春宵の邂逅

2話



「本っっっっっ当〜〜〜〜〜〜〜〜〜に、すまんかった!!」
「それはもういいからさ……」
かれこれ五分、孫二人にひたすら土下座する祖父がさすがに居たたまれなくなった一真は、部屋を見渡した。とりあえず、場所を移した客間は居住区と比べるとかなり片付いているが、木箱がいくつも運び込まれていて、一真の記憶よりもかなり狭くなっている。
「十三日からカレンダー捲ってないってことは、ジイちゃん、もしかして、三日間、ずーーっと包丁砥いでたとか?」
「そうなるかのう……」
答える祖父の目はやや虚ろだ。
目の下に真っ黒なクマができている。
三日間、寝ていなかったとでもいうのだろうか。
同じことを考えたのか、詩織が恐る恐る祖父を窺った。
「その間、ご飯どうしてたの?」
「部屋に常備しておる煎餅をかじっとった……」
「煎餅って……、他には何食ってたんだよ?飯は……?」
「飯か……。最後にまともに食ったのは……、正月にお前達が来た時じゃったかのう……」
「ジイちゃん……、よく今まで生きてたよな……」
「自分で言っておいて何じゃが、わしも、そう思った……」
三人の深いため息が障子を揺らした。


「……オレ達には時間がねェ……」
期限が迫っている仕事が溜まっているという祖父を仕事部屋に戻し、一真は散らかり放題の和室を睨んだ。
元は客間の一つに使っていた記憶のある八畳の室内はゴミと洗濯物が溢れ、畳が見えない。
「ここだけでも片づけねェと……、今日、寝るところもねェんだからな……!」
この部屋を選んだのは、単に、布団が入っている押入れに着くまで、障害物が一番少なかったからだ。
「……お布団……、たぶん、湿気っちゃってるよね、お兄ちゃん……」
「ああ。キノコが生えてないことを祈るしかねェな……」
「うう、キノコは嫌あぁ……」
ゴム手袋とゴミ袋、ぞうきんを手にした詩織がガックリと肩を落とした。
栗色の髪はきっちりまとめ、お出かけ用のワンピースから、赤いジャージに着替えている。
出発前に、「万一の為に」と母が持たせてくれた掃除用品だったが、まさか、着いてすぐにフル活用することになろうとは。
持たせた母もビックリだろう。
同じく、緑のジャージに着替えた一真はマスクを装着した。
「行くぞ!詩織!!ジイちゃんは頼りにならん!!いないと思った方がいい!自分の手で寝る場所を確保するんだ!!」
「うん!!」
勢いよく雨戸を開け放つと、傾き始めた陽が差し込んだ。
押入れを開け、湿気で重くなった布団を引っ張り出す。
少しでも日光に当てたいが、こんな時刻では一時間でも当たったら良しとしなければならない。
背後では詩織がゴミ袋を二つ広げ、洗濯物と生ごみを分けてドサドサと放り込んでいく。
時折、洗濯物を生ごみのほうに入れているような気がするが、一真は妹を信じて見なかったことにした。
詩織が作った通り道を往復して布団を干し終え、一息つく間もなく自分もゴミ袋を手にゴミと洗濯物の区別に取り掛かる。
(ううお、エグっっっっっ!!)
変色しきったキャベツ、にょっきりと芽が出たジャガイモ、もじゃもじゃと根を生やしたサツマイモ、茶色く変色したばかりか乾燥しているネギ、箱いっぱいのカビが生えたミカン、異臭を放つ食い散らかされた缶詰……、ビジュアルと嗅覚への猛攻に真の思考はものの十秒で麻痺した。
ただ、機械的にゴミを袋に放り込み、口を厳重に縛り上げていく。
あらかた片付いて顔を上げると、無表情の詩織が荷物から引っ張り出してきた除菌ペーパーで畳の上をごしごしと擦っていた。


「ふう、寝るとこは何とかなったな……」
「うん……」
大掃除を始めてから数時間、すっかり暗くなった部屋で兄妹は寄り添ってへたり込んでいた。
天井から落ちてきた大量の埃に挫けかけ、動かない掃除機を怒りに任せて破壊しかけた一真を詩織が止め、タンスの下から這い出てきた巨大ムカデに詩織が半狂乱で逃げ惑ったりと、いろいろあった気がするが、疲れ切った頭で思い出すことも億劫だった。
せっかく干した布団を敷く気力もなく、開いたままの雨戸から星空をぼーっと見上げる。
「……お兄ちゃん……」
「ん?」
「お星さま、綺麗だね……」
「ああ……、暗いから、よく見えるな……」
陽が落ち、壁のスイッチを入れたが天井の照明は沈黙したままだ。蛍光灯が切れているらしい。
「寒くなってきたけど、毛布、隣のお部屋だよね……」
「そこまで考えないで隣の部屋にいろいろ押し込んだからな……。エアコンが動かなかったら、服着こんで寝るしかねーな……」
冷たい春の夜の風が吹き抜けた。一真は身震いして雨戸を閉め、仕事部屋から持ち出した懐中電灯をつけた。詩織がエアコンのスイッチを入れ、動いたことに安堵したのか、大きく息をついた。
「詩織達、どうなっちゃうのかな……」
「……大丈夫だろ。寝るところはあるんだし……」
ぐうっという音が重なりあった。
「……お腹空いたね……」
「ああ……」
そういえば、夕方に到着してから何も食べていない。
バッグの中に少しのお菓子はあるが、大掃除を終えた二人の空腹を満たすには程遠い。
「電気止められてるわけじゃねェし、冷蔵庫に何かあるだろ……」
懐中電灯を手に立ち上がると、詩織が後に続いた。
廊下の電気が普通についたことに小さな喜びを噛み締めながら、台所に向かう。
記憶を頼りにスイッチを入れると、ややチカチカしながら白い明かりが灯った。
(そういえば、ジイちゃんも見に行かねぇと……)
祖父は仕事を始めると寝食を忘れて没頭してしまうので、亡き祖母はいつも食事の時間になると呼びに行っていた。
幼心に、放っておけばいいのにと思っていたが、あれは祖父が生きていくうえで絶対に必要な儀式のようなものだったのだと、今になって悟る。
(炊飯器……埃被ってんな……)
恐らく、中はとんでもないことになっているのだろう。
何もかも明日に回し、一真は冷蔵庫の取っ手に手をかけた。
ひんやりとした冷気が漏れ、電球色に照らされた冷蔵庫内に食材らしいものの影が見える。
いろいろあったが、なんとか無事に今日という日を終われそうだ。
だが、その数秒後、一真は自分がまだまだ甘かったことを思い知らさることとなった。
「ぐわ、冷蔵庫の中のもん、全部賞味期限切れてるじゃねェか!!詩織!ゴミ袋だ!ゴミ袋持ってきてくれ!!」
「大丈夫!持ってきてるよ、お兄ちゃん!マスクとゴム手袋もあるよ!」
「おお、冴えてるぜ!」
「えへへ、すっごく嫌な予感したの」
何かが麻痺した会話を交わし、兄妹は冷蔵庫という名の強敵に突撃した。
「あ〜〜!これ、お正月に持ってきたお土産の羊羹だよ、お兄ちゃん!!開いてるところから渇いてカピカピになっちゃってるうううううううう!!」
「この卵と納豆、消費期限一月じゃねェか!まさか、正月に冷蔵庫に入ってた、あの卵と納豆か!?食わなかったのかよ、ジイちゃん!!」
「あああああああああ!お、お兄ちゃん!あの時のすき焼きの残りのお野菜が、奥で変な色のミイラになっちゃってるよおおおおおおおおお!!」
「なにいいいいいい!?ジイちゃんが後で煮込んで食うって言ってた野菜か!?」
「間違いないよ!お正月に、お母さんがお豆詰めてきたタッパーに入ってるもん!ちょうどいい大きさのお皿がなかったから、お豆のタッパー洗って、そこにお野菜詰めたの!」
「ダメすぎじゃねェか、ジイちゃん!」
「嫌ああああああああ!お餅に紫と黒のお花が咲いて、緑色の毛が生えてるうぅうぅう!」
「それ以上は描写するな!詩織!!物を食いながら、これを読んでる奴もいるんだぞ!!」
本日最後(?)の強敵に、兄妹の悲痛な叫びが台所に響いたのだった。



「ウソだろおおおおお!?」
一真は天を仰ぎ、頭を抱えて絶叫した。
町でたった一つのスーパー、<信条>はしっかりとシャッターを閉じていた。
シャッターに大きく書かれた、【営業時間十時〜二十時三十分】の文字に慌てて腕時計を確認する。
時刻は二十一時を少し過ぎたところだった。
「ま、マジかよ……」
だからといって、諦めて帰るわけにはいかない。
伸真はともかく、一真と詩織は空腹で眠れそうにない。
「確か、コンビニあったよな……」
四年前の記憶を頼りに、一真は大通りをとぼとぼと歩き始めた。


「マジか……?」
十分後、一真は呆然と立ち尽くした。
四年前、コンビニが立っていた場所は――、うどん屋へと変貌を遂げていた。
入り口にかけられた【本日定休日】の板がからころと肌寒い風に揺れる。
大坂からの旅の疲労と、部屋掃除の疲労が一気に押し寄せ、座り込みたくなるのを必死に耐えて踏み止まる。
ここで座り込んだら、いろんなものが折れそうな気がした。
重い足を引きずるようにして、なんとか大通りまで戻った。
「他にコンビニ……なかったよな……」
大通りにかかる五色の欄干によりかかり、ぼんやりと黒い川面を眺める。
家で帰りを待っている詩織を思うと、頭を抱えたくなった。
こんなことなら、昼間に食料も調達しておけばよかった。
まさか、自分の祖父があそこまで危険な生活を送っていたなんて……。
出発前の様子では、両親も予想していなかったに違いない。
祖母が亡くなったのは去年の秋だ。
正月に様子を見に来た時は、まだ父祖の生活破綻が本格化する前だったのだろう。
ここまでエゲつなくなかった。
「はあ、どうしたもんかな……」
今から市内へ出ていたら、帰りのバスがなくなってしまう。
祖父の家の自転車は空気がスカスカで使えないのは確認済みだ。
本日、恐らく最後にして最大のピンチに一真はがっくりと項垂れた。

ン、

「ん?」
小さな物音に一真は顔を上げた。
周りは静かな住宅街である。
人も車も特になく、音を立てるようなものは見当たらない。
だが、一真は耳を澄ました。
トンッという小さな音がまたどこかから聞こえた。
(なんだ……、足音?)
体育館で飛び跳ねるような――、それよりもずっと軽いような――。
空腹も疲労も忘れて、一真は音のする方向――、下を流れる川に目を凝らした。

トン、タン、トン!

真っ黒な川には何も見えない。
だが、音は止むこともなく、どんどんはっきりと聞き取れるようになってきている。
時折、水が跳ねたような音と金属がぶつかるような音が聞こえる。
(……近づいてきてねェか?)
音が大きくなるに従い、妙な違和感が大きくなる。
まるで、すぐそこに誰かがいるような――。
(なんだ!?)
何もない空中がぶれたような気がして、瞬きを繰り返す。
(この辺が……)
思わず左手を伸ばした。
「な、なんだ、こりゃ!?」
手は宙で止まっていた。
まるで、そこに巨大なガラスの板があるように手は何か硬い物に触れたきり、それ以上前へ伸ばせない。
水の中に人が飛び込んだような音と共に、足音が止んだ。
「く……、の、ヤロ……!」
やめればよかったのだが、何故か一真は手に力を入れた。
その先にあるものがどうしても見たかった。
いや、見なければならないような気がした。

リッ

急に手が熱くなり、掌を中心に波紋が広がった。
暗いだけの空間が石を投げ込まれた水面のように揺れる。
眼下にそれまでと同じ、夜の川原が広がった。
「え……?」
目を見張った。
それまで見ていたのと同じ景色の中に、ぼんやりとした赤が出現していた。
(え?人?人が光ってる?幽霊か??)
一真が異常さに自分の目を疑ったのは、その赤い光の中に人がいて、川の上に平然と立っていたからだ。
更に、刀のようなものを手にしている。
背を向けているので、顔はわからないが、赤い短髪と薄紫のパーカーにジーンズというラフな服装から若い男のようだ。
何かを探しているのか、時折、川の中に刀を突き刺しては首をかしげている。
いつの間にか、一真は食い入るようにその姿に見入っていた。
(誰だ……。あそこにいるの、誰なんだ……)
懐かしい誰かのような気がする。
全く知らない他人のような気がする。
真逆の感覚がぶつかり合い、頭がおかしくなりそうだった。
ふと、男のすぐ背後の川面が盛り上がり、黒いものがヌッと突き出した。
人かと思ったが、すぐに違うことに気づく。
黒い物体は拳を開くように、巨大な手のようなものに音もなく姿を変えた。
男は気づいていないのか、すぐ前の川面に再び刀を突き刺した。
「後ろ!!」
何かを思うよりも先に叫んでいた。
弾かれたように男は振り向き――、

バチッ

「痛っ!?」
手の痛みよりも、掌を弾いた火花に驚き、我に返る。
じわっと赤くなった掌に痛みが広がった。
「そ、そうだ!あいつ!どうなったんだ!?」
慌てて端から身を乗り出す。
橋の下を覗き込んでも、黒い水面に街灯の灯りが映っているだけだ。
人っ子一人いない。
先ほどと同じように掌を突き出してみても、スカスカと空気を押すだけだ。
目いっぱいまで伸ばしても、何かに触れることはない。
「確か、こっちから……!」
記憶を頼りに川原へ降りる階段を探し、駆け下りる。
自分が行ったところで、何ができるというわけでもないかもしれないが、このまま放っておくことなどできなかった。
「いない……」
川原には誰もいなかった。
川の中から突き出てきた手もなければ、あの刀の男もいない。
まだまだ寒さの残る三月中旬の夜である。
散歩をしている人もおらず、黒い川面が橋の上の街灯に白く揺れているだけだ。
サラサラと川が流れていく音がやけに大きく聞こえた。
「なんだったんだ……さっきの……」
川の上を通ってくる冷たい風を浴びていると、つい今しがた、自分が見た景色が夢だったようにも思えてくる。
だが、じんじんとした左手の痛みが夢ではないと訴えてくる。
(同じ年くらいだったよな……)
振り向きざまに見えた横顔は高校生くらいだっただろうか。
赤い髪に赤い眼をしていたので、日本人ではないかもしれないが。
「あ〜〜、くそ、なんか後味悪い……!」
一真が最後に見たのは、少年の背後から覆いかぶさるように襲いかかる黒い手だった。
少年が振り向いたのはわかったが、急激に人の身長の倍ほどに伸びた黒い手に隠されて、彼が難を逃れたのかどうかさえわからない。
すぐにでも川原に駆け下りてくればよかったと、今更ながら後悔が襲った。
「あのまま殺された、とかだけは勘弁してくれよ……、マジで……」
少年が立っていた川面には誰もおらず、黒い手のようなものもない。
川の真ん中に目を凝らしても、足場になりそうなものはなかった。
釈然としない気分を抱えながら、一真は再びコンビニ探しへ戻ることにした。