春宵の邂逅

13話



「詩織ちゃん、熱はないみたいなんだけど、眠いって……」
「そっか。やっぱ疲れてんのかもな……」
帳簿を開いていた一真は安堵の息を吐いた。
しかし、光咲は不安げに詩織の部屋がある二階へ続く階段の方向を眺めた。
「一真君、気づいてた?」
「何に?」
「詩織ちゃん、時々、右腕を押さえてたの。痛いのかなって思って何回か聞いたんだけど、『なんでもない』って言ってて……。うちに来た時にお母さんが診たことあったんだけど、本当になんともなってなくて……」
「そーいえば、今朝も腕見てたな……」
 部屋に行った時、詩織は上半身を起こし、パジャマの袖を捲っていた。
一真が部屋に入ろうとすると、慌てて元に戻していたが。
(あれ……?)
何かが引っかかった。
(あの時、詩織の腕に……)
何か痣のようなものがあった気がする。
部屋はカーテンが閉まっていて薄暗かったし、一瞬だったので見間違いかもしれないが、やけに気になる。
『直接会わないと断言できませんけど、おじいさんの見立てなら間違いないでしょう』 不意に数日前の望の言葉が浮かんだ。
(……そういや、兆って、どこに出てるんだ……?) そもそも、どういうものを「兆」というのだろう? 伸真は兆が出ていると望に話したのだという。
望はというと、詩織に直接会えばわかるという。
それはつまり、会えばわかるようなもの――、目に見える形で出ているということではないのだろうか? それとも、一真が想像もつかないような見分け方でもあるのだろうか。
(先輩だったらわかるんだろーけど……)
さすがに寝ている怪我人を起こすのは気が退ける。
頼まれていた六時半まであと二時間ほどだ。
その時に聞いてみればいいだろう。
「城田先輩は?お茶でも持っていこうか?」
「ん〜〜、貧血は治ったみてーだったけど。スゲエ寝不足だって言ってたから、寝てるだろーし……。起きてからでいいんじゃねェか?」
 光咲には望の事情は話していない。
店の前で貧血を起こしていたから客間を貸したと説明している。
口止めされているわけではないが、隠人と無関係な光咲は聞かないほうがいいはずだ。
「でも、ちょっとビックリかも。先輩と仲良かったんだね」
「いや、会ったの二回目だけどさ……、お得意様ってヤツみてーだし、放っといたら道で行き倒れてそうだからさ……」
「一真君、そういう人見たら放っとけないもんね、昔から」
「別にそーでもねーけど……」
「そうだよ。小学校の遠足の時なんて、途中で足挫いちゃった沖野君をおんぶして先生の所に連れて行ってあげてたし」
「あれは……、オレが班長やってたから、しょーがなしだって……」
「沖野君は別のクラスだったよ?」
「そ、そーだっけか?」
「五年生で一緒にクラスになった時、沖野君ってば、『君は命の恩人だ!これからの一年、僕を下僕と呼んでくれ!!』とか大声出しちゃって、一真君、困ってたもん」
「あ〜〜、んなことあったっけな。
いきなり土下座して泣き出すわ、先生とか周りの奴に変な顔されるわで、どーしようかと思ったっけな……。そうだ、沖野って、どうしてるんだ?」
「中学二年の時、同じクラスだったけど、あのまんまだよ。槻宮学園を受験したんじゃなかったかなぁ……」
「受かったのか?」
「ん〜〜、たぶん……。ご町内で槻宮学園受けた人多いから、他にもいっぱいいるんじゃないかな」
「へェ、じゃ、入学式で意外な奴と再会したりしてな」
「懐かしいからって、ここで会ったが百年目!とかやっちゃダメだよ〜〜」
「や、やらねェよ……!」
光咲はクスクスと笑い、金平糖を口に入れた。
「詩織ちゃんにココア持っていくね。一真君も飲む?」
「ああ、頼むわ」
左手でシャープペンを回しながら頷く。

キイーーッ

ガラスを引っ掻くような音に一真は顔を上げた。
(なんだ……?)

キーーーッ

キキィッ

針でガラスを掻いているような耳障りな音は、止むことなく聞こえてくる。
小動物の甲高い鳴き声のようにも聴こえた。
(……ネズミでもいんのか?)
思わず立ち上がり、部屋を見渡す。
台所と居間には窓がいくつかあるが、ネズミや猫の姿がなければ、誰かが窓ガラスを引っ掻いている様子もない。
「一真君?」
マグカップを手にした光咲が不思議そうな顔で振り返った。
「変な音しねェか?」
「音?どんな?」
「どんなって……なんつーか、耳が痛くなるみてーな……」
「そんなの、鳴ってる……?」
 約一分ほど光咲は耳を澄ませていたが、首を傾げた。
「別に聞こえないけど……。耳鳴りじゃないの?」
(止んだ……?)
 唐突に音が止んだ。
耳を澄ましてみても、先ほどの音はもうしない。
「悪い、何でもねーから……」
釈然としないものがあったが、椅子に座り直す。
聞き間違いかもしれないし、光咲が言う通り、耳鳴りかもしれない。
額にペタッと白い手が触れた。
「み、光咲!?」
 突然の柔らかい手の感触に慌てる。
大きな瞳がこちらをしげしげと眺めた。
「んーー、熱はないみたいだけど……、ちょっと顔赤いよ?一応、測っとく?」
「い、いらねーって!」
「え〜〜〜!?わからないよ?まだインフルエンザとか流行ってるし、どーせ予防接種受けてないんでしょ?」
「う……、よくわかったな。じゃなくて!インフルエンザだったら、とっくに熱出してるだろ!」
「それもそっかぁ……」
離れていく手を少し惜しい気分で眺めていた一真はあるものに目を留め、ガタリと身を乗り出した。
「どうしたの?やっぱり熱測る?」
「あ、いや……、それ、右の手の平……」
「手の平?」
不思議そうな顔で光咲は自分の手の平をしげしげと眺めた。
(消えた……)
何もない白い手の平に目を疑う。
「あ、これ?ココアがついちゃったみたいだね」
指先についたココアパウダーのことだと思ったのだろう。
光咲は流し台で手を洗い始めた。
(違う……、確かに、さっき……)

白い手の平の真ん中に、うっすらとしたホクロが不規則に点滅していた。
まるで、何かの信号を発しているかのように。