’

声に歓喜が滲んだ。

‘なんと高貴な狼の匂いじゃ……!やはり、この近くにおる……!人の中に堕ちた、一門に通じる霊筋の御子が、そなたの傍におるようじゃ……!早く開けておくれ……、そなたが知る狼の名を教えておくれ……、さあ……’

急かせる声に頷く。
「ちょっと待っててね……」
ここが二階で、窓の外に人がいるはずがない――、そんな疑問は露ほども浮かばず、詩織は窓のカギに手をかけた。
少し固くなった錠を動かす。
「ん〜〜、んーーー……」
いつもは少し力を入れるだけで開くのに、今日に限って固い。
両足を踏ん張って手に力を入れる。
ギ、ギギ、ギギイ……
錆びた扉が開く様な音がして、錠が半分ほど回った。
部屋の外で軽い足音がした。

「詩織ちゃん?ココア持ってきたよ。起きられる?」

「光咲お姉ちゃん……?」
ハッと我に返る。
自分は今、何と話していたのだろう。
何をしていたのだろう。
(あ、あれ……?)
悪寒が走った。
ガタガタと震えながら、窓の外に目をやる。
「あ……、ああ、あ……」
そこにはのっぺらぼうが浮かんでいた。
ぼんやりと白い光を放って。

カタリ、

半ば開いていた錠が外れ、火花が飛んだ。
錠を中心に窓ガラスに文字のようなものがうっすらと浮かんで消える。

ズリ、ズリ……

窓が少しずつ開いていく。
詩織が開けているのではない。
外にいる誰かが開けているのだ。
「い、嫌……!嫌ああああああああああっ!!」
慌てて窓を押さえたが、強い力がガラスをスライドさせていく。
ねっとりとした風が部屋の中に吹き込んだ。
「詩織ちゃん?どうしたの?入るよ?」
「ダメェエ!入ってこないでェええええええええええええ!!」

叫んだ時には窓は開ききり、のっぺらぼうが顔の前に迫っていた――。