春宵の邂逅

3話



「九時半か……」
一真は橋の欄干にもたれかかった。
手を伸ばしてみても何も触れないし、足音ももう聞こえない。
家で待っている詩織のことを思うと、早くコンビニを探しに行かなければと思うが、その場を動く気分になれなかった。
「そーいえば……、こっちにいる時って、夜九時過ぎて外出たことってなかったな……」
四年前、家の門限は十八時だった。
一真の家だけでなく、光咲の家も、他のクラスメイトも似たような時刻だったから、さして不思議に思わなかった。
母に頼まれて夜にお使いに行ったり、塾に通うこともあったが、二十時半までには家に帰っていたように思う。
一度、塾の帰りに友達と遊んでいて、帰宅が二十一時前になったことがあったが、両親だけでなく、祖父母にもひどく叱られた。
「『夜九時からは鎮守様の時間』……だっけか……」
少し遅くなったくらいで、と唇を尖らせた一真に、両親だけじゃなく祖父母も口をそろえてそう言ったのだった。

『夜九時からは鎮守様の時間。
子供が外をうろついていたら、蛇に喰われる』

「んなわけあるか。ガキ扱いしてんじゃねーよ」と思いはしたが、両親と祖父母は真剣そのもので、その迫力に負けて渋々頷いたのを覚えている。
いつもは味方になってくれる祖母に叱られたのは、あの日が最初で最後だった。
それくらい、あの時ばかりは家にいた大人が皆、同じことを言って目を吊り上げた。
ただ、あれは浅城町限定の七不思議だったようで、大坂に引っ越してからは二十一時を過ぎて帰宅しようが、コンビニに行こうが、何も言われなくなったのだが。
結局、「鎮守様」が何だったのか。
あれ以来、何も言われないので、特に思い出すこともなく、今の今まで忘れていた。
「……帰ったら、ジイちゃんに聞いてみるか……。何か知ってるんだろーし……」
四年前ならばともかく、一真も春からは高校生だ。
二十一時を過ぎて外出していたところで、怒られることもないだろう。
元はといえば、祖父の生活破綻が原因なわけだし。
あれこれと考えていると、目の前の歩道でキキッというブレーキ音がした。
赤いママチャリが止まる。
「一真君……?」
「へ?」
いきなりの呼びかけに、一真は自転車に乗った人物をまじまじと見つめた。
(……め、めちゃくちゃ可愛い……!)
一人の少女が少しの不安と笑みが入り混じった表情でこちらを見つめていた。
ふわりとした橙がかった髪を耳の後ろでツインテールに纏め、タートルネックのセーターにハーフパンツ、すらりとした脚にロングブーツを履き、モッズコートを羽織っている。
年は一真と同じくらいだろうか。
(だ、誰だ!?こんな可愛い子、オレの知り合いにいたっけ??)
心当たりを探すが、思い当たる人物がいない。
大きなセピアの瞳が不安げに瞬いた。
「あの、斎木一真君……だよね?四年前まで、この辺りに住んでた……」
「あ、いや、そうだけど……、その……」
向こうは明らかに、こちらを知っている。
(く……、わ、わからん……!オレ、四年前は結構、目立ってたらしいからな……。学年違うヤツとかだったら、全然わからねェ……)
「お兄ちゃん、『伸さん家の暴れ馬』って呼ばれてるの?」
詩織がそんなことを聞いてきたのは、一真が四年生の時だっただろうか。
喧嘩っ早い性格と、言葉であれこれと語り合うのが苦手だったので拳で語り合っていたというだけの話だが、いつの間にか、そういうあだ名がついていたらしい。
もちろん、拳で語り合ったのは喧嘩に自信がある相手に対してのみなのだが、勝利した相手に上級生もいたせいか、当時、小学校内で有名人の一人だったらしい。
(オレより年上って感じじゃねェから……、一ッコ下くらいかもしれねェな……)
相手の名を思い出すのを諦め、一真は少女に向き直った。
「あ、あのさ、だ、誰だっけ?」
「え……?」
少女はサッと小さな顔を曇らせた。
春の風に癖毛がふよふよと揺れた。
(ん?)
激しい既視感が襲った時には、少女は泣きそうな顔で自転車を発進させていた。
「ご、ごめんなさい!人違いでした……!!」
少女はカッと赤面してシャカシャカと自転車をこぎ出した。
ほぼ同時に、一つの名前を思い出していた。
「ま、待て!光咲!北嶺光咲だよな!?」
叫んだ時には、自転車は橋を過ぎてしまっていた。
「オレが悪かった!頼むから止まってくれ、光咲ーーーーーーーーー!!」
知らない人が聞いたら痴話喧嘩中のカップルとしか思えないようなセリフを叫びながら、一真は必死に赤いママチャリを追いかけた。
急に復活した空腹で、いつもの半分くらいしか声が出ない上に足に力が入らない。
傷心中の光咲がようやく止まったのは、そこから二百メートルほど先の交差点だった。


「そんなに凄いことになってるんだ……」
「おうよ、もう勘弁してくれって感じだぜ……」
コンビニからの帰り道、自転車を押して歩く光咲と並んで歩きながら、一真は深々とため息をついた。
袋の中には、三人分の弁当と明日の朝食にお茶のペットボトル、インスタントの味噌汁、更には日用品まで入っている。
空腹に堪えるズシリとした重みも、食料だと思うと何ということはなかった。
「ったく、冷蔵庫に食いものなくて<信条>行ったら閉まってるし。光咲が通りかかってくれなかったら、オレも詩織も腹減って寝れねーとこだったぜ……」
「えへへ、ちょうどね、牛乳が切れちゃったんだ。まさか、一真君があんなところで黄昏てるって思わなかったけど」
「しょーがねーだろ……。頼みの綱のコンビニが潰れてたんだからさ」
「一年くらい前にね、今のうどん屋さんになったんだ。さっきの松本医院の裏のコンビニは、うどん屋さんができて、すぐ後くらいに出来たんだったかな……」
「たった四年で変わるもんだな……」
「一真君、私のこと、わからなかったもんね」
「悪かったって!だって、お前、背伸びてるし、な、なんか雰囲気変わってるし!わからねーって!」
光咲はプッと頬を膨らませた。
「ひっどーーーい!私は、すぐに一真君のこと、わかったのに〜〜!」
「すぐって……、オレって、そんなに変わってねェのか?」
光咲はこちらをしげしげと眺めた。
「四年前のまんまだよ?」
「ぐ……」
この四年間で背もかなり伸びたし、顔つきも大人ぽくなったと思っていたのだが。
四年間会わなかった光咲がすぐに気づいたということは、自分で思うほど成長していないということなのだろう。
少し凹んでいると、光咲はクスクスと笑い出した。
「そんなに落ち込まないでよ〜〜。冗談だってば!」
「へ?」
「最初はね、ちょっと似た人がいるなって思って、通り過ぎたの」
光咲は悪戯っぽく笑った。
「でも、やっぱり似てるって思って、戻ってきたんだ。三回くらい往復しちゃった!」
「え?ま、マジか!?」
「うん、マジ」
「悪い、全然、気つかなかった……」
「難しい顔して考え事してたもんね。声かけるの、ちょっと迷っちゃった。戻ってくるなら、連絡くれたらよかったのに」
少し拗ねた表情に慌てて取り繕った。
「だ、だって、四年前なんて、毎日顔合わせてただろ!?よく考えたら、お前のアドレス知らなかったし、どーせ近所だからすぐに会うって思ってたし、家に電話するのも、ちょっと違うからさ……」
「なんてね、ちゃーんと連絡もらってたよ。一真君のお母さんから」
「か、母さんから?」
「うん。一真君と詩織ちゃんの二人だけで、春からおじいさんの家に下宿することになったから、よろしくって」
「初耳だぜ、それ……」
「あはは、そうなんだ。あと、槻宮学園に入学するから面倒みてやってねって」
「てことは、光咲も?」
「うん。槻宮学園。近いし、特別奨学制度に当たったからラッキーって。実は若菜もなんだよね」
「えーーー、オレ達もだぜ?二人とも当たったんだ」
「ホント!?」
槻宮学園には一風変わった奨学金制度がある。
入試時にくじと称する封筒を一つ選び、校章が描かれた紙が入っていれば当たりで、合格後に提出すると授業料が半額免除される上に寮も無料でついてくるというものだ。
奨学金のくせに成績は一切関係ないという謎の制度だが、槻宮学園が人気のある理由の一つとなっている。
「寮はいらないよね。町内だし。辞退しちゃった」
「便利かもしれねーけどな。ジイちゃんの家のほうが落ち着くし、放っておいたらジイちゃん、野垂死しそうだしさ……」
「それ、わかる」
光咲は立ち止まった。
ちょうど、彼女の家の前だった。
「ね、一真君……」
「ん?」
「あと三ヶ月以内に人間じゃなくなるって言われたら、どうする?」
「は?なんだそりゃ?」
光咲は慌てたようにパタパタと手を振った。
「あ、ちょっと学校で流行ってて。一真君ならどう答えるのかなって思っただけだから!忘れちゃっていいから……」
「あ〜〜、そうだな、オレだったら……」
一真は少し考えた。
待っている間、光咲はポケットから金平糖を取り出し、口に放り込んだ。
コロコロと口の中で転がしているところは、小さな頃のままだ。
「別に、どうもしねェんじゃねーかな」
「え?」
「そりゃ、宇宙人みたいな姿になるってんなら何とかして阻止しようとするけどさ……。
今と同じ姿だったら何も変わらねーし、悩むだけムダじゃね?」
光咲は驚いたように耳を傾けていたが、右手をキュッと握り締めた。
「あは、一真君らしいなぁ……」
「なんだよ、それ?」
気持ちに区切りをつけるように一度瞼を下ろし、光咲は晴れ晴れとした顔で笑った。
「ね、明日、お家に行っていい?」
「……来るのは構わねーけど……。さっき言った通り、ゴミ屋敷だぜ?」
「だからね、一真君と詩織ちゃんだけじゃ、お掃除大変でしょ?春休みだし、手伝いに行ってあげるよ」
「……助かるけどさ……。マジで汚いぜ?」
「うん……。でも、二人で何とかなる感じでもなさそうだもん。お母さんが何回か煮物持って行ったりしたけど……、どんどん凄いことになってるって言ってたし……」
「……それは、スマン……」
どうやら、祖父は煎餅だけで生存していたわけではないらしい。
ご近所の好意で何とか食っていたのだろう。
生活破綻の挙句、孫に手裏剣を投げるような祖父だが、何故か昔から、ご近所どころか町内で妙に人望があったように思う。
「ううん、一真君のおじいさん、すっごく忙しいんでしょ?仕方ないよ。それに、あのお家にはお世話になったもん。ゴミ屋敷って聞いちゃったら、行かないわけにいかないよ」
「よく遊びに来てたもんな、お前と若菜とで……」
若菜は光咲の妹で、詩織の同級生だ。
小さな頃、両親が仕事の都合で不在なことが多かった光咲と若菜は、親同士、というよりも祖父母の代から親交が深いからと、祖父の家で預かることが多かった。
自然、一真と詩織とも仲良くなり、四人で遊んだり宿題をしたりと、一緒に過ごす時間が長かった。
詩織は光咲に懐いているし、一真も、光咲と若菜のことは幼馴染というよりも、兄妹や従妹といった感覚でいる。
「悪いけど、頼むわ。正直、オレと詩織じゃキツくてさ……」
光咲は笑顔で頷いた。
「じゃあ、明日ね。おやすみ」
「おう、おやすみ」
軽い足取りで家に入って行く光咲を見送り、一真は通りの端の祖父の家へと歩き始めた。
(忙しいって……。ジイちゃんって、そんなに忙しいのか??)
一真が知る限り、金物屋はそんなに繁盛しているわけではない。
祖父の仕事は包丁研ぎだと思っているくらいだ。
そもそも、今のご時世に金物屋がそんなに儲かるはずがないことくらい、一真だって知っている。
だが、時折、やたらと立派な身なりの人物が店の奥の客間に来ていたのを覚えている。
何か副業でもやっているのかもしれない。
「家片づけてから聞けばいっか。とにかく、メシだ、メシ」
袋の中で紙コップと紙皿が覗いた。
そこまで危険な状況ならばと、光咲がアドバイスしてくれたものだ。
ゴミ屋敷寸前の祖父の家、四年の年月が流れた故郷、奇妙な少年、思い出してしまった妙な七不思議……、いろいろなことがありすぎた一日だったが、最後に光咲と再会できたことで、重い気分が一気に軽くなった。
(明日、来るって言ってたよな)
光咲が来る前に、せめて廊下だけでも通れるようにしておかなければ。
いや、それよりも先に、<信条>に掃除用品の買い足しに行かなければ。
煤けていた未来が明るくなった気がして、一真は通りを一気に駆け抜けた。



軽快なチャイムの音が耳に届いたのは、台所の掃除があらかた終わった頃だった。
「光咲お姉ちゃんかな!?」
洗い終えた食器を片づけていた詩織が顔を輝かせて、インターホンに走っていった。
応対する声がみるみる弾んでいく。
誰が来たのか確認するまでもなかった。
「裏口開けてくるね!」
パタパタと詩織は裏口に走っていった。
ほどなく、裏口で昨日の声と、ハイテンションの詩織の声がした。
「お邪魔しまーーす!」
明るく入ってきたのは、紙袋を二つ手にした、作業着姿の光咲だった。
「こんにちは、一真君!手伝いに来たよ!」
「おう。えらく気合入った格好してきたな……」
「だって、ゴミ屋敷っていうから、これくらいしとかないとって。
お昼は?もう食べちゃった?」
「昼?げ、もうそんな時間か!?」
「そんな時間って、もう一時だよ?」
「ううお、時計見てなかったぜ……。
まだ十二時前だと思ってた」
「詩織も」
「あはは、やっぱり!」
光咲は笑いながら紙袋の一つに手を入れた。
「そういうところあったよね、昔から。一真君も詩織ちゃんも、何かに没頭したら時間の感覚がなくなっちゃうんだから。おばあさんから『伸真さんにそっくり』って言われてたよね〜〜〜」
「う……!」
兄妹の声がハモッた。
(言われてみれば、そうかもしれん……!ジイちゃんのこと、言えねェ……!!)
考えてみれば、父はまともに祖父と行動パターンが同じだ。
一真と詩織だと、若干、詩織のほうが祖父の血が濃いかもしれない。
「たぶん、そうだろうなって思って作ってきたの」
紙袋から姿を現したのは、ハイキングや花見に使えそうな大きな弁当箱だった。
テーブルに並べられていく弁当箱に詩織が歓声を上げた。
「すごーい!光咲お姉ちゃんが作ったの!?」
「お母さんも手伝ってくれたけどね」
一つにはおにぎり、残り二つの弁当箱にはおかずがぎっしりと詰まっている。
母親に手伝ってもらったとしても、あれだけのおにぎりを作るだけでも相当な労力だ。
「それと、これ、お父さんから」
「親父さん?家に帰ってんのか?」
「こっちで調べることがあるって。伸真おじいさんが大変って言ったら、これを足しにって」
渡されたのは、袋に入った煎餅の詰め合わせだった。
「……物凄く見覚えのある煎餅なんだが……」
「そうなんだ?おじいさんの好物って言ってたけど」
「……有難くジイちゃんの仕事場に置いとくって言っといてくれ」
「うん!」
不意に咳き込み、光咲はポケットから取り出したものを口に放り込んだ。
「大丈夫か?埃とか、だいぶマシだと思ってたんだが……」
「違うよ。ちょっと風邪気味なだけ」
詩織が不思議そうな顔をした。
「あれ?若菜ちゃんは?」
「……若菜は……、静岡のおじいちゃんの家に遊びに行ってるの。今月の終わりには帰ってくるんだけど……」
「そうなんだぁ……」
光咲の母方の実家は静岡だ。
お盆と正月に一真達がこの家に戻ってくるのと時を同じくして、光咲達は静岡に帰ってしまう。
祖母の葬式の時は、その静岡の祖父が倒れて重態だとかで光咲達は静岡に行っていて、仕事でこちらに残っていた彼女の父親が参列してくれた。
「一人で静岡行くって、さすが若菜だな……」
若菜は内気な詩織と対照的な活発な娘で、冒険好きだった。
正反対な性格のようだが気が合うらしく、学校ではいつも一緒にいたようだ。
「一真君達が戻ってくるって知って、ちょっと迷ってんたんだけどね。連絡もらったの、切符買っちゃった後だったんだ。帰ってきたら飛んでくると思うから、遊んであげてね」
「うん!」
しょんぼりしたものの、詩織はすぐに元気に笑った。
「じゃ、昼飯にしよーぜ!ジイちゃん呼んでくるわ」
二人が頷くのを確認して、一真はダイニングを出た。
「詩織、お茶淹れるね!今朝、お兄ちゃんと一緒に買ってきたの!」
「あ、手伝うよ、詩織ちゃん」
「いーの!光咲お姉ちゃんはお客様なんだから、座ってて!」
「そういうわけにもいかないよ〜。じゃ、私はお皿並べるね。こっちの使える?」
「うん!詩織が洗ったんだよ〜!」
「え、もしかして、ここの全部?」
「うん。でも、詩織、お皿は洗えるけど、お料理できないから……」
「簡単だよ。私が教えてあげようか?」
「本当!?」
(変わってねェ……)
聞こえてきた一真は笑みを浮かべ、仕事部屋へと向かった。

その日は前日と打って変わって、和やかな一日だった。